脳と冷奴
賭けると言っておきながら、別に命を失うつもりもなかった。強いて言えばギン……と、僕だけ生き残ればいい。
だから今回は戻れると思ってやる。じゃないとそもそも死ぬ。
二人で、今回やるべきことを纏めた。
まずはペンションにいる人全員へ、火気関連で何かないか聞くこと。そして、一階で火事の元になりそうなものを探すこと。
聞き込みは、対人スキルが僕より優れている
一階の調査は、僕がやることになった。リビングに人がいたら積極的に聞くつもりだ。
正確な時間が分からないので、タイムリミットは仮定で午前一時とした。
僕達は部屋を出て、すぐ向かったのは、《
「なぁなぁそこのおっきい人」
名前を知らないので、なんと話しかけようか悩んでいるところ、真っ先にギンが突っ込んでいった。
「ふむ。どうした、名を知らぬ方」
「私は
「
サラッと会話が進んでゆく。一体どうしてこいつはここまでグイグイいけるんだろう。前回の記憶とか邪魔にならないのかな。
「
「確かあんたはすごい先生の担当編集なんだっけ? カンヅメってやつか?」
「ああ、
適度に前回の知識を使って会話しやがって……そこまで上手く回すなら僕が居なくても良かったかもな。
「
「んおっ、君は先生のファンか?」
「はい」
そうじゃなくても、動向を探るためにファンだと言う。俗に言う捨て回だろうと全力を尽くして火事を止められたら、目標達成だ。
偽りは、これっぽっちもないけど。
「先生は午後十一時から日付が変わる頃まで、海見と共にリビングで晩酌をする約束がある。その時に多少話せるだろう」
海見さんって人と話せるのか……?
午後十一時から……今さっき時計を確認したら、午後七時三十二分たったから、残り三時間と二十八分。
「そういや徹さん、あんた、火もってない? 火の気がするものとか」
「そう言われてもな。それらしいものは特に……」
「先生もそれらしいものは持っていないんでしょうか?」
「そうだな。ライターも持っていない」
聞くべきことは聞き終わったので、僕はその事へ感謝して、一人で階段を下った。
ギンは二階の部屋の海見さんと波佐見さんへ接触するので、少し残った。
リビングは、ソファに實さん、そしてキッチンの方に波佐見さんがいた。實さんはもう固定でリビングにいるだろうし、先に波佐見さんへ話しかけることにした。
「
さっきのコーヒーカップを五人分洗っていた。
「あっ! 今淵くん。ちょうど今、さっき使ったカップを洗っていたんです」
「洗い物ですか。すみません気づかなくて……」
「ああいや、いいんです。遭難して大変だったでしょう。ゆっくりしてください」
メイド服も相まって、給仕のそれだった。しかし、それは忠誠心からではなく、初対面の他人への善意だった。
前回もこうやって、僕たちの知らないところで洗っていたのか。
どうして見ず知らずの他人に、ここまで善意を振りまける?
「……今淵くん?」
ぼうっと、波佐見さんのことを見てしまった。
いつの間にか洗い物は終わっていた。
「あ。すみません、ジロジロと。メイド服が気になって……」
そうだ、メイド服なんだよな。どうしてメイド服なんだろう。
「あはは、海見の趣味と言いますか……」
「はは……いい趣味ですね、執事服じゃなくてメイド服を選ぶ点とか」
普通なら性別通りに服を選ぶもんな。天才ゆえのそれというか、まあただの性癖というか。
これだけ容姿が良ければ、男でも関係ない……むしろいいのか?
「えっ?」
波佐見さんの手が、止まった。何故だろうと顔に目をやると、口が開きっぱなしになって固まっていた。
驚いている……? 何故……
「……あっ」
不意に、前回の知識を言ってしまった。そうだ、見た目だったらほとんど女性なのに、今ここで僕が気づくのは変? いや、別に変でもいいんだけど、僕がポロッと変なことを言ったせいで後々話が聞けなくなっても困る。
いかん、どうにか誤魔化して……
「えっあ! えっと、自分で言うのも変ですけど、いつわかったんです? 僕が男って」
「あ、あー、なんとなく下の名前が
「すごいですね! 自分から言わずに気づかれたの初めてです!」
いや、ごめんなさい。前回は全く気づかなかったです。というか今でも本当か疑ってます。
「そんなこと言っても、やっぱりおふたりの方が凄いですよ」
「あはは。確かに海見は凄いんですけど、僕は別にすごくないですよ。ただあいつのコミュニケーションを手助けするだけですから」
今の状況で言うと、僕にとってのギンがそんなところだろうか。コミュニケーションができない者の意見だけど、助かるんだよな……僕は全くもって探偵じゃないが。
「立派じゃないですか。僕だって対人はギンの方が得意だから、任せっぱなしですよ」
「でも、隣にいるのに推理やらはてんでダメで……だからこそ、今淵くんのそういう気づく力、必ず何かしら武器になると思います、もっと誇ってください!」
「えっ、いやぁ、そんなことは……」
気づく気づかないじゃなくて、カンニングみたいなことで、そんな賛辞は受け取れなかった。
そう返すと、物寂しい顔というか、浮かない表情をして、しかし誤魔化すように「あはは」と、波佐見さんは笑った。
どうしようもない劣等感、言うまでもなく僕ではなくて、海見さんへの。
探偵と助手、その関係は解き明かせない謎なのかもしれない。
「あ! というか、全然敬語じゃなくても大丈夫ですよ。敬語が楽ならそれでも良いんですけど……」
「それを言うなら、波佐見さんだって敬語じゃないですか。僕だけタメ語というのも」
「それもそうですね、あっ、じゃなくて。そうだね、今淵くん」
そういえばこの人、見た目は若いがいくつなんだろう。さらっと呼び方は君付けだったし、案外僕より年上だったりして……?
