第132話
その日は遅くまで、ガス被害者の治療に追われました。
残念な事に、彼等に対する有効な治療はあまりありませんでした。
外傷じゃないからか【癒】の効果も微妙で、酸素缶も気休め程度の効果しかありません。
意外にも抗生剤は有効でしたが、貴重な薬なのであまり多くは使えません。
心苦しいですが軽症な患者さんには「出来ることは無い」と告げて、帰って貰う形になりました。
その日のキャンプは吐物血痰が飛び交い、地獄絵図のようだったそうです。
「お疲れですね、トウリ義姉さん」
「リナリー」
久しぶりに大忙しだった晩を越え、朝になると。
相変わらずツンツンして表情の乏しい娘が、自分の病床に訪ねてきました。
リナリーです。
「おはようございます、自分に何か御用でしょうか」
「ええ。衛生部はお忙しいと聞いたので、少しお手伝いでもと思いまして」
彼女は昨晩も訓練を行っていたらしく、体に土と汗の臭いが残っていました。
……昨晩、通信兵は忙しくなかったのでしょうか。
「階級章と書類を受け取りに来ました。提出は、今日の正午までですよ」
「降格の件ですか。ありがとうございます」
リナリーはどうやら、自分の提出物を受け取りにきてくれたみたいです。
正直なところまだまだ患者が列を作っており、提出に行く余裕が無かったので助かりました。
「昨日の攻勢は、我々の勝利みたいですね。新兵器を使って敵を一網打尽にしたのだとか」
「ええ。……とても、残酷な兵器でした」
「義姉さんは勝利が嬉しくないんですか」
「敵とはいえ人が死ぬのが、どうにも」
リナリーは昨晩の勝利を、喜んでいるようでした。話だけ聞くと、完全勝利ですからね。
しかし自分はガス中毒者の苦しみを思い、手放しに喜ぶ気にはなれませんでした。
……戦争に参加してそんな事を考えてしまうのは、欺瞞なのでしょうけれど。
「そんな性格でよく、ロド兄さんとくっつきましたね」
「ええ、まあ」
ロドリー君が存命なら、迷うことなく今日の勝利を祝うのでしょうね。
彼は優しいだけでなく、敵を殺す覚悟もしっかり持っていました。
自分が優柔不断で、覚悟が無いだけです。
「これじゃ私が歩兵になる前に、戦争が終わってしまうかもしれません」
「そうあって欲しいものです、リナリー」
「……せっかく訓練を頑張ったのに」
リナリーはちょっぴり残念そうに、そう呟きました。
確かに彼女が歩兵になる前に戦争が終わりそうですが……。リナリーの努力は恐らく、無駄にはなりません。
「いえ。この時代を生きるなら、体力をつけておいて損はありませんよ。人攫いから逃げられる程度には走れないとまずいです」
「人買いなんて居るのですか」
「ええ、自分も拐われかけました。絶対に見知らぬ人を信用してはいけませんよ、リナリー」
「……本国はそんなに、治安が悪いんですね」
ずっと従軍していたリナリーは、今の国内の混乱ぶりを知らないのでしょう。
当たり前のように人身売買が横行しているとは思いませんよね。
「はい、これで書類は全てです。階級章もお返しします」
「確かに受け取りました」
そんな話をしながらも、自分は提出物を纏めてリナリーに手渡しました。
彼女はそれを無表情に受け取ると、中身を確認しました。
「ああ、それとトウリ義姉さん。ちょっと、お願いがあるんですが」
「何でしょう」
数十秒で確認を終えた後、リナリーは自分の顔を見上げて、
「また今度、お時間を取って貰っていいですか」
「時間、ですか」
「よろしければロド兄さんの話を、お聞かせ願いたいのです」
ちょっと照れたように、そう呟きました。
「私はまだ、ロド兄さんを許すつもりなどないのですけど」
「……」
「私たち家族を放ったらかしてまで、あの人が何を成し遂げたのか。それを私に、教えてくれませんか」
きっとそれは、リナリーなりの譲歩だったんだと思います。
