第35話
嵐士は今日の作業所での、志保の様子を思い出していた。嵐士がこの「福祉村」に来てから半月ほどが経っており、初めはお互いに人見知りしていた2人も、少しずつ打ち解けてきた頃だった。
この日は、初日に通院で不在だった鈴木さんも加わって、3人で和気あいあいと、老人会会報の宛名ラベル貼りを行っていたのだが、その間、特に変わった様子はなかった。強いて言うなら、何かの流れで、嵐士が、次の交流会の日がちょうど自分の誕生日とかぶっているのだという話をしたとき、普段無口で反応の薄い志保が、珍しく食いついてきたことくらいだった。食いついてきたといっても、じゃあ、次回の1曲目はハッピーバースデーの歌で決まりだねと短いコメントを返してくれただけだったが。
志保は、町の集会所を借りて月1回行われる「福祉村」の交流会で、毎回会が始まる際に、余興としてピアノの曲を1、2曲演奏する役割を担っていた。翌週に迫った8月の回が、嵐士が来てから初めての交流会だったので、嵐士は志保のピアノをついに聴けると思い、交流会の日が来るのを密かに待ちわびていたのだ。
――しかし、同じ作業をしている仲間のために、誕生日の曲を演奏することが、それほど憂鬱で、重いプレッシャーになるものだろうか。むしろ喜んでもらおうと、張り切って練習しそうなものだが、真面目で繊細なあの人には、それだけでも重すぎて、つらく感じられたのだろうか…。
以前職員から「留衣さんの事件」について聞かされていたこともあり、嵐士はもしかすると不安になり、気が気ではなかった。
そんな嵐士をなだめるかのように、職員が落ち着いた調子で言う。
「大丈夫だよ。警察の人と、作業所の担当者が、手分けして探してくれているから。僕たちがやるべきことは、木ノ内さんが万が一この家に来たら、迎え入れてそのことを捜索本部にお知らせすることだけだ。今はまず、寝る支度をして、木ノ内さんが無事に帰ってくることを祈ろう」
「そんなこと言われたって、もしあの人が死んだら…」
嵐士は納得できなかった。今すぐにでも、自分も志保の捜索に加わりたい。
「大丈夫。志保さんはきっと戻ってきます」
昇にもそう言われ、嵐士はようやく引き下がった。しかし不安は消えず、風呂に入り、歯を磨き、自室に戻っても、どうして落ち着かなかった嵐士は、消灯後5分くらいはずっとベッドの周りをぐるぐる歩き回っていた。そして、こんなことをしていたら1階で仮眠を取っている職員に迷惑だなと我に返ったところで、彼はようやく横になることができたのだった。
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