「じゃあお言葉に甘えて。聞いてなかったけど……波佐見はいくつくらいなんだ?」
「歳? 歳は二十九だけど、今淵くんは?」
「二十三……です」
「この流れで敬語はやめてよ!」
僕より六つ上だった。全くそうは見えないんだが、やっぱりメイクとかしてるんだろうか。というか、あの相棒にそういうのもさせられてるのかな。
「あ、波佐見。火持ってないか? 火の気関連の」
「ん、火? 今淵くんって喫煙者だったりする? 残念ながらないけど、コンロの火でも使う?」
「いや、そういうことじゃないんだが……海見さんも持ってなさそうか?」
「そうだね。煙草の臭いは好きだって言ってたけど、吸ってるのは僕だけだし、さすがに登山中は禁煙してるし」
この人タバコも吸うんだ。
「ありがとう。それが聞きたかっただけだ」
しかし、必要なことは聞いたので、その場を離れて實さんのいるソファに向かう。
「おや、今淵くん。マッチなら机の上にあるから、明日までに返してくれれば自由に持ってってくれていいよ」
話はしっかり聞かれていたようで、僕は言われた内容通り、机の上にあったマッチをもらう。
「暖炉もこれでつけてるんです?」
「ああ。そうだよ」
「暖炉の中の薪は?」
「普段なら外で薪割りをして補充するんだけど、こんな猛吹雪だから念の為貯蓄していたものを使っているよ」
暖炉のことは分からないので、管理人が言うならそうなんだろうと思い、僕は實さんと少し間を開けてソファのエル字部分に座った。
「それじゃ實さん、大きな音って聞こえませんでした?」
「大きな音?」
「大きな音じゃなくても、変な音。なかったら別に……」
リビングにずっといる實さんなら、前回の徹さんが語った大きな音も心当たりあるかもしれない。そう思って何気なく、この質問を追加した。
それが彼にとっては、いきなり立ってしまう程のことだったらしい。
「實さん?」
「あ……ああいや。なんでもないよ」
實さんは一度立って、またソファに座った。
「なにか心当たりが?」
「はは……」
顔から心も読めないが、動揺していることはわかった。
何か、ある。
「ところで今淵くん。鵺って知ってるかな?」
「………………
──────鵺。
黒煙を上げてヒョウヒョウというトラツグミ(鵺)の鳴き声で鳴く何か、そこから
しかしなんでいきなり、鵺?
「この山をなんて言うか、今淵くんは知っているかな?」
「
一応登りに来てるんだ、そんなことは知っている。
しかし、實さんはこの答えにかぶりを振った。
「──────
背後に吹雪く音がする。僕の背後は大きな窓で、その音が聞こえるのも当然。けれどタイミングのせいか、その言葉に聞き入ってしまった。
「伝承によると
そして名前が変わって、
「鵺は
それは今の状況にか、鵺とやらが転ずるという伝承か、あるいはその両方か。分からないけれど、オカルトもここまで来ると恐怖せずにはいられない。
もしもその鵺が、この吹雪を起こしているのなら──────
もしもその鵺が、火災すら起こしているのなら──────
僕達は一生、生還できない。
「というか、なんでそんな所にペンションを……?」
「なんか好きだなって」
長年連れ添った友達以上との恋愛?
