第23話

「みんな、こっちだ! 湧き水だぞ!」



 シルフ攻勢の開始から、3日が経ちました。


 既に西部戦線は完全に崩壊し、前線付近の町では逃げ遅れた人が虐殺されている様です。


 彼らは、本来であれば我々軍人が助けるべき人達ですが、満身創痍で撤退中の我々にそんな余裕なんてありませんでした。


 何せ弾薬も装備も、尽きかけているのです。体力的にも、戦闘行動は難しいと判断されました。



 そしてガーバック小隊も、決して気楽に森の中を行軍していた訳ではありません。


 飢えや渇きと戦いながら、苔に覆われた倒木を乗り越え、睡眠も取らず森林内を3日間ずっと歩き通していたのです。


「本当ですか、アレンさん!」

「ああ」


 ガーバック小隊の面々は、みな倒れる直前でした。


 何せ不幸にも、3日間歩いてずっと水源に出くわさなかったのです。


 自分の持っていた生理食塩水の空き瓶を舐めあい、鉄帽に出した自分の小便をすすり、それでかろうじて動けていた状態です。


 あまりに脱水が激しかったからか、眩暈は酷くて吐く息が酸っぱく、足が鉛のように重くなっていました。


「水だァ! ヒャッハァァァ!!」

「だ、駄目です! ロドリー君!」


 ガーバック小隊長は『食料や水分を森林内部で自給自足』とおっしゃられましたが。


 いざ森林の中を進んでみると、思った以上に水分や食料の確保と言うのは難しいものでした。


 進行方向に川がポンポンあればよかったのですが……、残念ながら初日、2日目はどれだけ進んでも河川に到達しませんでした。


 そして3日目、手持ちの水分はとっくに尽きて行き倒れ直前に、ようやくアレン先輩が小さな湧水を発見したのです。


「ひ、久々の、水ゥー」

「ちょっと、ま、待ってくださ……」


 もう少し水源の発見が遅ければ、我々小隊は全滅している所でした。


 脱水と言うのは洒落になりません。


 あのガーバック小隊長ですら、唇は渇き目が落ち窪み、死人のような様相になっていました。


 尿を捨てるなという小隊長殿の命令がなければ、隊員に死者が出ていたでしょう。


 ここまで森林でのサバイバルが厳しいものだとは、思いもよりませんでした。


「誰も口を付けないなら、俺から飲むぜェ……」

「……ふん」

「痛ァ!?」


 そんな限界ギリギリの状況で、貴重な水源を発見して飛びついたロドリー君を小隊長の鉄拳が襲います。


 ロドリー君を止めてくださったのはありがたいですが、治療の手間を考慮して殴ってください。結構吹っ飛びましたよ今。



「ロドリー君、煮沸が先です。もし生水に中ったりしたら、我々は全滅です」

「……う」

「各員、土で竈を形成した後に、鉄帽を逆さにして水を溜めてください。口を付けて良いのは、沸騰した水を冷ましてからです」

「……はい」


 この森の水が感染微生物に汚染されていたら、洒落になりません。


 質の悪い下痢症にでもかかったら、部隊全滅もあり得ます。


 万が一を考え、一度沸騰させてから飲むのがベターでしょう。


「と言う事は、その」

「しばし休息だ」


 こうして我々は、3日ぶりに行軍を停止して休息を取ったのでした。





「あ、あつっ……」

「良く冷ましてから飲んでください」


 久しぶりに飲んだ水分は、本当に美味しいものでした。


 脱水で涙など出ませんでしたが、普段のコンディションなら泣いていたかもしれません。


