#10

 甘い夢から覚めたのは、起床時刻の5分前だった。


 7時起床、21時消灯──。たまに未来が恐ろしくなって眠れない時は、隠れて携帯を弄って気を紛らわせるとしても、入院前ではあり得ないほど規則正しい生活を送る僕は、まだぼんやりとした脳に大きな欠伸をして酸素を送り込む。


 ──置いてかれちゃったな。


 夢はまやかし、幻想、蜃気楼……それに魅せられて飲まれたのなら、いっそのこと一思いに連れ去って欲しかった。溜息ひとつを零した僕にしたり顔でやってくる朝日を忌々しく呪い、ゆっくりと昨日引っ掻いた首筋の傷に手をやる。


「あれ……治ってる」


 生活リズムが整い過ぎて治癒力が高まったのか……なんて戯言を吐きながら鼻先で自嘲すると、首に添えた腕の内側が視界に映る。


「嘘……」


 あからさまに女モノの歯型が赤い切取線を描いて鎮座する腕は、陽の目が僕を夢から引っ張り出すまで側にいた彼女を証明する形見だった。きっと誰に話したところで信じてもらえない事実は、妄想などでは無いと言わんばかりに存在を主張する。


 冴え渡る脳味噌で鏡に向かい何度も頰を抓って叩いて摘んでも、いつもの冴えない在り来たりな塩顔は痛みを通り越して不気味にニヤけてみせた。


 ──あれは嘘なんかじゃない!


 その日の体調は最高に絶不調。正しい地面の歩き方も忘れたようにふわついた廊下は、何処を歩いてもトランポリンみたいに跳ねる。それを目眩と言おうとも、病気の症状だと怒られようと、そんなことはもう僕の知った事じゃない。


 グワン、グワン……と脳に響く僅かな揺れが波紋となって三半規管を乱し、見事なまでに酔い潰れた僕はやっとの思いで這い寄って上体を起こす。胃で消化し切れずに残った栄養カスに酸味を添え、口の中で逆流する吐瀉物をどうにも出来ないまま、取り敢えず涙目で飲み込む。


 病状と裏腹に高まったテンションで天井を仰いだ僕の呼吸が落ち着く頃、海底を彷徨う中で聴いた人魚の歌をうろ覚えのままハミングする。何度も同じ音節を繰り返しては昨夜の思い出をなぞる僕の元に、「今日はご機嫌なんですね」看護師がひょっこり顔を覗かせた。


「えぇ、とても素敵な夢を見たので」


 思い浮かべるだけで自然と上がる口角を隠すように手を添えた僕は、看護師に答えながら毎朝の習慣となった体温測定に応じる。慣れた手つきで作業する彼女の目線は手元から動かず、「どんな夢なんですか?」と興味深そうに笑う。


「大好きな女性が、人魚になって迎えに来てくれる夢です」

「へぇ、大好きな女性って事は……もしかして奥さんとかですか?」


 測定を終えた看護師が顔を上げて僕に微笑むと、クイズに答えるみたいに目を輝かせる。


「いえ、残念ながらそこまでの関係には至りませんでした。……それでも僕が出会った女性の中で酷く心が振れたのは、後にも先にも彼女一人です」


 痛い台詞を惜しげも無く吐いた僕に看護師は目を丸くして数回瞬くと、「羨ましいぐらい愛されてるんですね」と静かに微笑む。


「ちょっと重過ぎますよね」


 愛情過多は窒息の原因だ。呆れとも自嘲とも取れない微妙な自虐を看護師に投げた僕は、少し困った様子で乾いた笑い声を上げる彼女の空気で心境を悟ると、「お時間を取らせてすみません」と飛び切りの営業スマイルで頭を下げた。

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