第55話

 2人を乗せた車は、海沿いの道を上がり、静音のアパートへと向かっていく。運転席の静音が前を向いたまま尋ねる。


「昇は今日何時までOKなんだっけ」


「向こうには、昼過ぎには帰ると言ってある」


 じゃあ、あまり時間ないねと静音はハンドルを切り、いつもとは違うところで道を曲がった。今日は家には行かないのだろうか。昇が気になって確認すると、静音は、うん、今日はあまり時間ないみたいだし、家だと名残惜しくなっちゃうだろうからと言葉を濁した。


「それに私、昇が何を言おうとしているのか、なんとなくわかっちゃったから」


 静音の切ないつぶやきに、昇は胸が締め付けられるような思いがして、何も言えなかった。


「たぶん、今日で最後なんでしょ? いいよ、聞いてあげる」


 静音が車を止めたのは、2人がまだ同居していた頃、よく散歩で出かけた海辺の小さな公園だった。そして奇しくも6年前、昇はここでその同居生活の解消を願い出たのだった。まさか再びこの場所で、前と同じ相手に向かって別れ話を切り出すことになるとは…昇の心はますます暗くなった。一瞬、自分を6年も待っていた静音が、自分の裏切りへの意趣返しでそうしているのかとも疑ったが、昇の知る彼女は、そんな意地の悪いことをする人間ではない。おそらく、別の意図があるのだろう。


 隣接する駐車場に車を止めた後、静音はドアを素早く開閉して、コンクリートの地面へ降りた。そうして広場を挟んだ反対側の赤い箱…自動販売機のところまで行って何やらボタンを押すなどの操作をした後、速足で戻ってきた。


「せっかくだし、昇の好きな飲み物を用意しておこうと思ったんだけど、私、普段麦茶と水しか飲まないから、買い忘れちゃって」


 そう言って、右手のコーラの缶と、左手のブラックコーヒーの缶を同時に掲げて見せる。


「じゃ、そろそろ私のうちに行こうか。今日は天気イマイチだし、この公園はもういいよね」


 確かに空は濃い灰色で、空気も湿り気を帯びていて、今にも雨が降りだしそうだった。水平線も、もやのせいか境が曖昧になり、対岸の陸地は全くその形をとらえることができなかった。まあこの天気だし、わざわざ確認することでもないとは思うが、さっきはアパートには行かないと言っていたが大丈夫なのかと、昇は念のため静音の意図を確認する。静音はつまらなそうに、気が変わったの、と答えた。


「ここ、海がよく見えるし、割と好きなんだけど、天気によっては嫌なことを思い出しちゃうんだよね。昇もそうでしょ」


 そうして、わざとらしくよいしょと掛け声をかけると、運転席に座り、シートベルトを締めたところで、これまたわざとらしくエイっと気合を入れ、傍らに置いていたコーラの缶を後ろの昇に投げてよこした。


「はい、よい子の皆さんは、シートベルトをしっかり締めて、コーラでも飲んで、適当に水分補給でもしておいてね」


 そう言って笑う声は辛うじておどけてはいたが、お気に入りのヘビメタバンドの曲を大音量でかけながら、ハンドルを握る静音の後ろ姿には、これまでになく哀愁が漂っていて、すっかり気まずくなった昇は視線を窓の外に向けた。


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