第2話 岡山

健一と浩二はその後網干をさりJR網干駅までタクシーで戻ってきた。そして広島行きの二日間有効の乗車券を改札件に入れ、ホームにくる電車を待った。


電車は相生で乗り換え、船坂峠を越えていく。この日は土曜日で、車内は週末を楽しむ人々で賑わっていたため、座席を確保することができなかった。立ったままの旅となり、二人は揺れる車内で少し疲れを感じ始めていた。


「人多いね。」と浩二がつぶやくと、健一はただうなづいて疲れた表情を浮かべた。彼はリュックの重さに少し後悔していた。もう少し荷物を軽くしておけばよかったと思いながら、足元のスペースにリュックを置いて少し楽になろうと試みた。車窓からはのどかな田園風景が広がり、時折、小さな町や村が現れる。景色は次第に変化し、岡山に近づくにつれて都会的な風景に移り変わっていった。


午後四時頃、列車は岡山駅に到着した。岡山駅は広く、モダンな設計が施されており、多くの人々が行き交っていた。健一と浩二は駅の広々としたコンコースを歩きながら、その活気に圧倒された。


「岡山、かなり変わったね。以前来たときはこんなに発展してなかったような気がする。」健一が驚きながら言った。


「本当だね。全然違う街になってる。」浩二も周囲を見渡しながら同意した。


健一と浩二は岡山駅から少し歩いた先にある「東横INN」へと向かった。健一が指をさして、「たぶんあそこが今日泊まる東横INNだよ。」と言いながら、ホテルの看板を確認した。そのホテルは駅からほど近く、ビジネスや観光に便利な立地にあった。


ホテルに到着すると、彼らはロビーでチェックインの手続きを済ませた。


浩二はホテルのエレベーターで「いまからどうする?まだ後楽園あいてるけど。今日はやめとく?」と少し心配そうに尋ねた。


健一は一日の疲れを感じていたようで、「そうだね。僕はもう疲れたよ。今日はもう休もうか。」と答えた。旅の疲れが彼の表情にも見て取れた。


二人はそれぞれの部屋にチェックインして、荷物を置いた後、短時間だけ休息を取ることにした。健一は部屋に入るとすぐにバッグから必要なものを取り出し、ベッドに横になった。健一にとっては妻が亡くなって以来ほとんど旅行なんかいくことはなかった。そのため、久さしぶりの旅行では体力の衰えをまざまざと突き付けられた。

「もう少し、普段から運動するか。」と健一はつぶやいた。


浩二も自分の部屋でシャワーを浴びた後、ベッドに座り、スマートフォンをいじりながら夕食のプランを考えていた。部屋の窓からは岡山の夕暮れが見え、都会の景色が彼を外へ誘っていた。しかし、この日はもう何もせずにゆっくり過ごすことに決めた。


夕食のためにホテルのロビーで再び合流した健一と浩二は、近くの居酒屋に向かうことにした。店の暖かい雰囲気の中、彼らは席に着き、注文した料理を待ちながら、深い会話に花を咲かせた。


「ねえ、最近考えるんだけど、年を取るってどういうことだと思う?」浩二がそっと話題を切り出した。


健一は一瞬黙って考え込んだ後、ゆっくりと答えた。「うーん、年を取るって、確かに色々なものを失うことだと思うよ。体力だったり、記憶力だったりね。でも、それと同時に、これまでの人生で得たもの、経験や知識、そして何よりも人との繋がりを深めることでもあるんじゃないかな。」


浩二は頷きながら、もう一口お酒を飲んだ。「そうだね。死に近づくっていうのは少し怖いけど、それを考えると、今をより大切に生きようって思うんだ。友達と過ごす時間、これがどれだけ価値のあることか、歳を取るごとに感じるよ。」


「確かにね。」健一が応じた。「僕も最近、時間の過ぎるのが早く感じるようになってきて、それがまた焦りを感じさせるんだ。」


「人生って、本当に不思議だよね。」浩二が笑いながら言った。


健一は、食事の進むにつれて、思いの重さを共有することを決意した。これには酒が思いの告白を手助けしたようだった。彼は少し沈黙した後、真剣な表情で浩二に向かって打ち明けた。言葉を発しようとすると健一は少し泣きそうになった。