未だに飲み込めないロドリー君への怒りを、消化しようという彼女なりの歩み寄り。
「分かりました。この鉱山への攻勢が終わり次第、時間を作りましょう」
「楽しみにしています」
リナリーは家族を悼む時間を持った事で、感情に整理がついてきたみたいです。
いえ。もしかしたら意地を張っていただけで、最初から自分にロドリー君の話を聞きたかったのかもしれません。
「その代わり、自分にもロドリー君の話を聞かせてくださいね」
「喜んで、トウリ義姉さん」
自分も、兵士になる前のロドリー君の話をもっと聞きたいと思っていました。
リナリーだけが知る、お兄ちゃんとしてのロドリー君。
面倒見の良い彼はきっと、良い兄をやっていたと思います。
「それでは、また」
「はい」
早く攻勢が終わって、彼女とゆっくりお茶でも飲みたいものです。
微かに笑みを浮かべ立ち去る義妹を、自分は手を振って見送りました。
この日も朝一番から、オースティン軍はガス兵器を使用しました。
山の麓の塹壕まで制圧を終えたオースティン軍は、山上に向けてガスを放ったのです。
ガス攻撃が高所の敵に効果が見込めないのは分かっていましたが、多少は被害を出すだろうと考えたのでしょう
あと、ガス兵器の使用期限は短いので勿体ないという理由があったそうです。
そしてこのガス攻撃も、きちんと成果を上げました。
フラメール軍は迫りくるガスを見て、パニックを起こし潰走したのです。
昨日ガス攻撃を受けた彼らは、黄緑色の煙を見ただけでトラウマを爆発させたのでしょう。
殆どガスは上がって行かないというのに、フラメール兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまいました。
……そんな残酷なガス攻勢の裏で。
「もう持たない。彼は見捨てて酸素缶外せ、他の助かる患者に使え!」
「了解です。……ごめんなさい、兵士さん」
昨日に引き続いて衛生部は、治療と処置に追われていました。
運ばれてきていた兵士が次々と急変し、いよいよ亡くなり始めたのです。
「オゲェ、おげぇえ! ヒュー、ヒュー」
「……乾燥
「無理、エッホエホ! 飲め、ない。口移しで、たの、む!」
「嚥下困難なら、管に入れて胃に注入しますね」
ガスを吸うと肺に少しずつ水が溜まってしまいます。これは肺水腫、と呼ばれる状態です。
そのまま放置しておくと、患者さんはやがて自らの体液で溺れ死んでしまうのです。
なので、
「衛生兵さん、おしっこ出そう! てか出る、トイレに行かせてくれェ!」
「重症なので動かれると困ります。し瓶を渡しますのでソコに捨ててください」
「あんまりだ!」
肺の水をおしっこにして排泄するのが、一番の治療になります。
抗生剤がガス患者に有効なのも、副作用で利尿作用があるからなのですね。
ただ抗生剤はとても貴重なので、途中から乾燥蒲公英を利尿薬として代用していました。
「はぁ、少し楽になった。さっきの乾燥蒲公英? よく効くな。もっとくれないか」
「飲み過ぎると毒ですよ」
実は蒲公英にも、利尿作用があるのです。しかも嗜好品として手に入りやすいので、代用品にはうってつけでした。
どこかの自称悪人の大好物だからか、軍内に結構な量の備蓄があったのです。
ただし腎臓に悪いので、飲み過ぎると死んでしまいます。飲みすぎ注意です。
そんなこんなで、朝から忙しく働いていると。
「おう、誰か衛生兵来てくれないか!」
「おや」
唐突に衛生部へ乗り込んできて、大声を出す人が居ました。
見ればまだ年若い曹長が、ズカズカとテントの中に足を踏み入れてきていました。
ガヴェル曹長です。
「どうかしましたか、ガヴェル曹長」
「すまん、俺の部隊に急患が出た。急を要するので、手早く対応願いたい」
「……。でしたら自分が向かいます。よろしいですかケイルさん」
