第52話

「嵐士君、池野さん、そろそろ2階に戻ろうか。日付も変わったし、僕ももう眠い」


 ソファに座る職員が大きな口を開けてあくびした。その傍らに座る嵐士少年は、いつの間にか寝入ってしまったようだった。彼は、職員の呼びかけには反応せず、うなだれたまま静かに呼吸の音だけをさせている。職員が嵐士少年の肩を叩いてもう一度声をかけると、彼は面倒くさそうに顔を上げ、まだいいです、起きていますと答えたが、すぐに頭ががくんと前に落ち、うつむいたまま動かなくなってしまった。


 すっかり起きなくなってしまった嵐士少年を見て、職員が苦笑いして言う。


「やっぱり、起きないか…悪いけど、池野さん、手伝ってくれる。上の階まで嵐士君を担いでいきたいんだけど、僕は腰が悪いから、力仕事は一人だと心配で」


 それなら手助けせねばと、昇はすぐに椅子から立ち上がった。


「いや、嵐士君くらいの体格なら、私一人でも背負っていけます。松田さんは先に休んでいてください」


 言いながら、○○してくださいなんて命令形、自分にしてはずいぶんと偉そうな言い方をしてしまったなと昇は自己嫌悪に陥った。


「そう? じゃあお言葉に甘えて。利用者に仕事を代わってもらうなんて、職員としては失格かもしれないけど、疲れてるし、頼っちゃおうかなぁ」


 職員のこの様子を見て、昇は、相変わらずマイペースというか、能天気な人だと内心呆れていたが、同時に、このくらいのおおらかな気持ちでやっていかないと、精神面で厳しいこの仕事は続かないのではないかとも思った。神経質な自分なら、利用者の苦しい気持ちに巻き込まれ、こちらまで一緒につらくなって、たぶん1年も経たないで辞めている。


 やはり、社会人、働いている人は偉いのだなと思いながら、昇は嵐士を慎重に抱き上げた。「お姫様抱っこ」のような姿でなかなかシュールだった。眠っている人をおんぶするのは思ったより難しく、昇はおんぶではなく抱っこで嵐士を上の階へ連れていくことにした。しかし、グループホームの狭い階段を、「お姫様抱っこ」の状態で上がれるかどうか…。迷った末、彼は職員にも断ったうえで、嵐士を2階に連れていくのをあきらめた。嵐士にはそのまま1階リビングのソファに横になって休んでもらい、自分は上から嵐士の掛布団を持ってくるだけにする。その方が、無理して寝室に連れていくよりも、はるかに安全だった。

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