第29話
しかし、その幸せな気持ちも、夜間の不眠改善にはつながらなかった。夜になると、もみ合いの末、父を刺してしまったあの日の夢にうなされ、睡眠の途中で目が覚めるのだった。
嵐士がリビングで水を飲んでいると、昇も調子が悪いのか、上からふらふらと降りてきて、以前見たように、台所でお湯を沸かし始める。出された飲み物は、温めた牛乳で、どうやら、せっかく沸かしたお湯は使っていないようだった。湯を沸かした分、ガス代も水道代もかかっているのに、もったいないなと思いながら、嵐士は水をほどほどにして、温かい牛乳に口をつけた。
「お好みでジャムもどうぞ」
そう言って、昇は、冷蔵庫から持ってきたいちごジャムとブルーベリージャムを嵐士に勧める。夜間にふらふら降りてきたときに、昇が何か言葉を発するのは、嵐士が知る限り、初めてのことだった。少なくともこの前は、ぼんやりとした目で、宙を見つめるだけで何も言わず、飲み物を出すという用事が済めば、さっさと部屋に戻っていた。だがこの日は飲み物を持ってきた後、自分もそのまま、嵐士と職員のいるリビングのテーブルに着き、すぐには2階へ引き揚げようとしなかった。昇がふいにつぶやく。
「星のきれいな夜だ。こんな日は、ふらっとどこかへ消えたくなります」
夏の空はもやがかぶっている。街灯りもあるので星なんて大して見えないだろうと嵐士は思ったが、ここは都会のど真ん中ではなく、自然豊かな海辺の町である。もしかしたら小学校の「林間学校」なる行事で泊まった山間の宿泊施設と同じくらい見えるかもしれないと思いと思い、彼は窓の方に目を遣ったが、カーテンが閉まっていたのでわからなかった。
職員が穏やかに言う。
「そうだよね。こんないい夜に、早寝するなんてつまらないよね。せっかくだし、3人で外の空気でも吸いに行こうか」
こんな夜中に散歩? 嵐士は困惑して職員を見る。しかし相手は何でもないような調子で、大丈夫、ただグループホームの庭に出るだけだから、ちょうど僕も、外で煙草を吸いたいと思っていたところだし、と笑う。
ところが、この日は空に薄く雲がかかっているのと、満月で月あかりが明るいのとで、星のあまり見えない日だった。玄関と公道とを結ぶ、庭の真ん中の、コンクリートの道に立ち、職員が残念そうに言う。
「いやぁ、惜しかったね、夏でも天気さえよければ、空が、天然のプラネタリウムになるんだけど」
そして、彼は予告していた通り、煙草を吸い始めた。入居者、しかも14歳の未成年の前で本当に吸うんだなと嵐士が妙なところで感心していると、後ろの昇が家の中に戻ってゆくのが視界の隅に見えた。星が見えなかったので、がっかりしたのだろうか。
嵐士も何だかもういいやという気持ちになって、職員に先に戻ると一声かけてから自分の部屋へと引き揚げていった。星のない空に飽きたのもあったが、それ以上に、満月の、冷酷さを感じさせる、目に痛い、青白い光が恐ろしくてならなかったのだ。
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