失われた時代への哀歌
磯部 たつじ
第1話 突然の誘い
岐阜の自宅には、写真家である真田健一のアトリエがある。一面の壁には彼の撮った写真が飾られており、それぞれに健一の過去が刻まれている。しかし、最近の写真は少ない。健一のカメラは、妻を失ってからほとんど使われていなかった。その部屋の中で、彼は長身でやや痩せ型の姿で静かに立っている。そしてやや細めの顔立ちが特徴的だ。彼の髪は柔らかな波打ちがあり、少し白髪が目立ち始めていたが、それが彼の思慮深さを一層引き立てている。眼鏡は薄い金縁で、その奥にある深い茶色の目は、時に厳しさと温かさを併せ持つ表情を見せる。部屋の中で彼は、ほとんど動くことなく、静かに周囲を見渡し、一枚一枚の写真と対話するように目を留めていた。それは彼の孤独と寂寥感をより際立たせる光景だった。
岐阜の町は、静かで穏やかな生活が流れている。健一はその静けさの中で、日々を過ごしていた。しかし、心の中は常にざわついている。妻の笑顔を思い出すたび、彼の世界は色を失い、灰色の霧がかかる。
ある日の午後、健一がアトリエの片づけをしていると、電話が鳴った。画面に映ったのは、学生時代の親友、藤原浩二の名前だった。久しぶりの連絡に、健一の胸が少し高鳴る。
「久しぶりだね、健一。元気してる?」浩二の声は明るく、エネルギッシュだった。
「ああ、まあな。何か用かい?」健一は少し控えめに答えた。
「実はね、来月、山陽地方に写真を撮りに行くんだ。美しい場所がたくさんあってね。一緒にどうだい?」
健一は一瞬、言葉を失った。カメラを持って外に出ることなど、長い間考えてもいなかった。しかし、浩二の誘いに心が揺れる。
「そうか…、山陽地方か。少し考えてみるよ。」
電話を切った後、健一は壁に掛けられた写真を見つめた。それは彼と妻が京都を訪れた時のもので、二人が笑顔で写っていた。その写真を見て、健一はふと思う。もしかしたら、これは自分にとって新しい何かの始まりかもしれないと。
数日間、健一は浩二の提案を何度も頭の中で反芻した。彼の心は、希望と不安が交錯する荒波に揺れていた。窓の外を見つめながら、健一は自分の内心と静かに対話した。妻の死以来、彼は自分を守るためにカメラから遠ざかっていた。それは彼にとって、過去を直視しないための盾だった。
部屋の隅に置かれたカメラバッグは、長い間触れられることなく、ほこりを帯びていた。彼はゆっくりとそのバッグに近づき、手を伸ばしたが、直前で手が止まる。妻と共に撮った写真を見るたび、彼の心は重く沈んだ。
健一はアルバムを開き、妻が生前に彼に笑いかける写真を指でなぞった。その温かい記憶が、今は遠く感じられた。「彼女なら、どうするだろう?」彼は問いかけたが、答えは風に流れるようだった。
翌日、健一は近くの川へ散歩に出た。川のせせらぎは、彼の心を少しだけ落ち着かせた。水面に映る光がキラキラと輝き、彼の思考を映し出すかのようだった。
家に戻ると、健一は再びカメラバッグの前に立った。今度はためらうことなく、バッグを開け、カメラを手に取った。レンズを通じて部屋を見渡すと、すべてが違って見えた。彼は深呼吸をし、カメラのシャッターを押した。その音が、新しい始まりの合図のように感じられた。
その夜、健一は浩二に電話をかけた。「行くよ、浩二。一緒に山陽地方を撮りに行こう。」
浩二の声は明るく、心からの喜びが伝わってきた。「待ってたよ、健一。この旅、きっといいものになるから。」
私は岐阜駅から新神戸駅まで新幹線で向かっている間、健一が神戸に到着したのは、早春の晴れた朝だった。胸の中で心臓がドキドキと高鳴り続けていた。会社で働く中で人との交流には慣れていたが、昔からの友人との再会はまた異なる緊張感があった。特に浩二は、健一とは違い、独身のまま自由な生活を満喫しているように見え、彼自身とは異なる道を歩んでいるように思えた。
浩二は改札口で待っていた。彼は中肉中背で、運動をすることが好きなのか筋肉質な体型をしており、髪は短く切りそろえられ、いつも無造作にスタイリングされていた。その日も例外ではなく、彼の黒髪はやや乱れているように見えたが、それがまた彼の自由奔放な性格を表していた。彼の顔には、いつものような明るい笑顔が広がっており、その笑顔は周りを明るくする力があるようだった。