「蓼食う虫も好き好きですか」
「虫扱いは困るけど、まぁそうだね」
そのおかげで助かっているんだから、なんとも言えないけど。
「なんでここ、好きになったんです?」
こんな行動をするぐらい好きになる要素が、この山にあるんだろうか。それともこの人はなかなかのオカルト好きだったり────
「ん────特に理由はないよ」
「へっ?」
呆気に取られる。その男は前々から表情の無い男だったが、真顔でそういうもので、疑問しか出てこなかった。
「……本当はオカルト好きとか」
「いや」
「景色が気に入ったとか」
「うーん、別に」
特にって、そんなはずないだろう。
「なにか言えない好きな理由が!」
「──ないよ、好きな理由なんて」
「じゃっ、じゃあなんで……」
それじゃあなんで好きなのか。
言い終わる前に、實さんはそういった。
「好きになるものに、理由なんてないよ」
好きになるものに理由なんてない。その一言は、無表情で無感情な管理人というイメージで作られた實さんを、軽々打ち砕き、そして、それが
「嫌いになることさえ、自然なこと。そこに理由をつけるのは、好きなものが嫌いになったり、嫌いなものが好きになったり、そんな自分を納得させる方便さ」
好きも嫌いもただの感情で、そこに理由はいらない。
そう、實さんは断言した。
「夢だって、そのときなりたいと思ったものが夢じゃない?」
「…………」
沈黙した。けれど、同時に肯定であったと思う。僕はこう生きてきた訳では無いけど、何故かストンと心に落ちてきたから。
「僕はそのために……」
途中で何か言いかけて、實さんは黙ってしまった。
鵺、夢、その末。
波佐見さんはいつの間にかリビングからいなくなっていた。二階に行ったのだろうと思って、僕も二階に行った。追った訳ではなく、ギンに波佐見さんへ聞く必要が無いと伝えるため。
「某太郎?」
「いや別に追っちゃおと思ったんじゃなッ……なんだギンか」
「なんだとはなんだねキミ」
とりあえず聞かれてもまずいので、僕らの部屋に入った。
「で、まぁ。實さんも波佐見さんも、このマッチ以外火気関連なさそうだったわ」
報告ついでに外がどうなっているか確認しようと、カーテンを開いた。
言ってしまえば怖かったから。鵺という存在が居ないことをこの目で確認したかったから。
結論で言えば何も無かった。ベランダには信じられない量の雪が積もっていて、そもそも見れる状況じゃなかった。
これを使う人はいるのか……? こんな吹雪じゃなきゃいるのかな。
「へー、マッチ。ちなみに
下の名前か〜
「そっか〜」
じゃあ音ってのが分からないけど、火災の原因はマッチかな。それか、一階で寝泊まりしている
「しっかしどう関わるか……」
「
「あー…………」
茶髪、赤ふち眼鏡、猫の瞳孔のように縦長。身長は僕より大きい彼。
嫌いじゃない、むしろ僕の方が嫌われているだろう。口が悪いというか、当たりが強いというか……そういう人だと思っていた。
思っていたけれど、あの人も
決して、根が悪い人では無いと思う。
「だったら前……そう、二十一時頃にリビングで話したはずだから……」
時計を読む。まだ午後七時四十七分。
「ほぁ〜、んじゃあまあ夜美が風呂の順番聞く方がはえーな。それこそ二十時……半とかだし」
その時までに部屋かリビングに入れば話せる……から、あと四十分はやることが無い。
あの火災は誰かの──────
「腹減ったー、キッチン使っていいならなんか食おー」
思考を掻き消した。
ギンは放った荷の中に、食料がないかを漁る。といっても、僕も腹は減っていた。
「某太郎は何食う?」
「ペミカンか固形のチーズくれ。あとはいいよ」
「お前なぁ……」
他はいらない。他は食べられない。そんなこと、ギンは知っているはずなのに、言葉の続きも言わず呆れられた。
溜息。それとペミカンを手渡される。
「いいだろペミカン食っても。
ちなみにペミカンとは携帯食、保存食品の一種で、カナダ、アメリカに先住するインディアンたちの伝統食。超絶絶対スーパーフードだ。
十年一昔というなら、一昔前のペミカンは安全に食べられる。
ただししっかり冷凍保存したものだが。
「固形のペミカンと固形のチーズしか食わないからキモイんだよ」
人の食事にキモイと言った……?
「そんなんしてると、ロキが拗ねるぞ」
──────食欲がない。
ああ、そうか。こいつも見ていたのか。
そりゃ、当たり前か。
「そんなこと言われても…………」
二十年以上前、六月三日のバースデイ。
「これは本物だから──」
本物だから、困るんだ。
結局ギンもペミカンを持ってキッチンへ向かった。ほらやっぱ、お前も好きなんじゃないか。なんてつまらないことを思いながら、僕は時間が過ぎるのを待った。
眠らないよう座禅でも組んだ。
ゆっくりと、時が過ぎるのを待つ。
そういや誰が話したか知らないが、こんな話をされたことがあった。
未来へ行けるが、過去へは戻れない。
だから、タイムトラベルは半分可能。みたいな話。
眠れば未来へ行ける。今を消して未来へ行ける。だけど、今の僕達は過去へ跳べて、過去を変えられる。
……いや、もしかしたら。
もしもだ。
僕の大好きな未来の関わるお話に、こんなものがある。
過去が変わっても、パラドックスが合わないように、過去を変えた者の帳尻合わせが行われる。
だから、このペンションは燃えるし、僕らは猛吹雪の雪山で死の淵を待つことになる。
そんな、妄想。
「おい、某太郎」
知らないうちに視界が真っ暗になっていた。驚いて瞬きをする……と、普通に見えた。
目の前にギンがいた。変わらず僕は部屋にいた。
「ん……?」
眠らないようにしていた坐禅は、全く意味がなかった。
「あぁ、そうか。寝ていたのか」
さて、時計は何時を……午後九時十分!? いつまで寝ているんだ僕は……とりあえず
「ギン!
「撃沈した」
「えっ?」
んっ?