「実はね、妻が亡くなってから、僕、死にたいと思ってた時期があったんだ。」健一の声は小さく、しかしはっきりとした重みを帯びていた。


浩二は健一の深刻な悩みを感じ取りながら、静かに言葉を選んだ。「健一、どれほど深い闇にいるか、少しでも聞かせてくれないか?」


健一は一瞬ためらいながらも、重い心の内を明かし始めた。「実はね、妻が亡くなってから、毎日が本当に辛いんだ。何をするにも彼女のことが頭から離れなくて、彼女がいない世界で生きる意味を見出せないでいる。毎朝目が覚めるたびに、どうしてまだ生きているんだろうって、自分に問いかけるんだ。」


浩二は深く息を吸い込み、健一の手を握りながら慰めの言葉を探した。「健一、そんなに自分を追い詰めないでくれ。君が抱えている痛みや悲しみ、それは想像を絶するものがあると思う。でもね、君が今ここにいる意味、それはまだこの世界に君の色を加えるためだと僕は信じているよ。」


健一は浩二の慰めの言葉を聞いたものの、内心では浩二の言葉がきれいごとのように感じていた。彼の心の傷は深く、単なる言葉では容易に癒されるものではなかった。


「そんなに簡単に心は軽くならないよ。」健一は低い声で、苦笑いを浮かべながら言った。「人間の心って、そう簡単に切り替えられるものじゃない。君の言葉が心地いいのは本当だけど、正直、すぐには納得できないんだ。」


浩二は健一の言葉に少し驚きながらも、彼の感じている現実を理解しようとした。「ごめん、健一。もっと考えがあるかと思ったよ。確かに、ただの言葉で全てが解決するわけではないよね。」


健一はため息をつきながら、もう少し深く自分の感情を掘り下げて説明した。「妻が亡くなってからのこの空虚感、失意…これらは時間が少しずつ癒してくれるとは言うけど、正直、今はまだその先が見えないんだ。毎日が、どう乗り越えていいのか分からない戦いのようなもので。」


食事の途中で、浩二の心中には複雑な感情が渦巻いていた。彼はこの旅行を、昔のように楽しく過ごす機会として計画していたが、健一の深刻な心境を聞くにつれ、内心では不満と苛立ちが募っていった。


もちろん、浩二は健一が何か心に重荷を抱えていることを予想してはいたが、実際にその重たい話題に直面すると、彼の心はイラつきに変わってしまった。彼はせっかくの休暇を、こんな重い話で消耗したくなかったのだ。


健一が昔は泣きながら酒を飲むタイプではなかったことを思い出し、浩二はますますフラストレーションを感じた。以前の健一は、酒を飲んでもその芸術家気質でどこか掴みどころのない人物だった。しかし今、彼は明らかに変わってしまい、その変化が浩二には受け入れがたかった。


「健一、昔はお前もっと違ったよな。もっと…自分の世界に生きていて、こんなに人に心を開かなかった。」と浩二は、少し声を荒げながら問いかけた。


健一は浩二の言葉に少し戸惑いながらも、深く頷いた。「うん、たしかに昔の僕はそうだったね。でも、人って変わるものだよ。特に、大切な人を失ったショックは、僕を根底から変えてしまった。それが今の僕なんだ。」


浩二は健一の答えに複雑な表情を浮かべ、しばらく黙り込んだ。最終的にはため息をつき、彼の気持ちを理解しようと努力することにした。「分かった、ごめん。急に変わったお前を見て戸惑ってしまっていたんだ。でも、こうして話してくれてありがとう。」


沈黙が続いた後、浩二が席から立ち上がり、切り出した。「もう部屋に戻ろうか。」彼の声には、その日の緊張感が少し解けた後の疲れが感じられた。二人はそれぞれに金額を出し合い、割り勘で支払いを済ませた。


ホテルに向かう道中、空気は少し気まずいままだった。健一は自分の心情を打ち明けたことについて、後悔の念に駆られていた。彼はずっと心の中で、「やっぱり打ち明けるんじゃなかったかもしれない」と反省していた。


ホテルのエレベーターの前で二人は別れを告げた。「また明日」と浩二が言い、健一は小さく頷いた。健一は自分の部屋に入ると、疲れ果てた体をそのままベッドに投げ出した。シャワーを浴びる気力もなく、ただベッドに倒れ込んだまま、静かに天井を見つめた。


彼の頭の中は、その日の出来事でいっぱいだった。浩二との会話、共有した思い出、そして自分の内面をさらけ出したことへの後悔。網干での時間が、今となっては遠い昔のことのように感じられた。


やがて、健一はベッドサイドのノートを取り出し、その日の出来事を日記に記録した。日記を閉じた後、健一はふと窓の外を見た。夜の岡山は静かで、街の灯りが遠くぼんやりと輝いていた。しばらく窓の外を眺めてから、彼は重い瞼を閉じ、ゆっくりと眠りに落ちた。


