第57話
「昇さん、ご飯だよ」
ふいに後ろから呼びかけられ、18歳の昇は慌てて木製の長椅子から立ち上がった。時は夕暮れ、ステンドグラスを通して広がる色とりどりの光が、椅子の影や昇の影と同じように床に長く伸びていた。後ろから呼びかけてきた声の主、13歳の静音が呆れたように言う。
「本当に、いないと思ったら、いつもここにいるんだね。中古のピアノと、ベンチの他にはなんにもないっていうのに」
そうぼやくと、昇が先ほどまで座っていたベンチのところまで来て、その隣にどさりと腰を下ろした。
「でもなんか、わかるなぁ。うちの施設って、プライバシーないものね。自分の部屋に戻っても、相部屋だから、誰かしらいて、うるさくしているし」
昇は、13歳の静音がこんなに大人びた話し方をしただろうかと不思議に思ったが、だからと言って特に不都合があるわけでもないので、放っておくことにした。
2人が暮らすわだつみ愛育園は、キリスト教系の児童養護施設である。昇自身はクリスチャンではなかったが、居室として割り当てられた3人部屋や、リビングとしても使われる食堂とは違って、静かで一人になれる敷地内のこのチャペルをとても気に入っていた。昇がそのことを伝えると、静音は、自分は同じ理由で、「本の部屋」が好きなのだと言った。
「本を読んでいると、嫌なことがあった時に、遠くに行けるから」
そうつぶやく彼女の横顔は、先ほどまでの元気な様子とは違って、暗く沈んでいるように見えた。どことなく、目も虚ろで、普段の勝気さはすっかり影を潜めている。
「いい意味で、私が私じゃなくなるの」
ここまで話したところで、昇の同情的な視線に気が付いたのか、静音は慌てて先刻までの落ち込みを否定する。
「あっ、別に病んでるとか、そういうんじゃないよ。ただ、期末テストが嫌すぎて、現実逃避しているっていうだけで」
彼女は慌ただしく立ち上がると、長椅子の前で棒立ちになっている昇の手を掴み、強引に引っ張っていこうとする。
「さあ、早く行こう。今日の夕飯は、昇さんが好きな和風ハンバーグだよ」
和風ハンバーグが好きなのは自分ではなく静音の方だろうと思いながら、昇はおとなしく引きずられるままになっていた。これと同じようなシチュエーション、つまり自分が静音に手を引かれて無理やりどこかへ連れていかれる状況を、以前にも見た気がするのだが、それは勝手な思い違いだろうか。それでも、昇は、おさげ髪を振り乱して走る目の前の少女を、不思議なことに少しも疎ましいとは感じなかったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます