第4話

「どうしたの、しいちゃん、やめて…」


 昇が弱々しい声で抗議する。彼が静音をいつもの「柿沢さん」ではなく、子ども時代の愛称で呼んでいることからも、その動揺の激しさが伝わってくる。しかし、腕力では静音に勝るはずの昇が、相手の腕を振り払う、体を押しのけるといった抵抗らしい抵抗をしないのは、どのような意図があってのことなのだろうか。自分の腕の中が嫌なはずなのに、少し体をもぞもぞと動かすだけで、いっこうに逃げ出そうとしない昇のことを訝しく思いながら、静音は考えをめぐらせる。彼が力による表だった抵抗をしないのは、万が一静音に怪我をさせたら大変だという遠慮なのか、それとも言葉で伝えさえすれば身体的な抵抗は必要ないと思っているのか、あるいは恐怖のあまり身がすくんで思うように体が動かなくなっているのか…。


 しかし、身体的な抵抗がないとはいえ、言葉ではっきり嫌だと言っているのだから、昇が本当はまんざらでもないと思っているという可能性は、残念ながら捨てた方がいいだろう。静音は諦めて昇の体から手を離すことにした。


「いきなり変なことしてごめんなさい。あまりいい返事がもらえなかったから、寂しくて…」


 相変わらず、昇から返事はない。黙ったまま、壁の方を向いている。静音が強引なふるまいをしたので怒っているのだろうか。


「今日は同じ部屋で休みたくないだろうし、私は向こうの部屋で寝るね」


 静音は、寝室を出て、すぐ隣の台所と廊下を兼ねる玄関前のスペースに向かおうとした。そこなら玄関マットを枕代わりにして眠れるので、ちょうどよいと思ったのだ。立ち上がって歩き出そうとする静音の背中に、昇が後ろから声をかける。


「そんなこと、しなくていい」


 先ほどまでとは違うはっきりとした声だったので、静音は驚いて後ろを振り返った。布団から体を起こし、いつの間にかこちらを向いて三角座りしていた昇と目が合い、彼女はうろたえる。


「でも、私、あんなにひどいことを…」


「同じ部屋も何も、この家には部屋らしい部屋はここしかないよ」


 自分の座っている寝室の床を指さしながら、昇が落ち着き払った声で、淡々と言う。


「今夜はいつも通り、隣り合わせで休んで、これからのことはまた明日、時間のある時に考えたらいい」


 静音は困惑した。昇は、静音に強引に抱きしめられ、1分ほど前まで激しく動揺し、ひどくおびえていたはずなのだが、気づけばもう、普段の、落ち着きすぎているといっても過言ではない、冷静な無表情に戻っている。静音は昇のことが分からなくなった。


――いったい、私が理解していると思っていた、この人らしさというのは何だったのだろう。


 付き合いが長くなれば長くなるほど、心を閉ざし、何を考えているのか、どんな人なのかが次第につかめなくなっていく相手。静音は前にもまして昇を遠く感じ、どうしようもないさみしさに襲われるのであった。

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