第56話

 その後の、静音のアパートでの時間は言うまでもなく憂鬱なものとなった。居間にある折り畳み式の小さな座卓を挟み、紫色の色褪せた座布団を尻でつぶしながら、2人はお互いに向かい合った。机の上には、先ほど静音が昇のために買ったコーラとブラックコーヒーの缶が、いずれもまだ開けられないまま置かれていた。


 悲しい微笑をたたえながら静音が言う。


「結局、だめだったんだね、私たち。6年も粘ったのに」


 新しく好きな人ができたと嘘をついてまで静音と訣別しようとしていた昇は黙ってうなだれるしかなかった。たとえ嘘でもそんなことを言ってしまった以上、自分たちがもう一度、2人一緒の未来を考え直すことは、もう、ないだろう。


 本当は傷ついているだろうに、精一杯無邪気を装った明るい表情と声色で、静音が尋ねる。


「昇の好きになった人って、どんな人? 美人?」


 うん、すごく綺麗な人だよ。性格も優しくて、真面目だし…。後ろめたさゆえに、静音と目を合わせられないまま、昇はぼそぼそと答えた。自分から別れると決めたからには、今も変わらず、目の前の静音が好きだと伝えることはできなかった。


――私は、柿沢さんのそばにいる資格のない人間なんだ。私がいると、彼女まで不幸になる。


 いや、誰のそばにいてもいけないな、自分は一生一人で、寂しく生きていくしかないのだと、昇は自嘲した。唯一の理解者である静音との別れを決意した以上、孤独な自分に居場所など、どこにもないのだ。いや、もしかすると、あのグループホームの面々なら、あともう少しの間、自分を近くに置いてくれるかもしれないが…。

 

 昇の脳裏に松田職員と嵐士の顔が浮かんだところで、静音が座布団から立ち上がって言う。


「じゃあね、昇。また施設まで送っていくね。コーラとコーヒーはもう飲まなくていいの?」


 昇は無言でうなずいた。伝えるべきことは全て伝えたつもりなので、長居する理由はもうない。そして、自らの傷心をごまかすかのように、もし気持ちがつらければ運転を代わろうかなどと提案するが、昇の運転は危ないから嫌などと静音に断られ、それもそうだと納得し、おとなしく引き下がった。


――万が一、健康な心で人生をもう一度やり直せるようなことがあれば、きっと私はまた静音のところへ行くだろう。


 もうこれほどの理解者は自分の前には現れないだろうと若干の未練を残しながら、昇はかつての恋人の家を後にするのだった。

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