健一を見るなり大きく手を振った。「健一!よく来てくれたね!」
「おっす久しぶり。」とぎこちなく浩二は挨拶した
「久しぶりに会えて嬉しいよ。まずは軽く食事でもどうだい?」
「いいね、それで少し落ち着こうか。」
浩二が連れて行ったのは、駅近くの小さなカフェだった。
「ここ俺の常連の店でさ。せっかくならお前がここの店にいるところを見たかったんだよ。」
「なんだよそれ。」健一は笑った。
浩二はカフェの小さなテーブルにコーヒーを二つ置きながら、健一の向かいに座った。
「ねえ、健一、最近の写真はどうだい?」浩二が会話を切り出した。
健一は少し間を置いてから、ゆっくりと答えた。「うん、実はね、あまり撮ってないんだ。」
「どうしたの? 以前はどんなに忙しくても、カメラを持って出かけるのがお前の生きがいだったじゃないか。」
健一はコーヒーカップを手に取り、ふわりと香る蒸気に顔を近づけた。「あの事故以来、何もかもが変わっちゃって…。写真を撮ることが、なんだか怖くなったんだ。」
「怖いって、どういう意味?」浩二は真剣な表情で尋ねた。
「写真を撮るたびに、彼女がいた時間に引き戻される気がして…。それが、時には耐えがたくてね。だから、しばらくカメラから離れていたんだよ。」
浩二は一瞬何も言わず、ただ静かに健一の話を聞いていた。そして、やさしく言葉を選びながら話し始めた。「俺にはその気持ちはわからない。なんたって俺にはこだわりというものがないからな。けど失ったものの悲しみは理解できるよ。」
健一は視線を海に向けた。海は静かで、波の音だけが耳に届いていた。「でも、もう一度トライするのが怖いんだ。失いたくない記憶ばかりがカメラには詰まっているようで…。」
浩二の言葉は、ほんの少しの沈黙の後に続いた。「だからさ、俺はお前がカメラを手に入れたときの顔が好きなんだ。それはまるで、全ての重荷を下ろして、ただ純粋に世界を楽しんでいるように見えたからさ。」
健一は深く息を吸い込んでから、ゆっくりと息を吐いた。「確かに、カメラを持っているときは自分でもそう感じるよ。でも、それが今は…」
「分かるよ、健一。でもね、それがお前の才能で、お前の見せ方なんだ。お前が撮る写真には、いつも何か特別なものがある。それが多分、お前の感情が込められているからだと思うんだ。」浩二はカップから一口コーヒーを飲み、穏やかな表情で続けた。
食事の後、二人は異人館の近くを散策しながら明日からの旅行計画について話し合った。山陽地方で訪れたい名所や仕事の話で盛り上がる。とりあえず今日は岡山のビジネスホテルに泊まることは確定した。
列車は山陽本線をひた走り、数時間後、網干駅に到着した。網干は兵庫県に位置し、その小さな港町としての魅力は、かつて健一と浩二が大学生だったころに自転車で京都からこの地まで旅した際の思い出と深く結びついていた。
「たぶんこっから南に下ったところにあるよな?あの思い出のマクド。」
「あの日、本当に無茶したよな。」浩二が言いながら、健一の肩を軽く叩いた。「京都から自転車で来るなんて、今考えると若気の至りだ。」
そして、健一が提案する。「あのマクドナルド近くまで行ってみるか?」
「もちろん。」浩二は即座に賛成した。彼の顔には冒険を始める前の子供のようなわくわくした表情が浮かんでいた。
浩二が距離を確認しながら健一に向かって言った。「ここまで三キロぐらいあるけど、どうする?歩く?」
健一は少し考えた後、笑って答えた。「いやさすがにタクシーで行こう。」
「やっぱりそうするか。」浩二は軽く笑いながら、近くに停車しているタクシーに手を振った。タクシーはすぐに二人のもとへと近づいてきた。
二人がタクシーに乗り込むと、健一は運転手に目的地を告げた。「あの国道250線まで南下してください。そして山陽網干付近で降ろしてください。」タクシーは駅を後にし、網干の街を抜けて南へと向かった。
健一はリュックサックから水のボトルを取り出し、キャップを外した。彼は小さく一息ついてから、水を数口おいしそうに飲んだ。喉を潤す冷たい水の感覚が心地よく、彼はほっとした表情を浮かべた。