「終わった………………ゼッタイ嫌われた………………」
僕の見間違い、聞き間違いでなかったら、人とのコミュニケーションで完全に頼り切っていたギンが、嫌われた、と言いながら、膝から崩れ落ちていた。
「な……なにがあったんだよ。お前が無理なら僕なんて絶対無理だぞ」
僕は命婦さんや実世くんみたいな、心の強そうな人は苦手である。徹さんは遠ざけても関わりに来るので苦手じゃいられない。
「いやー……いや、わかんねえけど、ライター持ってない? って聞いたら、驚かれて距離を取られて逃げられた」
「なんだ? 今のところ嫌われる要素がわからんな」
「私だってわからん。どうにかしてくれ某太郎」
「いや、僕は
逆に言えば、
「あ〜何が悪かったんだ〜? 馬鹿は嫌いだったかぁ? でも挨拶した時点じゃ別に……やっぱ火かなぁ〜、喫煙者嫌いとか? 言ってよぉ〜!!」
倒れてどたばたと猛省しているギンを尻目に、僕はリビングへ向かった。
リビングには言うのも面倒だが實さんが居て、窓を背にしたL字型のソファに、
茶髪の赤ふち眼鏡、猫の瞳孔のように縦長で、人並みの身長をした男の人。
「ああ、今淵くん。こちら──」
「知ってます、
「ちょっと待って、なんでいきなり君付けなの」
三者、先を見据えて発言する。
「そりゃ今淵くんの方が歳上なんじゃない?」
「んなわけないでしょ。せいぜい
「二十三歳です」
「あんた一個上かよ…………」
「
「はあ、どうぞ今後は適切な関係を」
「それじゃあこれから親友だね」
「實、こいつ距離感バグってるんだけど」
前回の記憶がある分、かなり攻めてしまっている。まぁでもこんなもんだった気もするし、いいか。
「
「は? ないけど」
「そっかー」
「えっと……なに? あんた吸う人?」
持っていない……か。それならやっぱ、
「あれ? マッチは?」
「いや、火がないか聞いてるだけです」
「なぜそんな奇行を……」
しかしこうなると本当にすることがないな。あとは念の為に藤堂さんや海見さんと話して、それから先は答え合わせ。
いや……どうしてしまおうか。
「どーしようかな……」
「なんなんだお前……何もせずに吹雪が晴れるまで待ってろよ」
吹雪が晴れるまで。
晴れる前に火災に包まれてしまうという点さえ除けば、完璧だな。僕もそうするしかないと思う。
この山に登ってしまった時点で、こうなる運命だったのかな。
「そりゃ……晴れたらいいけど」
変に匂わせてしまうほど、今の僕は不安定だった。
火災、ロキに言われたこと、魔術の存在。ああ、それと初めての登山、初めての遭難、初めての命の危機。
なんとか持ちこたえたが、さすがにちょっと疲れる。
なんで登ってしまったのか……そういや、ギンが言い出したんだよな。それも確か魔術関連だった気が……よく覚えてはいないけど。
「
言ってしまえばただの時間つぶし、暇つぶしのためにそう聞いた。ギンは魔術、僕はついていっただけ。だから、この天嫁山を登るまともな理由を知らない。
「……」
何も無い表情。
半目で、口が無気力に開いて、ソファに頭をぶつけて、ぼうっと中空を見ていた。
「…………退屈で平凡、つまんない地方公務員な限界ギリギリ現実世界くんは、逃避の為にこの山を登ったわけだ」
地方公務員なんだ。
「そしたら遭難した」
「災難だね」
「僕、
つまり現実世界から名前を取られた
めっちゃ不運〜。
「運悪いね」
實さんと同じ感想しか持てない。
「と考えると、ここのペンションは運の悪い人達が集まってるってことか……」
「やめろそれ。辛くなる……もう寝る」
「
ってことは寝てる暇ないじゃないか。命婦さんが風呂から上がったらすぐ次なのに寝てしまったぞ。
「あとで入るんですかね、そういや命婦さん──」
「──────なに?」
言葉が遮られるなぁと思って、玄関に繋がる扉を見た。
つまりは別人、声も女性。
艶っぽい髪、プリン頭の小柄な女性。元々金髪で染めていたのだろうが、地毛が生えてきて頭頂部だけ黒くなっている。切れ長の目で、身長は小さいのに威圧感があった。
噂をすれば影がさす。
「あんた、名前知ってんだ」
彼女は、
「……
「ふぅん、よろしく。で、なに?」
あー、もうついでに聞いてしまおうか。
「あの〜」
「あ、待って」
今後はあんまり人の話を遮らないようにしよっと。
「あんたあの子……路銀って子と一緒にいたよね。仲良いの?」
「え、はい。誰よりも仲のいい他人です」
「なにそれ? まあいいけど……じゃああの子に伝えといてくれない?」
うちのギンがなにかしてしまったんだろうか。いや、そのくらいじゃなきゃ普通、あいつが拒絶されることもないよな……
「えっと……なにを?」
「……逃げて悪かったって。あと、あれ持ってないって。なんであれが欲しいか分からないけど、できる限りその話はしないでちょうだい」
一度考えてピンと来た。多分この人は火に何かしらのトラウマがある。
嫌いだったのは火……ギンではなく、火……そして火事が起きる……?