「ああ、頼んだリトルボス」
本来であれば治療の順番はトリアージで決めますが、曹長級の治療要請は拒否できません。
ガヴェル曹長はトリアージを無視して、衛生兵を呼びつけられるだけの権力を有しているのです。
「準備出来ました、どちらに向かえば良いでしょうか」
「ついて来てくれ」
本当は忙しくて離れたくないのですが……。
自分は病床の事はケイルさんに任せ、ガヴェル曹長の部隊に急行する事になりました。
彼の隊は輸送任務に出発する直前で、ここから数㎞ほど北で一時停止しているようです。
……前線とは真逆方向ですが、何が有ったのでしょうか。
「これは……」
「すまん、教育のつもりだったんだ」
色々と疑問を浮かべながら目的地に到着すると、顔をパンパンに腫らした兵士が地面に横たわっていました。
激しい暴行の痕跡があり、ヒューヒューとか細い息をしています。
これは、まさか。
「悪いなトウリ、ちょっと部下を殴りすぎた」
「……」
……自分が呼び出された理由は、体罰の後始末でした。
しかも確かに、急いで治療しないと命に関わる状態でした。
「……」
「そんな目で見るなよ、俺が直接殴ったんじゃねぇぞ!」
自分はガヴェル曹長をギロリとひと睨みした後、すぐにその負傷兵に駆け寄りました。
顔面と肋骨の骨折、肩の脱臼に加えて気胸も起こしてそうですね。
……指導にしてもちょっとばかし、暴行が苛烈で雑すぎます。
「俺は、教育はほどほどで良いって言ったんだ。殴るのはあんまり好きじゃねぇし。だけどコイツが!」
「そう言う態度だから、新米がつけあがるんですぜ曹長。だがまぁ、確かに俺もやりすぎた」
そのガヴェル曹長の隣で、筋骨隆々の中年男性────手榴弾投げおじさんが申し訳なさそうな顔をしていました。
どうやら彼が、この指導の下手人の様です。
「この新米は、入隊時からやたら反抗的で手を焼いててな。今日もタメ口で『お前みたいなのに隊長が務まるか』って喧嘩売って来て」
「はあ」
「そしたらメイヴ……、そのおっさん教育が必要だって、タコ殴りにしちまったのさ。別に気にしてねーのに、やりすぎだっつの」
「とはいえ曹長、このままコイツを実戦に連れていけませんよ。いざ実戦になった時、命令に従わなかったらどうします」
「そりゃあ、まぁ。でも殺しかけることないじゃねーか」
その二人の会話を聞いて、何が起こったか大体理解が出来ました。
この反抗的な新米兵士さんは、態度を咎められ手榴弾おじさんに教育されたのでしょう。
それは決して嫌がらせではなく、『しっかり殴られた新米の生存率が上がる』から。
命令違反するリスクが減るので、怨まれてでも殴って教育する事が新米への愛なのです。
殴られる側からすれば、理不尽極まりない話なのですけどね。
「どうだ、助かるか」
「ええ、大丈夫ですよ」
そしてこの手榴弾投げおじさんは、さじ加減を間違えてしまったのでしょう。
西部戦線でも、似たような新米患者を沢山診ました。
……何もかも戦争が悪い、という事にしておきましょう。
「迷惑をかける。あんなに態度がでかい癖に、ここまで虚弱だとは思わなかった」
「以後、気を付けていただきたく思います。決して衛生部も暇では無いのです」
「今回は俺、ガヴェルの責任だ。悪かったよ。あー、トウリ衛生曹?」
「ええ。厳密にはあと1時間で降格ですけど、それで構いませんよ」
ガヴェル曹長は自分の目を見て、素直に謝りました。
この辺の若さと素直さが、彼の味なのでしょうね。
「治療にかかる時間は、15分ほどでしょうか」
「すまん、じゃあ任せた。……はぁ、後で報告書を書かねーと」
彼は「お前のせいだぞ」と言って手榴弾投げおじさんを蹴り飛ばした後、面倒くさそうに板と書類を取り出しました。
意外としっかり隊長をやっている……のでしょうか?