 水分というのはここまで人体に重要だったのかと、改めて再確認できました。


「こうしてみると、衛生兵用の装備ってサバイバル向きなの多いな」

「ええ、傷口を焼く用のバーナーがあって助かりました」


 幸いにも、火種には困りませんでした。


 自分が持ち出した医療器具の中に、止血用のバーナーが有ったからです。


 更に生理食塩水を入れていた空き瓶が2つ、消毒液の小瓶、清潔な布や外傷用の軟膏など、極限状況で役に立つ物資がたくさん入っています。


 これは衛生兵が、最前線の塹壕で数日間の任務に耐えられるよう支給された装備だからでしょう。


 特に生理食塩水は、貴重な水分と塩分だったので助かりました。


 重たい生食を2瓶も入れるよう設定したゲール衛生部長に、感謝の念が堪えません。



「小隊長殿、少し寝ても良いでしょうか」

「駄目だ、想定より行軍が遅い。水を再度確保したらすぐ出発する」

「……了解です」



 そして水資源の補給が遅れたせいで、我々の行軍はかなり遅れていたみたいです。


 途中から皆、脱水でフラフラになって走っていましたからね。


 そりゃあ、進軍速度も落ちるってもんです。


「マシュデールについたら、補給が受けられるだろう。それまでの辛抱だ」


 結局、この時の我々が休息したのは数時間だけでした。


 後から振り返れば、この進軍速度では敵の侵攻ラインを越えているかどうかというギリギリだったみたいです。


 サバトは破竹の勢いで侵略を続けており、もしここで休んでいたら、森林から出た後に敵に囲まれて全滅していたかもしれません。


 そんな状況であったので、我々は疲れた体に鞭打って先に進まねばならなかったのです。







 因みに、森林内で友軍と合流することは出来ませんでした。


 我々以外の僅かな生き残り味方部隊はと言うと、多くは我々と同じく森林へ逃げ込んだそうです。


 しかし一部は森林に入らず、マシュデールまで平原を突っ走る選択をした部隊もあったそうです。


 敵の侵攻ラインさえ超えれば、平原を走った方が追いつかれにくくて安全という判断ですね。


 あるいは偵察兵が欠けて森林内で迷う事が予想されたり、獣に襲われる可能性を天秤にかけて、平原行軍を判断したのでしょう。



 そしてどちらが正解だった、というものはありませんでした。


 平原行軍した部隊は、短い期間でマシュデールまで逃げ延びたそうです。


 しかし、敵の侵攻線を突破する際に甚大な被害が出てしまい、壊滅した部隊も多くあったそうです。


 一方、森林行軍を選んだ部隊はマシュデール到着まで時間がかかりましたが、より生存者を多く保ってマシュデールに到達していました。


 ただ森林内で倒れたりあらぬ方向へ遭難したりと、こちらも全員が生き残ったわけではないみたいです。


 森を踏破する自信があったガーバック小隊長は、より自分の生存確率が高い方を選択したのだと思います。





 かくして撤退すること5日目、とうとう我々は森林地帯を抜けて交易路の整備された平原へとたどり着きました。


 この時の敵の侵攻ラインは、僅か7㎞後ろというかなり危ない状況でした。


 遠くに火の手が上がっている村落もあり、交易路には傷ついた市民や兵士達が真っ青な顔でマシュデールへと歩いています。


 間一髪、我々は逃げ延びることに成功したようでした。

 






「……こんな状況で、マシュデールに来ることになるとは」


 幼き日に、遠目に見たマシュデールの城塞。


 この『マシュデール』は自分の故郷であるノエルの近郊都市ですが、今まで1度も来たことはありません。



 ノエルはのどかな田舎町で、田園だけが広がる何もない場所でした。


 そんな田舎の孤児達にとって、都会であるマシュデールは憧れの場所でした。


 自分も友人と、いつかマシュデールで美味しいレストランで食事を取り、楽しい演劇を見るんだと夢を語った事もあります。


 その、幼い自分にとって憧れだった街に、こんな形で辿り着くことになろうとは思いもよりませんでした。



「あと一息だ。行くぞ」

「うお、やべぇ。あそこの村、燃えてる」

「思った以上に、敵の侵攻が早いですね」


 気を引き締めねばなりません。


 今日、自分はマシュデールに遊びに来たのではなく、戦いに来たのです。


 浮わついた気持ちのまま、マシュデールに入る訳にはいきません。



「ちくしょう、サバトの連中め……。一般市民だろうと関係なく皆殺しかよ!」

「落ち着けロドリー」



 自分は改めて覚悟を決め、現在の敵の所在を確かめるべく、ロドリー君の指さした方角を見つめました。


 その先には、確かに火の手が上がっている村落がありました。


 かなり、距離も近いです。



「……」

「どうしたおチビ、早く……」



 その村が燃え落ちる光景に、自分の頭は真っ白になりました。


 それは、無意識のうちに考えないようにしていた光景だったからかもしれません。


「……あ」


 現在の、敵の所在。


 すなわち、彼の指さした先に有った燃える村とは、自分の故郷であるノエルの街でした。



「ノエル、が……」


 あの街には、軍事物資など何もありません。


 ただ優しい孤児院の院長先生や、わんぱくざかりの子供が暮らしているだけです。


 あまり美味しくない芋の畑や、苦い野菜が植えられた畑が広がっているだけです。



「……ノエルに、火が!」

「っ! 何処に行く、おチビ!」



 ノエルが燃えている。


 そのあまりの衝撃に、自分は我を忘れてノエルへと走り出しかけました。


 ロドリー君に肩を掴まれていなければ、本当に走っていたかもしれません。


「敵が、街を、犯しています。自分の、故郷の、ノエルに!」

「そうか」

「小隊長、早く、助けに行かないと……! 皆が!」



 自分は思わず、ガーバック小隊長に詰め寄りました。


 気が動転していて、何も考えられなかったのだと思います。



 ────鈍い音。



 詰め寄った直後、自分の顔面を鈍い衝撃が穿ちました。


 その勢いで自分は地面に叩きつけられ、尻餅をつき、口腔内に血の味が滲みます。


 どうやら自分は、久しぶりに小隊長殿に顔面をブン殴られたようでした。


「目が覚めたか」

「……」

「俺達の撤退目標はマシュデールだ。走るぞ」


 目がチカチカとして、ふらつきつつも自分は立ち上がりました。


 小隊長殿は、そんな自分を無言で見下ろしていました。



「……」



 小隊長殿は強いです。接近戦では、無敵に近いと感じています。


 彼であれば、今からノエルに戻って敵を迎撃出来るのではないでしょうか。


 腰の悪い院長先生は、きっと逃げ遅れています。


 まだ乳母車に乗っている乳児は、そもそも逃げる事すらできないでしょう。


 しかし、今なら間に合うかもしれません。今すぐにノエルに向かえば、誰かを助けられるかも────



「……了解、です」

「ふん」

「大変失礼いたしました、命令を復唱します。自分はマシュデールに向かって走ります」



 しかし、殴られて冷静になった脳の一部が、理解していました。


 今、消耗しきった我々ガーバック小隊が危険を冒してノエルに救援に向かう事に、何の戦略的意義も存在しない事を。


 今すぐ走れば救えるかもしれない故郷の人々を、見捨てるのが最適解であることも。



「踏みとどまったか、トウリ。その言葉に免じて、今も俺を睨んでいることは不問にしてやる」

「……ありがとうございます」

「では行くぞ」



 この時、全く意識していなかったのですが、自分は小隊長殿を睨んでいたようです。 


 きっと自分は心のどこかで『小隊長殿が救援に行ってくれれば、助かるのに』という身勝手すぎる願望を抱いていたのかもしれません。


 ここまで撤退するのに、数多の街が焼かれました。


 それらを見捨ててのうのう逃げ延びてきたのに、自分の故郷だけ守って貰おうだなんて虫が良すぎます。


 これは故郷を焼かれたという、自分の感情だけの問題なのです。



 ……ドクン、ドクンと鼓動が煩しく鳴り響きます。


 この後、自分は決してノエルの方向を振り返りませんでした。


 振り返ってしまえば、走り出さない自信がなかったからです。



 自分が命を懸けて、軍に志願し衛生兵となった1番の理由は、孤児院への恩返しです。


 自分はこの世界で、唯一の家族であり肉親であったあの場所の人々に、少しでもお返しがしたかったのです。



「……ぁ」



 喉も乾いて、口はパサパサ。


 3日何も食べず、フラフラで歩いていた自分の瞳に涙など浮かびません。



「……あぁ、ぁぁぁ……」



 自分からただ漏れ出たのは、低く渇いた呻き声だけでした。

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