第27話 甘さと酔いのマリアージュ

「アスナの匂いがする……」


 アスナが僕の部屋に来た翌日、玄関を開けるなりすん、と鼻を鳴らした彼女が一言呟いた。イヌかよ。


「来た?」

「来たけど」


 短く返したその一言を聞いた彼女が返してきたのは「ふうん」とだけ。わかってるけど、一応。みたいなそんな聞き方だった。


「で、そのあとは?また来た?」

「いや、昨日の今日だよ?」

「行った次の日に来たじゃん。わたしは」


 いや、まあ、そうだけど。それはアンタだからできたわけで。


「今日も来ないってことかな。その様子だと」

「毎日来る方がおかしいんだけどね」

「はいはい」


 僕のクレームには一切聞く耳を持たず、彼女は玄関を跨いだ。


「こりゃ配置も変わってるね」


 玄関入ってすぐ、まだ部屋の様子も見てないうちから彼女は全てを察したように言った。


「わかる?」

「化粧品類を収納ボックス?に入れてはしごの下に移動させた、くらいかな」

「あ〜それはちょっと助かるかも。いっぱい置きすぎて困ってたから」


 だったら数減らせよ。


「あとは?」


 いちいち全部聞かないとダメなのかな、と思った僕はアスナの行動を一通り話していく。


「寝室も入った、と。寝てないんでしょ?ならいいわ。不問」

「誰目線だよ……」


 その後も部屋のあっちこっちを彷徨いた彼女はその状態を見ては「お、こっちも片付いてる!ラッキー!」なんて言ってる。なんていうか、肝がすわってるというか、こき使うのに慣れてるというか。レベルが違う気がする。


「ん。これならありがとうって感じかな。だいぶ整理してくれたみたいだし」


 そう言って彼女は着ていたTシャツを脱いだ。そろそろ8月も終わりに近づいてるのに、まだ猛暑日が続いていて、ここまで来る間で張り付いたらしいTシャツと一緒にインナーも道連れに脱いで、水着のようなブラだけになった。


「はぁ〜涼しい!下も脱いじゃおうかな」


 もちろん僕の許可なんてとってない。下着姿になった彼女は扇風機の前に立ってその風を一手に引き受ける。


「あ〜気持ちい〜」

「自分ちでやればいいじゃん」

「扇風機なんてないし。そもそもほとんどいないし、買う手間とお金を取ったらこっちの方が安上がりだから却下」


 却下じゃねえよ。家に帰れよ。


「買う手間って言ったって通販でしょ。組み立てなんかすぐじゃん」

「くっそ暑い中組み立てるとか頭おかしくない?ここにくれば一発で解決。ついでにあったかいご飯とシャワーじゃなくてお風呂があって、快眠できるベッド付き。至れり尽くせりじゃん」

「そりゃ全部僕がやってるからね……」


 横暴も極まってきすぎて文句すら出ない。


「アスナもあんなとこにいないでこっちにくればいいのに」


 まるでアスナの住んでる場所を知ってるかのような口ぶりに驚いた僕は思わず聞いてしまった。


「知ってんの?」

「むしろなんで知らないと思ってんの?」

「いや、知らない方が普通だと思うんだけど」


 なんで知ってる方が普通な反応するのかわからない。


「え、だって駅から5分でしょ。そんなの1箇所しかないじゃん」


 彼女はそう言ってキーボードとマウスを引っ張って最寄駅周辺の地図を広げた。


「ここ」

「いや知らないし」


 隣にも似たような建物があるけど、彼女はピンポイントで建物を指した。


「そのくらい知っといた方がいいと思うけどな。常識よ?」

「いや、僕が知ってたらストーカーのアレでしょ」


 勝手な常識を押し付けないでほしいんだけど。


「別にアスナは気にしないと思うけど。っていうか、そのうち来て、くらい行ってくんじゃないの?」

「……」


 どうして彼女はそこまでわかるんだろう?エスパーか?


「あれ?どうしてわかった?みたいな顔してるんだけど、もしかして図星?」

「図星っていうか、事実っていうか」

「あの子も手がお早いですこと。いや、やっと?って言うべき?まあ、いいけど」


 ウフフ……と彼女。


 他意はないんだろうけど、なんだか不穏な気配を感じる。


「ふ。ま!そんな今さらなことしたところで、わたしの絶対的な牙城は崩れないからね!」

「いや、僕の部屋なんだけど」


 勝手に自分の家にしないで欲しい。


 さすがにアスナはそこまでしないと思うけど、彼女のモノをご丁寧に整理しただけにそこはかとなく不安を感じる。


「と、そうだそうだ。アレ、食べよっと」


 思い出したように彼女は立ち上がってキッチンに向かう。冷蔵庫が閉まる音が聞こえたと思ったら、戻ってきた。右手にはブランデーとスプーンが2本。右手にはダッツなアイス。そこら辺のスーパーに置いてある小さいタイプではなく、それより1サイズ大きいファミリータイプ。


「あっついからさ〜。食べたくなったんだよね。これ」


 定位置の椅子に座った彼女はカップのふたを開けると、スプーンでひと掬いずつアイスをとり、できた穴にブランデーを流し込んだ。


「アサカには強いからもうちょっと取ってちょん付けで」

「ちょん?」

「ん〜……このくらい、取って、で、ちょん」


 カップの淵をなぞるようにアイスを掬い取り、ブランデーが入った穴にスプーンの先が付くか付かないかくらいのちょんをした。で、僕に向ける。


「はい、あ〜ん」

「自分で――」

「あ〜ん」


 食え、と目が言ってる。


 こういうときの彼女は絶対に譲らないので、渋々口を開ける。


 スプーンが口の中に入り、とろりと濃厚なバニラが口に広がる。そのすぐ後にふわりとバニラじゃない果物のような甘い香りが鼻を抜けていった。


「どう?美味しいでしょ?」


 悔しいけど、美味しい。


 頷くと、「んふ。そうでしょう、そうでしょう」と満足そうに微笑んだ。


「飲むだけかと思ったんだけど違うんだね」

「たまにはね。こういうのも知っておいた方がいいでしょ?」


 そう言った彼女の顔はどこか妖艶な雰囲気を感じた。


「部屋に入れるな、とは言わないし、行くな、とも言わないけど、入れ込むのはほどほどに」


 2口目を差し出しながら彼女が言った。


「そっちのスプーンは?入れ込んでなんかないけど」


 2本持ってきたのに使ってるのは1本だけ、という謎行動を指摘しながら、返事もすると彼女はさらにスプーンを遠くへ追いやった。


「全通してるヤツが言っても説得力ないんだけど?使う?って思ったけど、やめた。こっちの方がいい」

「……餌付けされる趣味はないんだけど」

「そう?この際だから新規開拓ってことで」

「イヤだよ。なんでそんな趣味開拓しなきゃいけないんだ」

「そりゃあ、わたしが優越感に浸れるからでしょ」

「……」


 なんだコイツ……。


 立ち上がって取ろうと思っても、彼女がいる側の奥の角だから取るに取れない。


「美味しいからって食べ過ぎると悪酔いするから。わたしがペースを作ってあげてんの」

「ああ、そう」


 そう言われたらしょうがない。僕は椅子に腰を下ろす。


「いや、なんで納得した!?毎回二日酔いするヤツにペース掴まれたら僕だって二日酔いになるだろ!」

 

 スプーンを彼女の手から奪い取ると、僕はひと掬い。今度はブランデー多めのところから取る。


「あ!ちょっ!」


 奪い返そうとする彼女の手を交わして口の中へ。濃厚なバニラとブランデーの香りが口の中で混じり合う。と、同時にくらぁっと視界が歪んだ。


「ほらぁ……だからダメって言ったじゃん。ほら、水」

「どうも」


 口の中の香りから甘さから全部を洗い流していく。けど、酔った浮遊感は全く抜ける気がしない。


「まったく……だからわたしに任せろ、って言ったのに」

「二日酔いするヤツに制御できるとは思わないだろ……」

「わたしより弱いんだからできるに決まってんでしょ。人のブレーキはちゃんとするっての」

「自分のブレーキは壊れてんのに?先に自分の方を直せよ」

「直したら踏んじゃうからダメ」


 ダメじゃないだろ……。


 そんなツッコミも入れる余裕がないくらいクラクラしてる僕に、彼女はアイスだけを掬ったスプーンを突っ込んでいく。濃厚な甘さがちょっと邪魔な気がするけど、冷たい水分で少しずつ回復していくのを感じる。


「それはそれとして。お金のとこはちゃんとしてるみたいだからそこまで気にしてないけど、アスナと依存関係になるのはダメだからね?あれはマジでいろいろ壊れるから」


 まるでそんな人たちを見てきたかのように、諭すような声色で彼女が言った。


「それ、人のこと言えなくない?」

「わたしは逃げてるだけだから。ちょっと違う」


 それはそれでどうなの?とも思わなくもないけど、彼女がそう言ってるってことはどこかで向き合うつもりはあるらしい。


「逃げ、ねえ」

「期限付きだから。そこは安心して。ずっとこのままってことはないから」


 言い切った彼女はアイスを掬った。


「スズが卒業したら終わりって?」

「ん〜まあ、それもあるかもしんないけど、どっちが先になるか、わかんないよね」

「スズはまだしばらくいるでしょ」

「だとしたら、こっちが先かなぁ」


 なんだか残念なような、ずっとそばにあったものを失くしたような、そんな声が宙に浮かんで解けた。


「……時間切れの試合終了は、もしかしたらあるかもね」


 睡魔に引っ張られていく中で聞こえた呟いた彼女の言葉が、妙に寂しげで耳に残った。

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