「お前が来てくれて助かったよ、トウリ衛生曹。お前の発言を記載した書類の方が、ヴェルディ様に通りやすい」
「……」
「本当に気に入られてるなぁ、お前。ムカつくけど」
最後のその発言さえなければ、もう少し見直したのですけどね。
それは思い返せば、まるで何かに運命を操られていたかのようでした。
太陽が真上に上り切る、ほんの少し前。
自分は、ガヴェル輸送中隊の駐屯するテントに出張していました。
朝早くから行われた、鉱山への2回目のガス攻撃。
前世では条約で禁止された、凶悪な殺人兵器による攻勢。
誰も何もしなければ、オースティンが快勝して戦争は終わっていた筈です。
ヴェルディさんも、レンヴェル中佐も。
あのベルン・ヴァロウでさえ、何事も起きずに鉱山攻略作戦が成功すると確信していた事でしょう。
たった一人で歴史を動かす事が出来る『天才』が、この時代に二人も生まれていました。
一人はオースティンの滅亡寸前から頭角を現して現在の優勢を築き上げた『悪人』ベルン・ヴァロウ。
そしてもう一人、民衆にも政府にも裏切られてなお、父の愛した祖国の為に働き続ける『愚将』シルフ・ノーヴァ。
……彼女が此処に居ると知っていれば、きっとベルンもこんな作戦を実行したりはしなかったでしょう。
ガス兵器の優れている点は、ただ安価で大量の敵を殺せることだけです。
この作戦には大きな弱点がありますし、それをベルン自身も気付いていたようですが……。
『フラメール如きにその弱点はつけないだろう』と言う慢心が有ったのでしょう。
オースティン軍参謀部も、ガス兵器をサバト軍相手に使うつもりはありませんでした。
この兵器で得られる優勢は一時的なもので、後々通用しなくなることが分かっていたからです。
もうすぐ終戦だから、敵が自分達より技術で大きく劣るから、今回は安価なガス作戦を採用しただけです。
前世でもガス兵器の寿命は、非常に短いものでした。
すぐガスマスクという対策が取られ、成果が上がらなくなってしまいました。
もしも条約で禁止されなかったとしても、すぐに廃れていた兵器だったでしょう。
そう。ガス兵器は、そもそも欠陥兵器なのです。
あくまで初見殺しの、一発ネタ作戦と言えました。
だからその1回を有効活用する為、オースティンは鉱山にたっぷり敵を集めたのです。
その初見殺しが通用しない相手が居ることを、考慮すらせずに。
「……っ!」
「何だ? 前が騒がしいぞ」
丁度、自分が処置を終えようかというタイミングで。
ゾクリと、全身が総毛立つような悪寒に襲われました。
「戦闘音だ。すぐ近くで誰か、銃を撃ちあってますぜ」
「馬鹿な。今日の作戦は銃を使わない筈だが……。敵が破れかぶれに突っ込んできたのか?」
久しぶりに感じた、死の感覚。
このままではヤバいという、本能からのメッセージ。
自分の中の誰かが、大声で騒ぎ立てている感覚。
「待て、火の手だ。ヴェルディ少佐の居る中央司令部に、煙が上がっているぞ」
「何だと!」
それらが自分の鼓動を早め胸を圧迫し、噴き出る脂汗が身の危険を警告していました。
「あ────」
「どうした、トウリ衛生曹」
我々ガヴェル輸送中隊は、前線からオースティン寄りの森林地帯に一時駐留していました。
敵が前線を突破してこない限り、ここまで銃声が聞こえて来る事はありえません。
「本部に連絡を試みたが繋がらない。……これは何かあったぞ」
「どうする、ガヴェル中隊長」
「……総員戦闘準備せよ、我々はヴェルディ少佐の無事を確かめに本部に戻る。場合によっては戦闘になるから、心の準備をしておけ」
ガヴェル曹長は、少し迷って本部に戻る選択をしました。
この周囲に敵が侵攻してきているなら、手持ちの兵力で輸送任務が完遂できるか分かりません。
どの進路が安全かも判断が出来ず、作戦を続行できる状況ではないと判断したようです。
「ガヴェル曹長、自分はどうしたらよろしいでしょうか」
「え? ああ、お前はついてこなくていい。戦闘に巻き込まれるとまずいから、衛生部に帰還してろ」
そんなこんなで急遽、ガヴェル輸送中隊は本部に戻る事になりました。
ついでに自分は、衛生部に戻るように命令されました。
「……此処は既に戦闘区域の可能性があります。出来れば、貴隊で自分を保護して戴けませんか」
「曹長、戦闘区域に衛生兵を一人で放り出すのはちと容赦ないですぜ」
「あー。じゃあお前もついてこい」
非常事態は団体行動が基本です。
この状況で一人衛生部に帰れとか、鬼畜過ぎるでしょう。
「よし、ヴェルディ少佐を救援に行くぞ。全員駆け足、遅い奴は置いて行くからな」
「「了解」」
こうして自分はガヴェル曹長の指揮下に入りました。
そして、自分がガヴェル輸送中隊に保護された事こそが、
「各員、前進!」
今後の自分の運命の、大きな分岐点だったのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます