第74話
アリア大尉の決死の奇襲で橋を落とした時。
サバト軍はまだ、フラメールがオースティンに侵攻した事実を把握していませんでした。
厳密には「オースティン領にフラメールが侵攻してきており、敵は窮地に陥っている」という情報自体はキャッチしていたのですが、その事実の裏取りが済んでおらず罠の可能性があるとして保留されていたのです。
彼らがこの情報が事実であると知ったのは、この奇襲から数日経ってからでした。
サバト軍に自らの窮地を悟られる前に、勝勢を決したベルン・ヴァロウ。
彼は少ない資源と限られた時間で、よくやったと言えるでしょう。
しかし、彼は初めてその戦略においてミスを晒しました。
オースティンにとって最後の命綱であった軍事物資を、敵の遊撃兵の前に無防備で晒してしまったのです。
まぁミスというより、資源的にどうしても手が回らなかった(本人談)そうです。
あの戦況でそんなことしないだろうという、固定観念もあったのでしょう。
たとえシルフが奇襲を成功させたとしてもサバトの「負け戦」はひっくり返らないし、失敗しようものなら味方からどれだけ糾弾されるか分かりません。
普通の参謀将校であれば、間違いなく躊躇う一手でした。
事実、この後オースティンは容易く北の橋の破壊にも成功し、サバトの退路を完全に断つ事に成功しています。
最期の希望である北橋が焼け落ちるのを見たサバト兵は絶望し、自ら川に飛び込み始めたそうです。
シルフの、北橋勢力の取ったこの一手は間違いなくサバト全軍を裏切るモノでした。
しかし、結論から言えば……。
この橋を放棄しての奇襲は最善手ではないだけで、決して悪い作戦ではありません。
むしろ「フラメールが参戦していない」という条件下で考えると、祖国サバト本土を守りうる唯一の手段に
『おい、撤退する際に橋に爆発罠を設置しておこう』
『……どうしてだ?』
『橋がまだあったら、味方はこの北橋を目指してきてしまう』
『それの何がいけないんで?』
『北橋までの塹壕はオースティンに確保されてるんだ、きっと大きな被害が出る。こんな少数しか渡れない橋で味方を撤退させるより、散り散りに逃げて潜伏させた方が生存率が良い』
川を渡る手段は橋だけではありません。
敵を撒くことが出来れば、数日かけて流れが緩やかな場所まで撤退し、サバトに帰還するという手段もあったのです。
そのオースティンの追撃を躱すためにも、敵後方の奇襲と資源略奪は有効といえました。
『むしろ、この橋を下手に残したら敵の進軍の足掛かりにされてしまう』
また彼女はサバト軍が、オースティン領で行った蛮行の影響をよく理解していました。
彼女はほんの少し前まで軍人ではありません。
だから味方兵士の行った残虐行為を理解できず、同時に『やり返されたらどうしよう』という恐怖を抱くようになったのです。
そして今サバトの敗北が濃厚となって、彼女はオースティン兵士によるサバト領土内の虐殺を恐れました。
国土を焼かれたオースティン軍は、食糧事情に厳しいと予想がつきます。
彼らが逆襲してサバトに攻め込んできたら、そこかしこの農村で略奪が行われることは必然でしょう。
『私たち軍人は死ぬのが仕事だ。だが、民はそうもいかん』
殆ど現場に立ったことがない彼女は、戦友より国民の命を重視していました。
そしてシルフ・ノーヴァは、もし橋を残したままサバトの主力が壊滅したら、オースティン兵がなだれ込んできて民へ蛮行に及ぶと考えたのです。
だから橋を敢えて壊させることで、時間を稼ぎつつオースティンの国内侵攻を防ぎたかったのだとか。
『オースティンの追撃を振り切った後、どこかで悠々と小舟を作って川を渡ればいいだけさ』
実際はフラメールが領内に侵攻しているので、我々がサバト領に攻め込む余裕などありませんでした。
そもそも、我々の対サバトの戦術目標は講和です。
残された物資的に、フラメールが侵攻していなかったとしてもサバト国内での戦争継続は不可能だったでしょう。
しかしシルフは、オースティンがサバト国土で『復讐』に走ると怯えていたそうです。
オースティン兵がサバトを強く恨んでいるのは事実です。
だから万が一オースティンが橋を破壊しなかった時の事も考え、持ち場を離れる際に爆発罠を設置までするほど徹底していたそうで。
撤退路を失った味方サバト兵の絶望なんて「私の警鐘を無視してまんまと水路を攻められた連中が悪い」と歯牙にもかけなかったのだとか。
つまりシルフは、ここで橋を破壊しオースティンの戦争継続能力を削ぐことが一番の国益だと判断したのでした。
その意見具申を聞いた北橋指揮官はシルフの策を受け入れ、実行に移してしまいます。
結論的にはこの一手は、無駄どころか双方の被害をただ増やしただけの愚策でした。
しかし、もしオースティンが彼女の読み通りサバト侵攻を目論んでいたとすれば……国土と民を守った一手だったかもしれません。
シルフが守る北の橋の近くに布陣していたのは、レンヴェル少佐の指揮する部隊でした。
敵の布陣の南方向をアンリ中佐、北寄りをレンヴェル少佐が固めるよう、オースティン軍は配置されていました。
……つまり。この時の、シルフの特攻の目標となったのは─────
自分も駐屯する、衛生部と軍事資源の倉庫を兼ねた拠点。
ドールマン衛生曹の率いる、新設されたばかりのレンヴェル軍衛生部の駐屯地でした。
その報告は、青天の霹靂でした。
「敵が、この拠点を目指して攻めてきています」
オースティンが一大攻勢に出た、この日。
昼前に哨戒に出ていたアレンさんが、大慌てでドールマン衛生曹の下に駆け込んできました。
「敵だと!?」
「すぐに撤退の準備を開始してください、これはヴェルディ中尉の指示です」
「……なんてこった」
実はこの日、我々は味方が決戦をしている等と知らされておらず、いつも通りに目の前の負傷兵と奮闘していました。
作戦が行われた日の夕方に詳しい戦況を教えていただけますが、リアルタイムの情報は中々入ってこないのです。
なので我々にとって「普段通りに仕事をしていたらいきなり敵兵が来た」という、かなり急な展開でした。
「敵の規模は?」
「複数師団、と予想されます」
「……司令部は何と言ってる」
「通信は妨害されており、連絡がとれません。おそらく、通信拠点を潰されたか……」
「はん、頼りない味方だ」
その奇襲報告に、衛生部のメンバーは大きく動揺しました。
レンヴェル軍の衛生部はほぼ全員、緊急徴兵された新兵です。
安全な後方勤務と聞かされて入隊したのに、いきなり殺されるかもしれない情況となれば仕方ないでしょう。
「もう、ヴェルディ中尉が動いています。まもなく、撤退が始まるので各自荷物をまとめてください」
「ようし分かった! 治療中止、各員集合せい! 歩ける負傷兵は、外で隊列を組め!」
しかしドールマン衛生曹は流石というべきか、動揺した様子すら見せず指示を飛ばしました。
自分を含めケイルさん、エルマさんなど小隊メンバーもすぐに荷物をまとめ始めています。
「衛生兵は抗生剤、秘薬だけ持ち出せぃ! 余計なものは背負うな、敵に追いつかれて殺されるぞ!」
「トウリ衛生小隊、準備を終え次第集合して下さい。点呼を行います」
「時間との勝負だ、トロい奴は容赦なく置いていく! 死にたくなければ急いで支度しろ!」
やはり、少しでも経験を積むと人間の動きは大きく変わります。
まだ混乱の最中にある新米衛生兵の多い中、トウリ衛生小隊の面々は凄まじい速さで整列を完了してくれました。
「点呼確認、全員集結したよリトルボス」
「ありがとうございます、ケイルさん。ドールマン衛生部長、トウリ衛生小隊は只今より味方の物資運搬を手伝います」
「おう、任せた」
新米が最適な行動をとれないのは仕方ありません。
こういうケースでは、ちょっとだけ先輩な我々が彼らの負担を減らしてやるべきでしょう。
「……衛生部の皆さん、聞いてください。私は、本拠点の指揮官であるヴェルディです!」
「中尉殿、来てくださったか」
そんな事を考えながら医療資源を取りに行こうとした瞬間、野戦病院のテントにヴェルディさんが割って入ってきました。
彼は青い顔をしたまま、周囲を見渡して。
「本拠点にある軍事物資の輸送を、衛生部の方々に手伝っていただきたい。輜重兵だけで持ちだすのは困難だそうです」
「……おう?」
そう、命令を下しました。
「ひ弱な俺達に、荷物を担いで逃げろと?」
「時間がありません、早く倉庫に向かって荷物を受け取ってください。既に輜重兵の方々は物資を運搬して、南方向へ撤退を開始しています」
そのヴェルディ中尉の言葉に、自分やドールマン氏は頭に疑問符を浮かべました。
衛生部の荷物は病院内にあります。倉庫にあるのは、食料や弾薬ばかり。
どう考えても、衛生兵が運ぶ資源ではありません。
「荷物って何だ」
「小銃・弾薬、魔石等です」
「そんなもん捨て置け中尉殿、大荷物抱えて撤退が出来るか! 兵の命と鉄屑、どっちが大事なんだ!」
「鉄屑に決まっています」
しかしこの時、温厚なヴェルディ中尉にしては珍しく鬼気迫った表情で。
「上官命令です。直ちに、医療資源をまとめた衛生兵を倉庫に向かわせてください」
有無を言わせぬ口調のまま、彼は自分たちに輸送部隊の真似をしながら撤退せよと命令を下しました。
「……おい、中尉殿! 目を覚ませ、しっかり正気を保て」
ドールマン氏はヴェルディさんの胸ぐらを掴み、脅すように睨みつけました。
普通、奇襲を受けて撤退となったのであれば物資なんて捨てていきます。
命あっての物種、死んだ兵士は生き返りません。しかし、失った銃や弾は作り直せばいいのです。
「私は正気です。繰り返しますドールマン衛生曹、上官命令に従ってください」
「……」
「これは私の判断です。今この拠点の倉庫に眠っている銃弾は、貴方達の命より重い」
しかし、この時のヴェルディさんは頑固として譲らず。
「ドールマン、貴方であれば分かるでしょう。……この鉄屑を無事に輸送しないと、オースティンに未来が無いことを」
そう言って、衛生曹を諭したのです。
我々の衛生拠点には、虎の子の資源がたっぷり積まれていました。
オースティン軍の全体の4割ほどの銃火器、銃弾、火薬、食料、医療物資がレンヴェル軍衛生部に併設された倉庫に保管してあったのです。
「この銃弾を失えば、壊走する敵を殲滅できません。オースティン領土内に、強大な武装集団を解き放ってしまう事になります」
今や、オースティン産の銃器は希少です。
領土内の実に7割以上の軍事工場は破壊され、残っているのはサバトが攻め込んでいない南部の工場のみ。
この生産力で、現在の軍の銃弾の在庫4割を失うのはあまりに痛過ぎました。
ドールマン氏もヴェルディさんも口には出しませんでしたが、この後フラメールとも決戦せねばならないのです。
本当に、この銃弾は我々の命より重たい『フラメール国境付近の市民の命』にかかわるものでした。
「だが、逃げ切れるわけが─────」
「私たちを信じてください。ヴェルディ中隊が、ここに残り皆さんの撤退を支援します」
無論、重い荷物を背負っての撤退が無策で上手く行く等とヴェルディさんは考えておらず。
「私たちの命を以て、皆さんを安全に撤退させて見せます」
彼はこの場所で、命を捨てる覚悟で戦う心づもりの様でした。
「目標は南軍の司令部にしましょう。南東方向に約8km、最寄りの友軍拠点です」
「レンヴェル少佐殿の中央拠点は? そこの方が近いぞ」
「……彼らは出撃していますので、兵が残っていません。もぬけの殻です」
本来であればここまで敵が攻め寄る前にレンヴェル軍が立ちふさがり、衛生部を分厚く守ってくれていたのですが……。
今日に限ってはオースティンの友軍はアリア大尉の特攻を補助し、敵主力の逃げ道を塞ぐために出払っていました。
なので、現状我々を守れる戦力はヴェルディさん達しかいなかったのです。
「ちゃんと時間を稼いでくれんじゃな、中尉殿」
「ええ、天命を尽くします」
「……、儂らの英雄を信じてみるか」
ドクン、と鼓動が早くなってきます。
彼の眼を見れば分かりました。ヴェルディさんは、ここで死ぬつもりの様でした。
彼はここで自らの指揮する中隊と共に、非戦闘員を逃がして殉職する気でした。
「さあ、時間がありません。各衛生兵はドールマン衛生曹の指示に従って行動を開始してください!」
「気合の入れ時だ、ひよっこども! 儂らの頑張りで祖国を救ってやるぞ!」
それは、つまり。
ここまでずっと一緒に戦ってきたアレンさんやロドリー君も、ここで命を落とすという事です。
……もう自分に残された、唯一の家族と言っていい彼らが、死んでしまうという事です。
「……ヴェルディ中尉殿。提案があります」
「どうしました、トウリ衛生兵長」
それだけは、嫌でした。
ロドリー君やアレンさんをここに置いて逃げるなんて、自分には耐えられません。
「撤退先として、南軍衛生部の拠点であるパッシェンを提案します。距離はここから約15km離れていますが、実際の移動時間は南軍司令部より短いでしょう」
「理由は?」
「南軍司令部に最短距離で到達するには、いくつか森林を突っ切る必要があります。体力訓練を受けていない衛生兵・看護兵が荷物を持って慣れていない悪路を進むのは難しいと思われます」
「ふむ」
「しかし目標がパッシェンであれば、ある程度整備された道を進む事が出来ます。荷車も有効に活用でき、より撤退がスムーズになるでしょう」
「……成程、一理ありますね」
これは、エゴかもしれません。
歩兵が足止めしている間に、後方へ資源を運ぶ。そんなのは至って、普通の戦略でしょう。
「そしてパッシェンへ撤退するのであれば、その撤退路の途中、パッシェンから5km程の地点にザーフクァ中隊が設置した塹壕があります。これは訓練用のモノで、本物の塹壕と同様の作りをしています」
「それは本当ですか」
「事実です。自分はザーフクァ隊の訓練に参加しておりましたので、塹壕の場所も把握しています」
ですが、少しでも生き残れる可能性があるのなら。
自分はその僅かな可能性の為に、全力を注ぎたいと考えてました。
「少し塹壕の位置が遠そうですが……」
「塹壕が設置されている付近に、通信拠点も設置されています。自分が把握している通信拠点の中では、そこが最寄りになります」
「……なるほど、確実に援軍を要請出来るのは良いですね。もし敵より先に塹壕に到達できれば、より確実に時間が稼げる。その提案を採用しましょう」
「ありがとうございます」
敵が間もなく、ここに進軍してきます。
ここからは時間との勝負。オースティンにとって虎の子の資源と衛生兵を撤退させる、皆で『生き残るため』の戦い。
それはきっと、自分が最も得意とする戦い方でした。
「────では、ヴェルディさん」
「何ですか?」
北橋の塹壕を分厚く守っていたサバト兵は、凡そ3万人強と言われています。
対する我らがヴェルディ中隊は、非戦闘員を合わせて数百人規模です。
戦闘にすらならない、圧倒的小勢でした。
進軍速度も、オースティン側が大きく劣っています。
訓練を受けたサバト兵と、普段以上の大荷物で慣れぬ悪路を行く衛生兵では、数倍近いスピード差がありました。
たとえヴェルディ中隊が陣地に残り、獅子奮迅の抵抗をしたとしても逃げ切れたとは思えません。
サバトの戦力的に、ヴェルディさんを足止めしつつ、別動隊を用いて我々を包囲するなど容易かったでしょう。
普通に撤退したのであれば、荷物を全て捨てていたとしても全滅していたと思われます。
だから、皆に生き残ってもらう為には。
「────自分に案内を、任せてもらっても良いですか」
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