第15話

 昇の精神状態が急激に悪化したのは、それから間もなくのことだった。彼は元々出不精だったが、この頃になると休みの日だけでなく、仕事の時でさえ出かけたくないと言うようになり、体調不良を理由に欠勤する日が増えていった。声もさらに出づらくなり、またスマホでの筆談もだんだんと億劫がるようになった。


 そのような状態が1か月ほど続き、すっかり慢性化してしまったあたりで、心配した勤務先の工場長が家までやってきて、昇本人との話し合いの場を設けてくれた。2時間以上にわたった面談の末、昇が工場の仕事を1年ほど休職することと、その間、精神科の治療のため入院及び通院を行うことが決定された。


 その後、児童養護施設時代にかかわっていたカウンセラーの勧めもあり、昇は郊外にある精神科の療養施設に入所することになった。翌日の入所の荷造りをしながら、彼は誰にでもなく、弱くてごめん、と申し訳なさそうにつぶやいた。


「せっかく2人で前を向いて、新しい生活に踏み出せると思っていたところなのに」


「そんなの、昇さんの気にすることじゃないよ。とりあえず今は病気を治すことに集中して、後で元気になって戻っておいで」


 そう明るく言って、昇を励まそうとした静音だったが、内心では彼女もひどく落ち込んでいた。


――精一杯頑張ったつもりだったけど、結局私は、過去のトラウマに苦しむ昇さんを助けるために何もすることができなかった。助けるつもりでしたことが、空回りどころかかえってこの人を傷つけ、追い詰めることになってしまった。


 彼女もまた、幼少期に閉じ込められた深い闇から抜け出そうともがき、闘う者の1人だった。静音は密かに誓う。


――いつかまた、昇さんと休日の度に、海辺の道を散歩するんだ。


 昇を療養所まで送った日、家に帰った静音は、クローゼットにあった昇の赤いウィンドブレーカーを取り出し、カビないようにと、窓際にかけて風に当てておいた。この上着の持ち主が、またこの部屋に戻ってこられることを、強く願いながら。

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