#8
どうにかこうにか辿り着いた彼女の自宅は、ごくごく一般的な家屋だった。
玄関の扉の隣に設置されたインターフォンに指を翳し、ゆっくりと深呼吸を3回繰り返す。相手の顔色を見ても言葉が逃げ出さないよう、僕は何度も自分の伝えたい気持ちを口の中で反芻させる。
ピーンポーン……
力を込めて押したボタンは、汎用性の高い機械音を立てて人を呼ぶ。少しの間を置いてスピーカー越しに「はぁい?」と返事をしたのは、残念ながらお目当の彼女ではなく、初老に差し掛かった女性の声だった。
「あのー、同じクラスの者ですが……プリントとかを届けに来ました」
特別仲が良いわけでもない彼女の苗字を呼び捨てにするのは馴れ馴れしいし、かと言って「さん」付けするのも余所余所しい?はたまた名前呼びなんて以ての外……早々に迷宮入りした思考の渦に飲まれて、初っ端から砂上の計画は崩れ出す。
「……はいはい、今行かせるわね」
少し不思議そうな声色に内心ドキリとするも、取り敢えず彼女に会えそうな女性の口振りに冷や汗を拭う。夏が通り過ぎて涼しくなった季節の太陽は早くも傾いて、涼しい風が追い打ちをかけて柔らかに吹き抜けた。
「……どうも」
扉が開くと同時に聞こえた無愛想な声にハッとする。喉から手が出る程待ち望んだその冷遇に、僕は言葉にならないまま身震いした。「久しぶりだね」とか、「会えて嬉しい」とか、「心配したよ」とか、言いたいことは山ほど奥歯まで湧いているのに、どれから伝えるべきかと自制心が邪魔をして口を噤む。
「ど、どうも……」
受けた言葉の鸚鵡返しで愛想笑いを浮かべた僕を見つめる彼女は七分丈のTシャツに細めのデニム姿で、普段のセーラー服を纏っている時と私服では雰囲気がまるで違う。いつもは高く結っている髪を下ろし、少しでも動くたびにはらりと振れる黒羽色は翻ってキラキラと光る。
その姿を見れただけでも、僕は概ね満足だった。
きっと誰も知らない、あの彼女が家の中だけで見せている顔。その何でもないような事を特別感に感じるのは、僕が他人に対して見せている優等生を脱いでいる感覚に程近い。
「あのさ……プリントとか溜まってるから、先生が届けてって……それで……」
しどろもどろで説明する僕を警戒するように眺める彼女は徐に近寄ると、差し出したプリントに手を伸ばして受け取る。その瞬間、ほんの一瞬だけ僕の指先が彼女の指先に触れただけで息がつまる程の熱い緊張が走った。
「わざわざありがと」
少し照れたような、それでいて勘繰るような彼女が僕に初めて見せる砕けた表情に、肺のあたりで詰まっていた感情が疼く。もう一歩、あと一歩で彼女の本質に触れられる──根拠のない自信が僕を突き動かし、何度も練習した言葉を喉奥から引っ張り出す。
「学校、もう来ないの?」
「……まぁ」
「君がいないと、ほら、全然違うからさ……だから……」
探られたくない腹を掻き回されたように瞼を伏せた彼女は、長い睫毛を揺らてわざとらしくプリントを眺める。
人間という生き物は誰しも少なからず表と裏が存在していて、片面の向こう側にある側面の落差が多少異なるだけで、本質は変わらない。彼女の様子にそう悟った僕は、疑り深い野良猫が少しでも心を開いてくれる事を願って笑い掛ける。
「また、会えるかな?」
今まで誰かに求められて笑んでいた表情ではなく、僕が自発的に取った反射のような行為に、俯いていた彼女が驚いたように目を丸くした。
「……今なんて?」
「だから、また会いたいって」
一度解けて仕舞えば真夏に溶ける氷のような緊迫感は、その短いやり取りで水泡に帰す。「何それ……」と可笑しそうにふふふっと声を漏らした彼女が張っていた厚くて重い壁がガラクタみたく崩れてゆく。
「私、貴方の事を勘違いしていたみたい」
「勘違い……どういう意味?」
「他人に本心を許さない人かなって思ってたの。でも、貴方もそうやって嬉しそうに笑うんだね」
遠慮がちに笑う彼女に射抜かれて飛び跳ねたのは、憧れた彼女の微笑みをやっと独り占めしたからなのか、それとも──。
卑怯な僕が何処かに捨ててきた、誰にも
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