第53話

「それにしても、無防備な顔で寝ているなぁ」


 ソファに横たわる嵐士の顔を覗き込みながら、職員がひそひそ声で言う。


「ここに来たばかりの頃は、寄らば斬るって感じの、殺伐とした雰囲気で、僕らの前では熟睡どころか、うたたねさえしなかったのに」


 昇は職員の言葉に、そうですねとうなずきながら、嵐士の小さな体に毛布を掛けた。斜め上から見下ろした嵐士少年の手足は棒のように細く、胴体も、内臓が入るかどうか心配になるほどの薄さだった。起きている時は大人びた表情をする顔も、眠っている時は年相応かそれ以上に幼く、実年齢の15歳には見えなかった。せいぜいが11歳か12歳くらいといったところか。単なる個人差の影響である可能性は否定できないが、嵐士があまり幸せな子ども時代を送っていないことは、それまでに聞いた職員の話から何となく推測できたため、昇は、嵐士の年齢相応に育っていない体を見て痛々しく感じた。


 しかし、それを言えば自分も同じだと昇は思った。身体だけは一人前に大きく成長していても、心は30過ぎの大人には程遠い未熟さだった。高く見積もってもまだまだ不安定さを残した20代前半、下手をすれば嵐士の実年齢と同じくらいの、14歳か15歳ほどで彼の内面の成長は止まっている。このまま精神の病も治らず、大人にもなり切れないまま、自分は死んでいくのだろうと、昇は己の将来を悲観した。


――いや、私はとっくの昔に死んでいるんだ。あの男が家に来た9つのときか、鬱の兆候が見え始めた18の頃には。


 自分が幸せになれないなら、まだ壊れていないあるいは壊れていてもまだ治る可能性のある嵐士の人生だけは、せめて幸せなものになってほしいと、昇は願った。そうして、できることなら、静音の人生も。


 この夜、彼はようやく、迷っていた静音との別れを決意した。もうこれ以上、彼女を自分の幸薄い人生に巻き込むわけにはいかない。翌朝、日が高くなってから、昇が静音に宛てて書いたメッセージは以下のとおりである。


柿沢さんへ

今まで親切にしてくれてありがとう。

ここ数ヶ月真剣に悩んだのですが、残念ながらあなたとの未来は考えられません。他に想う人ができてしまったからです。

そう決まったからには、しばらくは2人で会うのをやめにしましょう。曖昧に付き合いを続けているとお互いに傷つくだけなので。

まだ暑いので、体だけは気を付けて。

池野昇


 しかし、こちらが身の危険を感じるという状況でなければ、このような話は直接会ってするのがマナーだと思い、昇は一度入力した文章を送らずに全部消し、「大事な話があるので直接会って話したい、いつなら都合がよいか」といった趣旨のものに変更した。これはこれで、いかにもそれらしい別れ話の典型例になってしまっており、どちらにしろ、「縁起でもない」メールを送ることに変わりはないのだが、それでも、昇の胸には、もう迷いはなかった。





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