車内での浩二と健一の会話は、長い間離れていた後の再会で語り尽くした感があり、すでに二人が話したいことはほぼ話し終えていた。そんな中、浩二は窓外の景色に時折興奮しながら、何かを指差しては健一に見せていた。健一はそのたびに頷いたり、笑ったりしながら、浩二のコメントに耳を傾けていた。
タクシーを降り、網干駅近くの懐かしい景色を前に、浩二が辺りを見渡しながら言った。「そう、この道、少し変わったような気がするけど、なんとなく覚えているわ。ほら、あそこにマクドがある。」彼の指差す方向には、確かに網干のマクドナルドが見えた。
健一は、少し先に見える揖保川にかかる橋を指さしながら言った。「あっちから先がまだ未知のエリアだね。以前はあそこまで足を伸ばさなかったから。」
浩二はスマートフォンを取り出し、Googleマップを開いた。「Googleマップによるとちょっとしょぼいかもしれないけど、歴史的な建造物があるって。健一、お前はそういうの好きだろ?」
健一は興味津々で浩二のスマートフォンの画面を覗き込んだ。「本当だね。どんな建物かな?こういう古いものからは、その地域の歴史を感じられるからいいよね。」
「そうそう、そんなに立派じゃないかもしれないけど、きっと見る価値はあるはずだ。」浩二が続けた。「じゃあ、そこに行ってみようか。少し歩くけど、歩いた分だけ楽しみも増えるさ。」
健一はニッコリ笑って頷いた。「そうだね、歩くのもまた一つの楽しみだ。行こう。」
健一と浩二が網干の古い商店街を歩いていると、昭和時代の古い日本の風情が色濃く残る風景が広がっていた。道沿いには、ひっそりと営業を続ける電気店があり、その入口には赤と白のストライプの日よけがかかっていた。日よけの下には、レトロな扇風機やラジオ、古いテレビセットなどが並べられ、店主のこだわりが感じられる品揃えだった。
その隣には、青白いストライプが目を引く小さな化粧品店があった。店の外観は、地元の気候に合わせた水色と白のペイントで飾られ、とてもポップなレトロさを放っていた。
更に進むと、アンティークの時計店が現れた。店のウィンドウには、職人が一つ一つ手入れを施した懐中時計や壁掛け時計が並び、それぞれの時計が独特の歴史を語っているようだった。時計店の隣には、昔ながらの婦人服店があり、そのショーウィンドウには流行遅れのドレスや帽子が飾られていた。
健一はこれらの店を見るたびに興奮を隠せなかった。彼は特に古い物や歴史的な背景を持つものに深い興味を持っており、それぞれのアイテムが語る物語に耳を傾けていた。彼はカメラを手に再び構え、電気店の古いラジオや化粧品店のカラフルなボトル、時計店の精巧な懐中時計を丁寧に撮影した。
街の中心に位置する旧網干銀行は、特に目を引く歴史的建造物だった。その建物は赤レンガと石柱で構成されており、重厚感あふれる外観が通りを行く人々の目を引いていた。この旧網干銀行は、かつての繁栄を今に伝える歴史の証人のようで、その存在感は圧倒的だった。
健一は旧網干銀行の建物をじっくりと観察しながら、最適な角度を探した。赤レンガのテクスチャー、石柱の細かな装飾、そしてその全体が放つ古びた雰囲気を完璧に捉えるために、彼は少し膝を曲げ、カメラを持ち上げた。
「いい写真が撮れそうだね。」浩二が隣で言った。彼の声は軽やかで、健一の技術に対する敬意を示していた。
健一はその褒め言葉に微笑み返しながらうなずいた。「そうだね。こういう建物は、どこを切り取っても絵になるからね。」
そのとき、浩二がレストランの前に立ち、そこに置かれたメニューボードを指差して言った。「ここ、いまはおしゃれなレストランになってるんだって。メニュー見てみる?」
「お昼そこで食べればいいじゃん。」健一が提案した。彼は古い建物が新しい使い方をされていることに興味を引かれ、どんな料理が提供されているのかも気になっていた。
「いいね、ちょっと豪華なランチを楽しもうよ。」浩二はメニューボードをさらに詳しく見ながら笑顔を見せた。
健一と浩二が旧網干銀行を改装したレストランの扉を押し開けると、彼らは一瞬でその雰囲気に圧倒された。店内は古びたレンガの壁と暖色の照明が織り成す温もりで満たされており、床には光沢のある木の床板が敷かれていた。まるでヨーロッパの古城に迷い込んだかのような装飾が施されており、アンティークな椅子やテーブルが並べられていた。それぞれのテーブルには洗練された白いテーブルクロスがかけられ、クリスタルのグラスや銀のカトラリーが整然と並べられている。
空間の奥に目を向けると、重厚感のある大きな時計が壁にかかり、その下にはクラシックなバーカウンターが設置されていた。カウンターには上質なボトルが並び、背後の鏡がそれらを美しく映し出している光景は、まるで映画の一場面のようだった。
「これはすごいね…」健一が感嘆の声を漏らした。彼の目は、店内の細部に至るまでのこだわりに惹かれていった。
「本当に素敵な空間だね。」浩二も周囲を見渡しながら同意した。彼らは選んだテーブルに着席した。
二人はそんな空間で、かつてないほどの心地よさを感じながら、メニューを手に取った。健一は店内のどの角度からも美しい写真が撮れると感じ、食事が運ばれてくる前に、彼は再びカメラを取り出して、このユニークな空間の一部を捉えようとした。
「ランチセット」は3,600円で、シェフ特製の前菜に始まり、本日の魚料理または肉料理が選べ、季節の野菜メドレーと新鮮なコーヒーまたは紅茶と共に供される繊細なデザートまで含まれていた。健一は魚料理に目がなく、「これは試す価値があるね」とコメントした。
一方、浩二は「手作りパイランチセット」に目を留めた。2,800円で提供されるこのセットは、サクサクのパイ生地が旨味たっぷりのフィリングを包み込み、それに充実したスープとサラダ、そしてデザートが付いていた。浩二は、「これはたぶん僕の好みだよ。パイ好きにはたまらないね」と興奮気味に言った。
最終的に、健一はランチセットの魚料理を、浩二は手作りパイランチセットを注文することに決めた。
「覚えてる?」浩二が笑いながら切り出した。「あのとき図書館で夜通し試験勉強して、結局どちらも寝坊してしまって、試験に遅刻しかけたこと。」
健一はその話を聞いて大笑いした。「あれは本当にヤバかったよね。君がコーヒーをどんどん淹れるから、眠れなくなっちゃって。」
「そうそう、でも何とか間に合って良かったよ。試験官の顔を見たときの安堵感といったらなかった!」浩二が言いながら、当時の緊張感を思い出しているようだった。
健一は鯛のフィレをフォークで切りながら続けた。「それにしても、あの図書館の後ろのカフェで食べたラーメンが美味しかった記憶がある。試験のストレスを全部忘れさせてくれる味だったよね。」
「本当だ、あのラーメンは神がかってたね。あそこの店、まだあるのかな?」浩二は少し懐かしそうに言った。
「もう変わってしまっているだろうね。京都も大分街並みが変わってきたから。」
「大学時代はよく深夜喫茶ではやとと健一と俺の三人でよくあつまってたよな。そういえば最近はやとと連絡とってる?」浩二はそう思いついたように言った。
健一は少し眉をひそめながら答えた。「いや、実ははやととは卒業してからほとんど連絡を取ってないんだ。みんなそれぞれ忙しくなって、自然と疎遠になっちゃったよね。」
浩二はうなずきながら、「そうだよね、みんながみんな、大学を出たあとで人生の道を歩むわけだし、なかなか難しいよね。でも、あの深夜喫茶でのセッションは本当に楽しかった。試験前のあの緊張感を忘れたくないし、何よりもあの時の友情は今でも僕の大切な宝物だよ。」
「ああ、まったくだね。」健一が答えた。「あの時のことを思い出すと、本当に若かったなと感じるよ。」
「そうそう、はやとの笑いはいつも場を和ませてくれたよね。」浩二が笑いながら追憶する。「でも、健一、時々は古い友達に連絡を取るのも悪くないと思うよ。人間、つながりって大切だからね。」
食事を終えた後、浩二はスマートに会計を済ませた。彼は二人分の支払いをさっと済ませてしまうと、健一に向かってにっこり笑った。「たまにはこういう贅沢もいいよね。」と彼は言いながら、テーブルから立ち上がった。
健一は少し申し訳なさそうに、「ごちそうさま、本当にありがとう。」と感謝の気持ちを表した。彼は自分が支払うべきだったかもしれないと考えつつも、浩二の気遣いに感謝していた。
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