第49話

――どうして、僕は生きているのだろう。


 つい先日、嵐士少年が問うたのと同じように、20年ほど前、11歳の昇も、夜空にぽっかりと浮かぶ満月を背に、答えのない問いに苦悶していた。


――家に帰ったって、あの人に捕まって散々な目に遭うだけ。いくら助けを求めても、母さんは助けてくれない。僕の言っていることは、本当に、根も葉もないでたらめ話なのだろうか。


 足元を流れる大河には不釣り合いな、古くて華奢な、木造の橋。雨が降り、川が少しでも増水すれば、橋は濁流によって、いとも簡単に流されてしまいそうだった。


――僕も、あの人も、母さんも、この町も、全部流されてしまえばいいんだ。


 昇は、いつか大江健三郎の小説…確か「燃えあがる緑の木」だったろうか…で読んだ洪水のイメージを頭に想起した。孤独な子ども時代を送っていた昇には、ゲームの他、物語の本も慰めだったのだ。友達もおらず、スポーツは苦手、勉強も嫌い。あまりにもすることがなかったので、小学校の中学年頃からは、絵本や児童書だけでなく、大人が読む難しそうな、古い時代の小説も手に取るようになった。この時も空想の世界に没入して、なんとか苦しい状況、苦しい気持ちから、一時的にでも逃れようとした。念じれば、濁流という奇跡が起きて、嫌なものを全て押し流し、消し去ってくれるような気がしたのだ。


 しかし、どんなに願っても、目の前の川には、土砂降りどころか、一滴の雨も落ちてこなかった。満月を見ることができるくらいだから、空にもあまり雲がなかった。洪水なんて、逆転なんて、望めそうにないだろうと昇は絶望的な気分になった。相手の方から流しに来てくれないなら、いっそ自分の方から飛び込んでやろうか。昇は橋の下の水面に目を遣った。底の見えない、深い闇。水が激しくほとばしる上流の滝とは違い、流れの遅い淵の部分は穏やかだったが、所々大きな岩が表面に突き出していた。岩の上に落ちるか、水の中に落ちるか…どちらに転んでも、大自然の脅威が、昇の儚い命をうまいこと始末してくれそうだった。


――さようなら、母さん。僕は誰もいないところに、先に行きます。次に生まれる時は、僕をもう少しかわいがってください。


 昇は心の中でそうつぶやくと、橋の欄干によじ登った。月のきれいな晩だった。

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