第11話

 昇の自責的な言葉を聞いて、静音の胸にはふつふつと熱い怒りがわき上がってきた。しかしそれは昇に対する憤りではない。彼の過去を何も知らないまま、彼を一番傷つけるような仕方――無神経にも結婚話を切り出した挙句、何の断りもなく突然抱きついてしまうというやり方で――暴力的にかかわってしまった自分自身への激しい嫌悪であり、後悔だった。自分が、いや、それ以前に彼を搾取していた「母親の恋人」が、余計なことさえしなければ、昇は自傷や自責に向かうことなく、安心して周囲の人と関わり、時には愛する人との温かな身体の触れ合いを楽しむことさえできたはずなのだった。それを母親の恋人と自分が全て台無しにした。


 汚れていて、昇と関わる資格がないのは、自分の方だと、静音は思った。そんな自分が何を言っても、偽善者の戯言にしかならないのはわかっていたが、静音はそれでも懸命に昇を励まそうとした。


「昇さんは全然悪くないよ」


――だめだ、こんなありふれた、上っ面の言葉だけで昇さんを助けられるはずがない。


 前向きな言葉を発しながらも、静音の心には真っ暗な絶望がどろどろと広がっていく。


「私と、その人が変なことをしたから調子が悪くなっているだけで」


 昇は静音を責めることはせず、悲しい微笑をたたえながら、黙って彼女の言葉を聴いていた。しばらくして、また何か言おうとしたのか口を開きかけるが、久しぶりに長く話したせいで喉が疲れたらしく、ひどくむせてしまい、スマホを使った筆談に切り替えた。


《ありがとう。でも、もうだめなんだ。このままいくと、私は、いつかあの人と同じようなやり口で、あなたの心を壊してしまう》


《だから、そうなる前に別れよう》


 昇からそう告げられた時、静音は無意識のうちに、テーブルの上に置かれた相手の両の手に自分の手を重ねていた。昇の骨ばった手は、思いのほか冷たくはなく、温かいを通り越してじんわりと熱かった。その熱を感じながら、この人は私から身体に触れられることを望んでいないだろうと思ったが、今はそんなことに頓着している場合でもないだろう。

 すっかり頑なになってしまった今のこの人には何を言ってもダメだろうと諦めそうになりつつも、静音は必死に自分の思いを伝えようとする。


「嫌だ。昇さんが私を嫌いになったんじゃなければ、別れない」


 昇の鈍い反応に苛立ち、静音の語気が強くなる。


「第一、今のアパートを出て行ったところで、私も、昇さんも、他にどこか行く当てがあるわけ?」


――だめだよ、静音。そんなケンカごしの話し方。もっと優しく言わなくちゃ。


 静音の中の、もう一人の自分が告げる。それは内在化された「世間」の声であり、彼女自身の、自分はこうあるべきだという強迫観念だった。自己肯定感の低い彼女は長らくそれに抗えないでいたが、このときは体面より怒りの方が勝っていた。


――うるさい、周囲の機嫌を伺って、自分の本音を偽り、いい人ぶったところで、何も得るものなんてなかったじゃない。舐められて、いいように使われて、はい終わり。私の、滅茶苦茶になった時間と、人間関係を返せ。


 一方の昇は、静音の剣幕に少し驚きながらも、スマホを操る手を静音に封じられていることもあり、声に出して返事をしてくれた。


「私は知り合いの伝手をたどって、誰かのところに泊めてもらうから、柿沢さんが今の家に残れば…」


「そういうことを言ってるんじゃない。いいから、もう帰るよ」


 静音は昇の発言を途中で遮り、彼の左手首を掴んで立ち上がらせると、そのまま相手を引きずるようにして、元来た道をずんずん歩いて行った。昇は困惑しているようだったが、特に抵抗するわけでもなく、おとなしく引っ張られながら静音についてきた。



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