繋がらないとは思えない。
この人は……重要人物だ。
「しっかり伝えておきます」
「うん、よろしく」
一番火の気がなくて、一番火に関係していそうな彼女は、部屋へと戻っていった。
午後九時二十三分。あと一時間と三十七分。
藤堂さんと海見さん、その二人に接触する機会。
「まだまだあるなー……時間」
復習でもしておこうと思って、自分の部屋の荷物を漁り、肌身離さず持ってきてしまったナジミシルエットを取り出して、リビングに戻った。
「……本?」
不思議そうな顔で、實さんはナジミシルエットを見た。
「知らないですか?」
「生憎寡聞で。ん、宇良ニナルって書いてある。先生の著作か」
さすがにこの男も宇良ニナル先生のことは知っていたらしい。なにしろ神作家、知らないのが不思議なくらいだ。
そういえば、シリーズの後ってなにかしら作品書いてたっけ……あ、今、遭難しながら書いてるのか。
「へぇ、もしかして藤堂さん、海見さんと共に晩酌を?」
「はい。少し聞きたいことがあって」
「それじゃ、君にとって遭難したのは幸運だったのかな」
不吉なことを言いやがって。そりゃ、憧れの作家と話せるというのは理想も理想、夢も夢だが、それとこれとは話が別。全く違う。遭難してあえるなんて、ギリギリプラマイゼロ。その後、火災があるんだからマイナス。
「はは……」
その場は苦笑いで済ませた。変に言っても仕方ないし。
「自分から話しかけようと思って、晩酌に付き合うのかい?」
「そうですけど」
妙なことを聞くな、と思ったけど、素直に肯定した。
「凄いね。僕だったらメンタル持たない。あの二人の間に入るって、なかなかの度胸が必要だよ」
「そうですかね……そういうもんですかね……」
「いやまあ、あの神と呼ばれる二人を相手にするんだから。凄いよ」
──────神。
先生の方は、神作家。それはすぐに分かったんだが、もう一人。
職業は探偵。せいぜい人助けして神のように称えられる。そのくらいだと納得した。
そのすぐ後に過ぎったのは、噂話。
「海見さんは三歳頃から周りの失踪事件を解決していた名探偵──────」
ただの噂、尾ひれの着いたもんだと勝手に思わされてた。
「あれ、本当だったのか……」
だとしたら、
「神童──────とか思ったろう?」
僕は顔に出やすいタイプなのか、實さんに続きの言葉を当てられてしまった。
「だけどそれは違う。神童なんて呼ばれていない」
しかも、違うらしい。
「彼女は、神としか呼ばれていない──────」
神と神の晩酌。
《
《
時間も経って、二十三時に差し掛かった頃合い、階段から下りる足音が聞こえて、リビングの扉は開かれる。
最上川さんを後ろに連れて、その人は堂々と。
黒いコートに黒手袋、全身黒ずくめの怪しい人。
僕はその人を知っている。
自己紹介をしたくらいの、薄い関係性だが、その人のことを覚えている。
そしてその人は、僕のことなんか知らない。
「君か、今日の晩酌に付き合ってくれるというやつは」
彼の名前は、
《
僕が立ち上がって名乗ろうとする前に、その人は決まって先に聞く。
「あっ、どうも──」
「好きな飲み物は?」
だからほら、中腰みたいになった。
「……ココアです」
「名前は?」
名前は知っているはずなのに、藤堂さんは必ず聞く。本人と徹さんの語るところによると、聞きたがりらしいのだ。
「
僕は深々と頭を下げる。
二回目とはいえ初対面、そして憧れ。
下げざるを得ないのだ。
「よろしく。生年月日は?」
「一九九五年、六月三日の二十三歳です」
更に言うとこの人は、
「好きな食べ物は?」
「ペミカン、固形のチーズ、ボトルの完全栄養食、チョークです」
「面白いな。俺の作品は好きか?」
「はい。ナジミシルエットが一番好きです」
めちゃくちゃ質問してくる。
無限に、本当無限に、飽きる暇がないほど、聞いてくる。
好きな飲み物を答えても出す訳でもなしに、ただただそれを片隅に留めておくらしい。
それがネタなんだという。
もちろん手伝えるのなら本望だが、なぜ飲み物から聞くんだろう。
「なるほど、じゃあキャラ────」
「藤堂先生、少々一方的に聞きすぎかと」
「そうか。悪いね」
やっと徹さんの助けが入って、質問は切り上げられる。
「海見くんが来るまで、少々待つか」
このまま質問が止まらなかったことを僕は知っているので、本当に助かった。
たった五分だと言うのに五十の質問をぶつけられた。
一秒が本当に長かった。
またしばらく待って、酒や席の準備をしていると、扉が開かれる。
「うぁ…………いまふち……さん」
《
「おお、海見くん」
「…………ぁ……藤堂さん!」
先程、遭難したばかりの時に見た海見さんとは、全く別人というくらい違う表情をしていた。
人の目を気にしながら動いていたのに、何も考えず笑っていた。
しかも藤堂さんを見かけた瞬間、そうなった。
かなり互いを気に入っているのか、どっちも表情が柔らかくなった。
「酒を用意しよう。今回は五人か」
「波佐見からチョコもらったの! クランチってやつ!」
「それじゃあこのL字部分を取り外そうか」
「よし、俺も手伝おう」
と、いう感じでソファのL字部分は取り外せるし、ローテーブルを五人で囲うし、酒とチョコと多少の塩辛さは用意されているし、随分手馴れているなぁと思ったものだ。
手伝えることもないし、余計に触れるのも邪魔になるかと思って、窓を背に、消去法で實さんの隣に座った。
対面に徹さんが居て、左右に海見さん、藤堂先生がいる。
海見さんと藤堂先生は旗目から見ても仲が良く、僕が間に入る隙もなしに会話が繰り広げられる。
「クランチってどういう意味なんでしょうかね……?」
「知らないのか海見くん。ザクザク、ボリボリって意味だね。腹筋運動の意もある」
「ボリボリチョコ……ボリボリくんみたいなこと……」
「そうだね、海外だとミスタークランチかもしれない」
テンポよく話が進行されるが、もう少し噛み砕いて欲しい。洒落だったのか? 今の。どこを通ってどこに辿り着いた?
