#5

 自分で言ってしまうのも考えものだが、昔から僕は物分かりの良い子供だったと思う。


 現実主義で信条に対する正義感が強い父と、父と比べて多少の理解はあるもののどこか過干渉な母、僕が中学生の時に産まれた父親似の我儘を通り越して清々しいほど剛直な妹。そんな家族の元で育った僕は、いつの間にか心根を理解して貰うために自分を曝け出すのを諦めてしまった。


 それこそ最初は、あれこれと牙を剥いて食って掛かったこともある。けれど、その行為を続けるにつれて両親の反感を買い、自分の立場を危うくしてしまう事に気付いた狡猾な僕は、取り敢えず周りの顔色を伺うという浅知恵を体得した。


 父がどんなことで怒鳴って、母がどんなことで癇癪を起こすのか──両親が望む理想の『子供』をひたすら演じると決めた僕は、自分自身と両親に向き合う事を放棄したただの弱虫に他ならない。


 小さな事で言うなら、『人前で歌う』なんていい例だ。残念ながら音痴というものは、自分で気付くのはなかなか難しい。幼い時から両親に『絶対音痴』として悪名高い僕が言うのだから、多分間違いないだろう。それでも聞き馴染みのある音楽が流れれば口遊むし、好きな楽曲のひとつやふたつもあって然りだ。


 しかし、父親はそれを「くだらない」だの「煩い」だのと一蹴し、母は「恥ずかしいから辞めなさい」と眉を顰めて苦笑いする。その不満を何度も飲み込んだ僕は、いつからか人前で鼻歌すら歌うのを辞めた。本当にごく僅かで些細な束縛の積み重ねが僕の捻くれた性根に刺さるたび、傷付くのを恐れて他人との間に分厚い殻を張る。


 人の性格と表情を読んで、求められている答えを都合良く述べる仮面の下に、偽りのない自分の好みや感覚をひた隠す。理想で塗り固められた優等生の虚像ぼくは、本人から離れて誰かの期待に通りに寄り添って歩幅を合わせる。


 僕の引き当てた人生は、敷かれたレールの上だけをひたすらに走り続ける虚しいお飯事ままごと──。


 そんな悲観的な考えに囚われていた学生時代に出会ったのが、高めのポニーテールが良く似合う、隣のクラスの彼女だった。


 初対面で無愛想にも程がある冷遇を彼女から受けた僕は、懐かない野良猫と向き合っているような錯覚さえ抱く。今にも唸り出しそうな鋭い眼光に射抜かれ酷く居心地が悪い、残念ながらそれが彼女の第一印象である。


 しかし、ある日僕は見てしまった。彼女の友人知人なのか、とにかく僕の知らない誰かに向ける、彼女の甘えきったような屈託のない笑顔を。その瞬間、僕は生まれて初めて心臓を鷲掴みにされたような強い衝撃が骨の髄まで駆け巡った。


 僕はあんな可憐な女性ひとを知らない。


 出会って数日だから知らない、という訳ではなく、彼女のような掴みどころがなくて多面的に輝く人の前例を僕は持ち合わせていないのだ。


 ──もっと、彼女を深く知りたい。


 貪欲なまでの欲望が僕を飲み込み、その意識はいつのまにか潜在的に本能と結び付く。少しでも視界の端に彼女の影が映るたび、僕はほぼ無意識で彼女を目で追う。


 クラスが違うせいで彼女を眺められる時間は限られていたが、それでもその時々で表情を変える彼女は様々な色石を組み込んだ万華鏡のような魅力の持ち主だった。

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