#4

 現実の向こう側に堕ちた僕は、今日も虚ろな夢を見る。


 仄暗い水の中、泳げるはずのないソレを掻き分けて進む金槌の僕はただの人間で、夢の中で人魚になることすらままならない自分に溜息を零す。水の抵抗を感じながらも、決して苦しくないその空間で彷徨っては深く息を吸う。吸い込めるだけ溜め込んだ海水をふぅ、と吐いた僕の口から溢れた僅かな気泡が、静まり返った空間にコポコポ……ッと音を立てた。


 ラーラ……ラララーララー……


 遥か遠くで何処か近い、海に差し込む日差しのように透き通った歌声が、静謐の波間を掻い潜って響く。ゆっくりと体制を変えて声に導かれながら進んだ僕は、聞き覚えのあるその声に瞳を閉じて入り浸る。


 潜れば潜るほど薄気味悪く澱んでゆく海の底は見えない。すっかり冷え切った水の温度に身震いしつつ、それでも蜜の香りに誘われた愚かな蠱は澄んだ歌声に溺れる。


 きっとこれは夢の底。


 辿り着いてはいけないし、辿り着くこともできない。蟻地獄よりも緩やかで穏やかな淡く艶っぽい毒牙に捕えられた僕は、陽の光が届かなくなった暗闇の尻尾を捕らえようと必死に目を開けた。


「……貴方、誰?」


 微風が咲き誇る花々の花弁を揺らす様な、優しく労わる声にハッとする。僕の目の前にいるのは、人間と魚を混ぜて半分こにした正真正銘の人魚だった。しかし僕が驚いたのはそこではない。色白の肌を晒す婀娜っぽい人魚の容姿が、記憶の奥底にリボンを掛けて閉じ込めた想い人にあまりにも似ていたからだ。


「初めまして……ですよね?」


 情けなく上擦った声に、人魚は「えぇ」とだけ答える。その素っ気ない態度も、猫の様に気まぐれで繊細な彼女にそっくりだった。


 柔らかく靡くしなやかな髪、長く日差しを下ろす睫毛、その影に隠れる品位の中に爛々した好奇心を隠す瞳。スラリと通った鼻筋にふくよかで愛嬌のある唇──決して愛想が良いとは言えない表情でこちらを見つめる彼女と向き合った時、僕の心臓が痛むくらいに飛び跳ねる。


 初恋の相手を思い出して文字通り童心に帰った僕が次の言葉も出ないまま立ち竦むと、品定めをするようにじっとりと僕を見据えた人魚はひらりと羽毛の様に舞い泳ぐ。精巧に作られた硝子細工みたいに美しい尾鰭が僕の視界を擦り抜け、彼女は僕を挑発するように身を捩ってそっと僕の首筋の傷に触れた。


「大丈夫?」


 冷え切った指先を添えて心配そうに微笑む人魚の顔は、僕が最後に彼女を見た遠慮がちで控えめな笑顔によく似ている。同じ人間のはずなのに僕の持っていない何かを持ち合わせた、憧れよりも遠い崇高な存在。氷柱みたいな凛とした雰囲気の中に雲のような大らかさを持ち、時には雪よりも脆く儚い彼女は、自由自在に形を変える水のようにも思えた。


「……大丈夫じゃないって言ったら、どうにかしてくれる?」


 夢が願望を映し出す鏡なら、あり得ない再会をあり得ない形で魅せてくれた事に心から感謝する。熱くなる目頭にぼやける視界のまま、僕はあの時独り占めしたくて堪らなかった彼女の笑顔を眼窩に付いた2つのレンズに焼き付けた。

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