#9

 思い出に浸るのも程々に、海中の夢幻に向き合う人魚は「変なの」と眉を寄せて嗤う。


「大丈夫かどうかを決めるのは、私の返事次第ってこと?」


 彼女に触れられた皮膚が感覚をありありと残して、火が付くように熱を帯びる。本当に夢なのかも疑わしいその光景に、僕はひたすら醒めない事を願いながら口を開く。


「違う……大丈夫だけど大丈夫じゃない。君がいないと痛くって息苦しいんだ」


 悪夢を見た子供のような戯言を吐く僕に「へぇ」と声を漏らす彼女は、しなやかな身体を揺らして僕の瞳を覗き込む。好奇心と少しの艶を乗せたその色に魅入られた僕が息をするのも忘れる程、彼女は暴力的な魅力を放つ。


「……人魚を食べると不老不死になるんだって……ねぇ、試してみる?」


 薄暗い筈の海底で珊瑚みたいに揺れる彼女の唇は赤く、ハッキリと僕の脳味噌に烙印みたく焼き付く。この世界に存在するのは、僕と彼女の2人だけ。誰にも干渉されることのないひたすらの自由に飲まれた僕の目の前には、同じく何にも縛られない女神が舞い降りる。


「不老不死なんて要らない。要らないから、僕も君と一緒の自由になりたい」


 この世に生を受けてから23年と少し。その至って短い人生の中で、いつも心の端に居座っていた単純な願いが、口から飛び出て言霊になる。その言霊は月明かりのように鈍いあぶくとなって僕から離れると、まだ1ミリほど残った生へ執着して遥か頭上へと昇ってゆく。


「自由……ね。貴方にとって、自由は憧れなの?」

「そうだよ」

「ふぅん……でも、何にも縛られない自由は、結構淋しいものよ?」


 少し萎れた声色で小首を傾げる彼女の口から落ちた言葉は、彼女の経験則みたいに転がって溶ける。僕は溶けたソレを拾い集めるように彼女へと手を伸ばすと、日に焼けていない白魚のような肌に触れてからそっと捕まえた。海底の自由と孤独をその身に受けて冷え込んだ彼女の腕は華奢で、少しの水圧でも手折られてしまいそうな脆さに背筋が凍る。


「2人なら淋しくないよ」


 恭しく人魚の手の甲に口付けを落とした僕は、やっと手に入れることの出来た彼女を窺うように視線を投げた。


「本当、変な人」


 クスクスと口元を隠して笑った彼女が僕の手を握り返して腕を引くと、艶やかな唇を柔らかい皮膚に這わせて微笑む。雁字搦めの現実から僕を救う蜘蛛の糸にも見える、柔く長い猫っ毛を耳に掛ける人魚は静かに口を開いてゆっくりと鋸歯を突き立てる。


 グサリと重い一瞬の痛み。その後に訪れる、ナニモノにも代え難い多幸感。全てを齎す彼女は、煽るような上目遣いで傷跡を残す。


 きっと僕が彼女に強く惹かれたのは、僕が持ち合わせることのないであろう一切の自由を抱え込んでいるからだろう。もしもそれが永遠の孤独というのなら、細やかな喜びもこびり付いた悲しみも2人で分け合えばいい──。


 いつの間にか溢れていた僕の涙を優しく拭った彼女は、純潔の聖女のように慈しみの眼差しで僕を包む。


「良い夢を」


 微風が吹き抜けるように耳元で囁いた人魚は、血の匂いを残して心ぶれた僕の唇に唇を重ねた。

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