このままじゃまずい、
「みんなが天嫁山に登った理由ってなんなんですか?」
そう思って、僕は質問をした。
まだここまでは良かった。
「あぁ、俺はなにか面白そうなネタが無いかと思って」
ストイックかよ。
「そして、藤堂先生が登山をすると聞き着いていった次第」
担当編集ってそこまで一蓮托生なの?
「わっ、あぁ……私は……純粋に登山を……」
海見さんは僕に心を開いていない。
「あれ。君たち二人、まだ慣れていないのか」
「いや、まぁそうなんですかね」
慣れることがあるようだ。さすがにずっとこんな調子ではないらしい。
「初対面だとこうなってしまう。ああ、安心したまえ。こういう時は簡単な療法がある」
一体何をするかと思えば、藤堂先生は海見さんのコップにトクトクトク……と酒をなみなみに注いだ。
「いやいや……」
「どうも!」
そう簡単に治るもんじゃないでしょ。と言う前に、海見さんはその一気飲みしてコップを空にした。
「えっ!? ちょっ、大丈夫ですか!?」
雰囲気が変わった。いや、戻った。さっきまでの藤堂先生と絡んでいる時のような笑顔に。
ただ少し、なんというか、溶けかけ。
「大丈夫大丈夫! 足りない足りないアイキャンフライ、そっかーなんだっけーえーっと、そう、今淵なんとか太郎くん。B太郎? A太郎? あ、A太郎だった気がする。まあ
「……えっ?」
あの時震えていた人とは思えないほど、小動物とは思えないほど、豪快に笑い、人の目など気にせず間違う。記憶力だって完全じゃない。探偵というよりこれじゃ酔っ払い。
「よし、いつもの海見くんだな」
誰だよ。
「海見は酔うだけ酔って酒が強いからいいですけど、先生は飲みすぎないでくださいね」
「いやぁそれは薄情というやつだろう。俺も飲みたい」
白状。
「おー! 飲め飲めー!」
脳の処理が追いつく前に先生は酒を飲み乾した。
「それで、今淵くん。好きな曲は何かな────?」
ここからが地獄だった。
「はっ」
無限の質問がぶつけられた。答えたと思えば問われ、問われたと思った頃にはもう一度問われていた。しかも最悪なのは、答えた質問がもう一度聞かれることだ。
これは最悪。つまりは覚えられていないのに詰問されていた。しかも酔っぱらいの藤堂先生に。
そして、それが一時間続いて、午前0時。
徹さんが酔っぱらいの二人を部屋に戻して、リビングも元に戻った。
二人が潰れて、僕も潰れた。
会話が進みに進み、一応火の気関連について聞けたが、ないとの返答だった。
「…………はぁ」
なぜこうなってしまったんだろう。そのもの寂しさを埋めたくて、机の上にまだあったクランチチョコを、噛み砕いて飲み込んだ。
「憧れが面倒で、嫌になってしまったかい?」
實さんは、某太郎に問う。
「そんなんじゃない」
そんな綺麗なものではない。
そんな可愛いものではない。
心がそんな簡単なら、嫉妬なんて生まれない。
僕という人間の、たったひとつしかない感情。
「ただ少しだけ、空を仰いだんだ」
どうせ、あんたにゃわかんないよ
階段を駆け上がって、僕らの部屋を開く。
白く長い髪、赤色の瞳。誰よりも仲の良い他人で、誰よりもしんらいしている他人。月と太陽じゃ表せない、対等な関係。
お前以外が僕で、僕以外がお前。
世界でたった一つの、僕以外の人間。
それは、等価。
「ギン、いくぞ」
布団の上で祈っていたギンに、僕は話し掛けた。
「ああ、
まだまだ時間はあったけど、やることは決まっている。今回は初めてのループにして捨て回。
火災の原因を、直に見てやる。
二人で、リビングへと向かった。
一階から大きな音、場合によっては部屋の可能性もあったけど、やっぱりキッチンがあるリビングを見るべきだと思った。
「どうしたの? 今淵くん。女鹿野ちゃんまで」
「おう。まぁなかなか眠れなくって」
「實さんはいつ眠るんです?」
「大体二時頃には眠ってるよ」
特に重要じゃない情報だが、實さんは二時になる前には部屋に入って眠っているらしい。
じゃああの時も、もしかしたら寝ていたのかも。
そして、時間は過ぎる。
午前0時30分。途中経過。
特に何も無い。
しかし、止めない。
午前1時00分。
タイムリミットに設定した時間帯。脳
前回では、僕がギンを迎えに行った辺り。
ここからは未知の時間だった。
しばらくしてから、玄関方面の扉から足音がする。階段から誰か降りてきていた。僕は、最悪な考えが頭に過ぎる。
もしかして火災は、人為的なものだったんじゃないのか。
だったら誰も火気を持っていないのも当たり前。言わないために言っていないんだから。
鼓動の音が騒がしい。必死に止めようとするも止まらない。この肉の壁をしても伝わってしまうんじゃないかと、そう思うくらい早く、そして大きな音で鳴っていた。
足音は、扉の前で止まった。
そして、扉がゆっくり開かれる。
「ヌ。今淵、女鹿野、それに架々。どうしたんだ」
いつもの最上川徹だった。
「そういう徹さんこそ、なぜリビングに……」
そういやよくよく考えてみれば、人為的だとして脳も二階からやってくることは不可能じゃないか。最上川さんがさっきまで見張っていたんだ。
「先生が少し仮眠をするらしく、水をな」
そうだ、前回言っていたじゃないか。酒を煽った先生のために水を持ってき脳て欲しいと。
そういえば、そうだった。
水は渡したけど、あの後大丈夫だったのかな。
「僕達はまぁ、眠れなくて」
「夜更かしは健康に悪いぞ」
見張らないと健康どころの騒ぎじゃないからなぁ。
「そうじゃなくても、遭難したばかりなんだから。もっと体を気遣うと良い」
「それは……はい」
「はーい!」
そんな風に、話していた時。
時間は午前一時十三分。
その瞬間、けたたましい音が鳴り響く。それはどこからか、脳ジリジリジリと何かを訴えていた。
「ぬおっ? なんだ?」
「これは…………目覚まし?」
そう、目覚ましの音だった。しかし、場所が分からない。リビングをぐるっと見ても、そんなものはどこにもない。キッチンタイマーでもなんでもない、しかし他の部屋ではなく、リビングから鳴っていた。
いや、もっと下から……?
