第5話

 あくる日の朝、近所にある24時間営業のファストフード店で買ったハンバーガーのセットをテーブルに広げながら、2人は遅めの朝食をとっていた。普段なら休みの日の朝食も昇が手作りするのだが、昨日眠れなかったとみられる昇が珍しく寝坊したため、急遽静音が外へ「中食」を買いに行くことになった。彼女が料理をしないのは、身の回りの細々した作業をこなすのが苦手なためである。掃除や洗濯くらいなら、嫌々ながらでもなんとかやれるが、料理となると作業手順が複雑で覚えられない。間違っていたらどうしようという不安から、レシピ本を執拗なまでに何度も見直すため、そのたびに作業の手が止まってしまうのだった。


 静音が家事の失敗をそこまで気にする理由は、彼女の幼い頃の、彼女の家庭の教育方針にあった。自他ともに認める完璧主義者だった彼女の母親は、何事にも習得に時間のかかるわが子に対し、苛立ちを隠すことができなかった。静音が手先の不器用なのを気にしていたこの母親は、よく静音に訓練だと言って家事を手伝わせたのだが、もともと苦手なことなので、もちろん静音がすぐにうまくできるはずはなかった。


 ワイシャツのアイロンかけがうまくできず、余計にしわを増やしてしまう、味噌汁をつくるときに、だしを取るのを忘れ、ただの味噌入りの塩辛いお湯になってしまった…そんな些細な失敗の度に、母親はひどく怒り、罰として静音のその日の夕食を抜きにしたり、物覚えの悪い子は要らないと言って離れの倉庫に閉じ込めたりした。


 幸い、中学の途中で施設に引き取られてからは、身の回りのことがうまくできないという理由だけで理不尽な罰を与える大人は静音の周囲にいなくなり、彼女の不器用さそのものも、施設の中で家事を練習するうちに少しずつ改善されていった。しかし、子どもの頃のトラウマはそう簡単に解消されるものではなく、また作業記憶の脆弱さもある程度残っていたため、大人になった今でも、静音は日々の家事があまり好きではないというより、嫌いだった。


――だけど、このままでいいのかな。今は昇さんがいるからいいけど、もし、この先また一人で暮らすことになったら…。


 静音はそっと隣の昇を盗み見る。昇はいつもと変わらない無表情で、黙々とハンバーガーの隅っこをおちょぼ口でかじっていた。しかし静音の視線に気づくと、怒っているのか、それとも気まずいのか、ふっと視線を横にそらす。シャツの長袖から覗く青白い手首には、新しくできたと思われる赤い線が2本、うっすらとついていた。静音は自分の犯した過ちの重さと、昇との生活の終わりが近づいていることをはっきりと悟った。


――私たちの関係は、もう、修復不可能なところに来ているのかもしれない。私が、余計な欲を出したせいで。

 

 静音は密かに絶望した。やはり、親からも疎まれた自分を、好きになってくれる人なんて、どこにもいないのだろう、と。過酷な人生を送ってきた彼女には、色々なことを早くあきらめ過ぎる悪い癖がついていた。はたから見ればまだ十分に希望が残っているような状況でも、静音自身が少しでも無理かもしれないと思ったらもうダメなのである。自暴自棄になって、まだ残っている幸福の可能性を、自分から潰しにいってしまう。

 

 このときも、静音は、昇に同居の解消を提案する手間をかけさせるくらいなら、いっそ自分の方から共同生活の終わりを切り出そうと思っていたのだった。しかし、静音の中には、こういう時に加害者の自分の方から別れ話のようなことを言いだすのは理不尽かもしれない、被害者の昇の方から手痛く振ってもらわなければという信条というかこだわりもあったため、結局何も言い出せないまま、この日の朝食の時間が過ぎていった。

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