第38話

 俺は狂っているのだろうか、と嵐士は自問する。泥酔して暴れていた父親に刃物を突き付け、おとなしくしろ、殴るのを止めないと刺す、と脅迫したあの夜、父親から一撃を受け、床にへたり込んでいた母親は、自分を息子ではなく、化け物を見るような目で見上げていた。それは弟妹も同じだった。あれだけ、兄ちゃん、兄ちゃんと慕っていてくれたはずの彼らは、母親の陰に隠れ、おびえた目でこちらを見ていた。


――俺は、母さんと、お前たちを守ろうと思って、恐怖で震える手を抑え、ようやく勇気を振り絞ったというのに。どうして…。


 絶望する間もなく、半狂乱になった父親がこちらに向かってくる。このろくでなし、すぐにそれを引っ込めろ、殺してやると。包丁を奪い取ろうとする父親に必死に抵抗しているうちに、包丁が相手の腹部を、浅くではあるが切り付けてしまったのだ。そのあとは、覚えていない。もみ合っている最中か、誤って切り付けてしまった後かはわからないが、父親によって突き飛ばされ、柱の角に肩をぶつけて負傷した。そのまま、逃げて、半狂乱になって、ポケットのバタフライナイフで自分の腹部を傷つけたのは、確か自分自身だったと思う。そう、俺はもう生きてなどいたくなかったのだ。


「大丈夫? 宿題、終わりそう?」


 不意に女性の声がして、嵐士は現実に引き戻された。机の向かい側には、志保が座っている。彼女の前には同じく夏休みの課題だと思われる問題集と、教科書が広げられていた。


「いや、全然」


 嵐士は自分が志保の家に来ているのを思い出し、頬を赤らめた。誕生日のコンサートで花束を渡してからというもの、嵐士に対する志保の距離感は明らかに近くなっていた。今日の勉強会も、劣等生同士で仲良く宿題の追い込みをしようと、志保の方から誘ってきたのだった。別に志保と一緒に勉強すること自体は構わないのだが、家族不在の家に志保と2人きりというのは、さすがに悪いことをしているようで、気まずかった。でもそのことを伝えることで、自分が志保に対して、変なことを考えていると誤解されたらもっと気まずい。結局嵐士は志保に言われるがまま、彼女の家で勉強することにしたのだった。


 嵐士の手元に置かれた、真っ白な紙を見て、志保がつぶやく。


「進路希望調査票…1番厄介なやつだ。数学とか、物理だったら教えられるんだけど」


 本人の申告を信じるなら、どうやら志保は理数系のようだ。ピアノが得意なので、てっきり感覚派で、文系科目が得意なのだと嵐士は勝手に思っていたが、違うらしい。学科の勉強ではなく、しかも決まった答えのない問題なので、他人の答えを尋ねても仕方ないだろうと思いつつ、嵐士はつい志保に助けを求めてしまう。


「木ノ内さんは、中3の時、どんなことを書いたんですか」


 志保は心底どうでもいいというように投げやりな口調で返す。


「覚えてない。たぶん、高校進学に丸をつけて、第一志望のところに今の高校の名前でも書いたと思う」


 そう言うと、志保は椅子から立ち上がり、伸びをした。彼女の方が自分より背が高いのを思い出し、嵐士は複雑な気持ちになる。志保はおそらく160cm代後半、嵐士は自称155cmの、実測152cm。大体15cmくらい、志保の方が長身だった。


「こんな世の中じゃ、将来に希望なんて持てるわけないし、書けないのが普通だよ」

 自分よりだいぶ背の高い先輩は、相変わらず、低めのトーンで話を続ける。ここで頑張れだのなんだのと余計な励ましをしないところに、嵐士は好感が持てた。そしてとうとう、先輩は机の上を片付け始める。


「難しいことを考えたら、お腹が空いた。冷蔵庫にハーゲンダッツあるけど、国上さんも食べる?」


――君じゃなくて、「さん」なんだ。


 些細なことに引っかかりながら、嵐士は志保にまた好感を抱いた。年上の人からの君付けは時として、馴れ馴れしさも含んだ、上から目線のニュアンスを伴うことがあるが、「さん」は少々よそよそしいだけに、その分上下関係にこだわらない、フラットな印象を与えた。いや、志保が言うから好ましいように聞こえるのだろうか。そのことに気付くと少し恥ずかしかった。


「そうですね、じゃあ俺も」


 嵐士はどうでもよくなって、おやつの時間に専念することにした。進学するか就職するかよりも、いかにして志保に「さん付け」を止めさせ、「嵐士」と呼び捨てにしてもらうかの方が、彼にとっては重大な関心事だったのだ。



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