「あ」
實さんは、何かに気づいてからすぐ、ソファもテーブルもカーペットも全部動かした。
「えっ? 一体何を……」
ソファもテーブルもカーペットも、全部動かしたその床。脳
それだった。
そこにあったのは、鍵穴のある床開口部。
「ここが地下室の入口さ。鍵はかけていない。何かしら起動してしまったのだろう、止めてくるよ」
そして床の戸を開き、實さんは階段を下ってゆく。最上川さんも行き、僕達もマジョリティに属そうと、ついていった。
なにより、嫌な予感がした。
もしもこの目覚ましが炎の発生原因なら。
戸を開けたまま暗い階段をそのまま下ると、ただ大きな部屋に繋がった。鉄臭く、少ししめった大きな部屋。戸からの光だと暗かった脳ので、實さんが地下室の照明を付けた。湿った部分の天井を見たら、水管が破損していた。
「
「修理したいのもやまやまなんだけどね、一週間くらい機会がなくてさ」
なんてったって猛吹雪が猛威を振るっていたからな。
「さっきの音の原因はどうやら、これみたいだね。こんなもの置いてなかったんだけど……」
實さんが持っていたのは、特別でもなんでもない目覚まし時計だった。音を止めて、脳さて帰るか、となった時に。
バタンッ──────と。
唯一の出入口である戸が、閉じられた。
「……えっ」
嫌な妄想が過ぎる。
「風で閉じることがあるんだよ。だからそう気にせずとも……」
そう言って、實さんは戸を押す。戸はビクともせず、繰り返す度になにかの金属音が聞こえる。
「……鍵が」
ありえないこと。
「鍵が、閉められている」
有り得てはいけないこと。
「──────えっ?」
閉められている? 閉められている? 閉められている、何を言っている。お前が言ったんじゃないか、お前しか鍵の在処を知らないんだろうが。ならなぜ閉められる。ふざけるな、誰が閉める。
ジュっと、顔が発火したように赤くなって、興奮気味に戸への階段を駆け上がった。
「んな馬鹿なこと、有り得るはずがないっ!」
勢いそのままに戸を押した。壊す勢いで思いっきり押した。けれど、返ってくるのは金属音。ここの鍵は閉められていると主張する、無愛想な金属音。
ガチャ、ガチャ、ガチャ。
開かない。開かない。開かない。
「………………は?」
だらんと、両腕を下ろした。
戸、一枚隔てた出入口の前だから聞こえた。
一人分の、足音。
やっぱり世界は間違っていて、不衛生で、卑猥で、可愛げもなくて、ムダにでかいだけ。
ほんとこの世は、あの日と変わってねえな。本当につまんねえ、お前はクソみてえだよ。
昇った血が全て引いた。妙に頭が回った。望みが絶えたことで、沼のような冷静さが戻った。實の顔を見た。そろって同じような絶望顔。絶望。押した者にしかわからない、望みのない絶望。脳
實は壁にもたれ、戸を見上げるだけだった。
「鍵なら……内側から開ければいいんじゃないのか?」
普通の戸ならば、最上川さんの言ったことは正しい。だが、この戸は……間違っている。
「この鍵、外側からしか開けられないみたいです」
自分で言った発言に疑問が湧いた。なぜこんな特殊な構造をしている? 何が閉じこめるかのような構造を、なぜ地下室に? けれど架々はそれを隠すでもなく、目覚ましが鳴ったらすぐに場所を見せた。やましいこと、後ろめたいことはないにしても、この設計は異常。脳
このペンションは、決定的に間違っている。
「……そうか……いやしかし、うむ……」
薄暗い、閉塞感。閉鎖的ペンションの中で更に詰められた閉塞感。ゆっくりと白銀の闇に覆われる想像力が、死よりも苦しい個人の世界を作るように、いやそれ以上に、嫌な予感しかなかった。
「鍵の在処、實さんしか知らないって言ってましたよね」
實さんを責めた言い方だった。
「なんか言ってくださいよ、これは──」
これは、あんたのせいなんだぞ。
「やめろよ某太郎、責めるようなこと」
言われてやっと
僕らは、やり直せる。
不安、脅え、マイナス感情を煮詰めた悩ましい顔。この場の誰だって脳そんな顔をした。
なんてったってこれはただの偶然ではなく、意思があって閉められたから。外から鍵を閉めた者が、ペンション内に居る、ということだから。脳
これはあまりにも、あまりにも人為的だと知らせていたから。
人為的に僕らを殺したんだと、知らせていたから。
「…………最上川さん、このペンションの中で、午前の一時頃までリビングに居座るやつはいますか?」
「……それは、架々のことだな」
