第50話

 昇の母親、池野 朋子ともこは子どもの世話があまり得意ではなかった。家事全般に苦手意識を持っていた彼女は、慣れない手つきでアイロンをかけている時、洗濯物を畳んでいる時などに、昇が抱っこやら絵本の読み聞かせやらをねだりに近づいていくと、いかにも邪魔だと言いたげな険しい表情で、彼を追い払うのだった。


「あっちに行っていなさい、お母さんは忙しいんだから」


 4歳の昇は少しだけ粘ってみる。


「や、5秒だけぎゅっとして」


 しかし母親は面倒くさそうに首を横に振るだけで、昇を抱きしめてくれることはなかった。特に用事がなく、床にぺたんと座って、別に好きでもなさそうなテレビドラマをぼんやりと眺めている時でさえ、母が昇を構ってくれることは稀だった。そうして、昇が泣くと困った顔をして、ようやく赤ちゃん用のガラガラを持ってあやしにくるが、母自身の機嫌が悪い時は、うるさそうにして、昇をその場に置いたまま、突然どこへともなく外出してしまうのだった。


 それでも、彼女が時折口にした「昇ちゃんは私の宝物」はまるっきり嘘でもなかったのだろう。昇が18歳の時にがんで亡くなった彼女の自宅からは、出せないまま押し入れにしまわれた、昇宛ての手紙、衣類やおもちゃ、文具などが段ボールに入った状態で2箱分見つかった。葬儀の後、職員を経由して渡された母親からの手紙は、どれを見ても愛情あふれる言葉がつづられていた。それだけに、どうして一緒にいられるうちに伝えてくれなかったのだ、どうしてあの男から助けてくれなかったのだと昇は恨めしく、もどかしくて歯がゆい気持ちにさせられた。あの時、助けてくれたら、母親が愛していると言ってくれたなら、自分はここまで壊れていなかったのかもしれないのだ。

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