翌朝、朝食を共にするためにホテルのダイニングエリアで再び合流した健一は、浩二に向かって少し気まずそうに話を切り出した。「昨日はごめん、重苦しい話しちゃって。ちょっと気持ちが沈んでたみたいで。」


浩二は健一の言葉に笑顔で応じた。「いや、全然大丈夫だよ。そういう話もたまには必要だろう?お互いのことをもっと深く理解できるし、実はそういう話、僕もたまには必要だったんだ。」


健一は浩二の理解に感謝の気持ちを表しながら、ホッとした表情を見せた。「ありがとう、浩二。そう言ってくれると安心するよ。」


二人は朝食のビュッフェから色々な料理を取りながら、前日の重い話題から一転して、もっと明るく楽しい話題をしようと決めた。


朝食後、浩二が先に口を開いた。「じゃあ今日は何をする?とりあえず目的地は広島だから、そこまでで寄る場所を決めよう。」


「尾道とかはどうだろう。またも古い町並みとかになっちゃうけど。」健一が提案した。尾道の風光明媚な景色と古い町並みは多くの観光客に愛されている。


浩二は苦笑しながら答えた。「まあ、定番だね。俺、結構尾道は入ってるんだよ。あそこの坂と猫が好きでね。」


「それじゃあ、あんまり行かなそうなところに行ってみるか。昨日探したけど、金光なんかどうだろう?金光教の総本山がそこにあるらしいし。」健一が新しい提案をした。金光は一般的な観光地としてはあまり知られていないが、独特の文化的価値を持つ場所だ。


「まあ、お前らしい選択だな。」浩二は健一の提案に興味を示し、「そこなら行ったことないから行ってみたいかも。新しい発見があるかもしれないし」


「あ、待ってもっと行きたいとこあったわ。倉敷の大原美術館はどうしてもよりたい。」と健一は提案した。


健一の提案にすぐに賛同した。「ああ、大原美術館は良いね。倉敷に行くなら、絶対外せない。」


健一は熱心にうなずきながら、自分の芸術への情熱を語り始めた。「本当だよ、あそこのエル・グレコの『受胎告知』は毎回見るたびに新しい発見があって、感動するんだ。その表現の力強さといったらもう…。絵の中にある独特の緊張感と神秘性が、見る者を引き込むんだよね。」


「たしかにな。」浩二が笑顔で応じる。「俺もそこに行ったときは、その絵の前で時間を忘れてしまうくらい。エル・グレコの作品は、どこか超越的な美しさがあるからね。倉敷のその美術館自体がもう芸術作品のような場所だし、その雰囲気もすごく好きだよ。」


「そうそう、美術館の建物自体もあの古い町並みに溶け込んでいて、ちょっと異質だけどそこがまたいいんだよね。」健一が興奮気味に付け加えた。


健一と浩二は荷物をまとめて岡山駅を後にした。岡山を電車で出発してまもなくして倉敷に降り立った。


そしてさっそく倉敷の美観地区に向かった。空は曇りがちな倉敷の朝。古くからの白壁に囲まれた運河には、古びた石橋が架かり、その上を行き交う人々の足音が響いている。柳の緑が水辺に優しく揺れ、川を行き交う小舟には笠をかぶった船頭が静かに櫂を漕ぐ姿が見える。


「ここは本当に時間が止まったようだね。」健一が感嘆しながら言った。彼は運河を行き交う小舟を指差し、笠をかぶった船頭の姿を見ていた。


健一と浩二は倉敷の美観地区の運河沿いを散策していた。運河の周辺は美しい白壁の家々と古びた石橋で彩られ、その景色は訪れる者を魅了して止まない。浩二が手にしたカメラで、彼は白壁の建物と石橋のコントラストに特に惹かれ、その絵のような美しさを一枚一枚丁寧に捉えていた。


健一はしばらく周囲を見回し、観光客で賑わう風景を眺めながら、もう少し人通りが少なければと思い、「もう少し人が少なくなればもっといい絵がとれそうなのに」とぼやいた。


浩二はそれを聞いて笑い、「それじゃあもう少し早く来るべきだったな」と応じた。二人は日曜日の観光客でごった返す中、タイミングを見計らっては美しい瞬間をカメラに収めていった。


一通り風景を撮影し終えると、健一はカメラをしまいながら浩二に向かって言った。「ごめんお待たせ。では行こうか。」彼は満足げにその日の写真撮影を終え、二人は次の目的地へと足を進めた。


彼らは美観地区を後にし、計画していた大原美術館へと向かった。美術館の正面玄関は、ローマ時代のイオニア式に模した柱が特徴的で、その洗練されたデザインが訪れる者を歓迎しているようだった。私たちはチケットを売り場で買いさっそくその建築の中に入っていった。チケット売り場は少し並んだため、なかにも結構人がいると思われる。


健一と浩二は中に入るとさっそく、見るスピードの違いから別々に鑑賞していくことになった。健一と浩二は見るスピードの違いから、展示を別々に鑑賞することになった。浩二は目当てのエル・グレコの作品「受胎告知」を目指して素早く展示を進めた。一方健一は昔強いアーティストに対する強烈なあこがれがあった。そのため昔から美術館はよく行った。そのたび自分の中で理解するふりをする癖がついてしまった。それは滑稽であるが、彼が芸術が好きな気持ちは本当だ。だから、誰かに「あの絵はどこがいいの?」と尋ねられると、彼は具体的な答えを出すことができなかった。それでも健一は時間をかけて美を感じ取ろうとしていた。


しかし、その集中が途切れる瞬間があった。健一は美術館内をただ闊歩するかのように歩き回る高齢者のグループを見て、彼はいらだちを覚えた。彼らは作品をほんの一瞥するだけで、次々と移動していき、その様子がまるで散歩をしているかのようだった。


この光景は健一にとって、美術館の聖域が侮辱されているように感じられた。彼は美術を深く愛し、それぞれの作品に込められたアーティストの思いやメッセージを理解しようと努力している。それに対し、高齢者たちが見せる無関心な態度は、彼の芸術に対する尊重とは対照的で、ただの観光スポットとして美術館を扱っているかのように感じられた。


しかしその一方で、健一自身も時には作品の深い意味を完全に理解することに苦戦していることを自覚していた。彼は自分が高齢者たちと同じように、理解不能な作品の前でただ佇んでいるのではないかと思い悩んだ。この葛藤は、彼にとって美術鑑賞の経験をさらに複雑なものにしていた。


「もしかしたら、彼らも自分なりの方法で芸術を楽しんでいるのかもしれない。」と健一は考えを巡らせた。健一の心中は複雑な感情で満たされていた。高齢者の美術館の散歩は浩二が特定の作品に直行する行動と根底で同じであることに気づいた。どちらも、その人なりの美術館での過ごし方だった。


彼は思い至った。「もし浩二がエル・グレコの作品に直行する行動を取ることを受け入れるなら、高齢者たちが展示を素早く通り過ぎることも、同じように受け入れるべきではないだろうか。彼らもまた、自分たちのペースや興味に従って美術館を楽しんでいるのだから。」


そしてようやく健一は大原美術館の中をゆっくりと歩き、エル・グレコの作品「受胎告知」が展示されている部屋に足を踏み入れた時、その空間の一体感と静寂に心を打たれた。部屋の照明は巧みに調整され、中央に展示されている絵に自然と目が引かれるように設計されていた。壁の色と照明の柔らかさが、エル・グレコの作品の神秘性を一層際立たせていた。


この絵の中心はマリアと天使で、彼らの位置関係と姿勢は見る者に強い印象を与える。また、マリアの服のしわ一つ一つまでが緻密に描かれているのも、この絵の魅力を引き立てていた。背景は深いブルーと黄色が混ざり合った色彩で、神秘的で幻想的な雰囲気を醸し出していた。これら全てが絵画全体の調和を形成し、その一瞬を永遠のものとして刻んでいた。


健一は「受胎告知」の前で長い時間を過ごした後、絵の神秘性と美しさに心から感銘を受けていた。彼の心と魂を満たすほどの体験だったため、他の作品に対する関心が自然と薄れてしまった。健一はその後、美術館内をさまようが、すでに彼の心はエル・グレコの作品に留まっていた。


健一が美術館の出口に近づくと、浩二が出口の向こうで待っていて、スマホを触っていたが顔には明らかに不機嫌な表情が浮かんでいた。エル・グレコの「受胎告知」に心を奪われた健一と異なり、浩二は一緒に旅行に来ているのにそのことを考慮せず一人で来た時と同じように作品を鑑賞する態度をとった健一に不満を感じていた。そして昨日の居酒屋での打ち明け話のことを思い出してさらに怒りが増した。


「ようやくか」と浩二がぼやきながら言った。「俺たち一緒に来てるってこと忘れてない? 一人で美術館に来たわけじゃないんだからさ。」


健一は浩二の言葉を聞いて、その場で深く頭を下げた。彼は常に美術館での長時間滞在が自分のルーティンであり、それが常識だと思い込んでいた。しかし、その思い込みが、友人と共に過ごす時間の大切さを見失わせていたことに気づき、40歳にもなってまだ自分の趣味に没頭しすぎてしまう自身の子供っぽさに苦笑いを浮かべた。


「ごめん、浩二。本当に申し訳ない」と健一が改めて言った。「完全にその絵に夢中になってしまって、周りが見えなくなってた。君と一緒に来てることを考慮せずに行動してしまって、本当に悪かったんだ。」


「もう広島に行ったときの原爆資料館は二人で回ろう。」と浩二が言う。

浩二が提案してきた言葉に、健一はすぐに頷いた。「わかった、広島での原爆資料館は一緒にじっくりと回ろう。」


その後、二人は倉敷の街をさらに散策しながら、かつてはよく訪れたアウトレットモールの話になった。健一がちょっとした感傷に浸りながら言った。「あのアウトレット、昔はよく行ったよな。服を選ぶのが楽しみでさ。」


浩二は笑って応じた。「そうだね、あの頃は何でも新しい服が欲しくてな。でも、最近はなんだかんだで、そんなに服にこだわらなくなったな。」


健一も同意するようにうなずいた。「年を取ると、服よりも体験が大事になってくるみたいだね。今はアウトレットでショッピングするよりも、広島での原爆資料館のような重要な場所を訪れることの方が、ずっと意味があると感じるよ。」


「まあ、おっさんになると変わるもんだよ」


健一と浩二は倉敷から金光へと移動し、わずか10分ほどでその地に到着した。車を降りると、浩二がスマートフォンのグーグルマップを操作して周囲を確認し、「この辺りは金光教の施設が集中しているみたいだな。」と健一に伝えた。


健一は興味深そうに周囲を見渡しながら提案した。「じゃあ、まずは本部に行こう。それがこの宗教の中心地みたいだから。」


二人は金光教の本部に向かった。本部の入り口には、伝統的な日本式の木造門が設けられており、その雄大な姿が訪れる者を圧倒した。門は重厚な木材で構成されており、屋根は緩やかにカーブを描いて天に向かって優雅に伸びている。門には金光教本部と書かれた提灯が両脇に配置されていた。門に続く道は石段になっていて、それぞれの脇にはしっかりとした白い手すりが設置されていた。


健一は金光教の本部の門前でカメラを構え、何枚か写真を撮ったが、写真を確認する度に少し不満げな表情を浮かべた。彼はもっと荘厳な印象の写真を期待していたが、現実はその期待に少し届かなかったようだった。


浩二が彼の様子に気付いて尋ねた。「うまく撮れたか?」


健一はカメラを下ろしながら、苦笑いを浮かべて答えた。「うーん、微妙だな。ここは本部だから、もっと荘厳な感じの写真が撮れると思ってたんだけど、実際はちょっと期待外れだったよ。」


浩二は少し驚いた表情で、「そうか。ところで、中に入ってみるのはどうだろう? もしかしたら中はもっと素晴らしいかもしれないし、写真もいいのが撮れるかもしれないよ」と提案した。


しかし、健一は静かに首を振りながら言った。「なかはさすがにやめておこう。こういう宗教施設の内部は、信者じゃないと入るのは難しいかもしれないし、何よりも、尊重したいね。外観だけで充分だよ。」


浩二は健一の考えを尊重し、「なるほど、そうだね。外からでも十分この場所の雰囲気は感じられるし、無理して中に入ることはないか」と同意した。


健一と浩二は、金光教の本部を後にして、少し無言で歩いた。金光教の本部へ寄り道したことが予想外につまらなかったため、二人の間にはわずかながらの落胆が漂っていた。無言の沈黙を破ることなく、彼らはむなしく来た道を引き返し、比較的綺麗で最近リノベーションしたと思われる金光駅へと戻ってきた。


駅に着いて電車の時間を確認すると、次の電車まで少し時間があることがわかった。その隙間を埋めるために、駅近くで見つけた和菓子屋に足を運んだ。店のショーウィンドウには「金光饅頭」と書かれた標示があった。


金光饅頭はひとつひとつ丁寧に透明なプラスチックで包装されており、饅頭の表面には金光教のシンボルマークが印字されており、そのデザインが彼らの目を引いた。二人は何も言わずにその饅頭を手に取り、駅のベンチに座って、昼ごはん代わりに食べ始めた。


甘くて柔らかな饅頭を口に入れると、浩二はほっと一息ついた。「お茶が欲しくなる味だな」とボソッと言い、その言葉が二人の間の無言をやわらげた。健一も同意のうなずきを返しながら、しばしの沈黙を和菓子の味で慰められた。

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