となると、鍵を閉めた者はこの地下室内の誰でもなく、地下室の入口や鍵の在処を知っている。更に言うなら、架々實が長時間リビングで時間を潰すことを知っていて、あの目覚まし時計は……誘き寄せる餌。騒音により架々實を動かす、計画的な犯行。
閉じ込めたのは、火事の邪魔をさせない脳ため。
「……おい、お前ら…………なにか音がしないか?」
そう徹さんが言ってから数瞬して、空気がどこかから抜ける音が、戸の外で……した。スゥゥゥゥ……スゥゥゥゥ……足音もしながら、その音は続く。
固唾を飲んだ。實
歯を食いしばった。
スゥゥゥゥ……スゥゥゥゥ……
響く。響く。響く。響く。響く。
脳
おれはただおびえていた。抗うことも考えることも無く、おびえていた。その粉が戸の隙間から出てきたのなら、思考を回してどうにか足掻こうと思えただろう。脳
けれど、一切、その粉は出てこない。
戸だけには、一切。
脳これは、やばい。
「この匂い、ガスだ」
誰が言ったか、それが言葉通りに火蓋を切ったのか、
戸の外で、カチッと音がした。實
「──────やばいっ!」
階段を跳んで駆け下り──る途中で、爆音、轟音と共に、背に大きなはんだごてでもされたような熱気が襲った。いや、爆風と呼ぶべきだろうか、それに押され、半ば吹き飛ぶ形で戸から離れた。着地はどうにか成功して、焼けたであろう背の痛みに耐えながら、戸の方を見た。
結果から言えば、脳そこに戸はなかった。實
そして、
「なァ……ッんで……こんな……」
恐らく漏れ出ていたのは、ガスであっていたのだろう。 犯人からしたら、ガスでなくとも油や、最悪小麦粉でも良かったかも脳脳しれない。思わず「なんで」と発したが、實なぜかはわかった。部屋一面にガスを充満脳させ、そこに火をつければ、信じられない爆炎が起こる。脳
「まずは避難を……おい! 今淵、女鹿野、死にたくなければ外に出ろ!」
誰もが知っているだろう。僕も脳、知っている。
「おい!! 動け!!」
閉鎖空間、無風状態、確かな火付け。
──────ガス爆発。
戸と共に巻き込まれたんだろう。實實脳脳實脳脳脳實脳實實脳架々實は、吹き飛んでバラバラになっていた。
五体全てが吹き飛んでいるのではない、實さんだって逃げようとしたのだ。だから、階段を降りようとして、綺麗に後頭部だけが、頭蓋と脳が欠片のように散らばって、階段の一番手前の段で、倒れていた。
「ア──あ────いっ…………ち……ちだッちッ……手ッあ?」
それは最期の灯火だったのかもしれない。
後頭葉当たりは既に無いというのに、魚が陸上で跳ねるように顔を上げて、鼻は血だらけで、口は涎まみれで、目は焦点が合わず、左右で散らばっていた。
その一瞬、目が合った気がする。
その、生気のない目。
今はそれが、まともに見えた。
──もしも、あの瞬間、階段を先に下りなければ、こうなっていたのは僕なんじゃないか。
そして数秒も持たず、顔を地べたにぶつけた。
「ふッ……」
本当に絶望して、狂ったら、もっと金切り声で叫んで、今くたばった架々實の遺体を蹴って引き摺り、炎の中へと舞って踊るのだと思っていた。それは常人には理解できない思考で、病のようなナイフのような腫れた思考回路のものなんじゃないかって、思っていた。
ただもっと、俺の狂気は無様で無益で、無気力だった
それを見て、ゆっくりと後ずさった。壁にぶつかって、それでも下がろうと滑稽に足を滑らして、へたりこんだ。
気づけば鼻を右手の人差し指で掻いていた。次は額を三本の指で掻いていた。知らない間に左手が自分の後頭部を触っていた。触った瞬間に俺は頭を掻きむしっていた。
「でもだって仕方ないじゃん俺じゃないじゃんおれだったけど知らなかったしいや知ってたけど初めて買って読んだけどでもごめんかごめんなさい睨まないで嫌だバカにしないで違うもっと高くもっとあアだやだ脳や嘘吐いてごめんなさい死んじゃったあとで言われてもでも俺が悪いのかな悪くないただ」
ただ、ただ、ただ。ただ、ただ。ただ、正しくなかった。ただ、正しくなかった。こんなことをして、何も正しくはなかった。ただ、ただ、ただ、ただ、ただ。
「助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてたすけてたすけてお願いします死にたくない嫌だこれ、嫌だ、嫌だ」
お願い。助けて。
これは、嫌だ。
「だめじゃん、こんなことしたら」
そいつは、僕に目線を合わせてそう言った。
あの時と同じだった。
死の淵すら壊す、その狂気。
「……………………………………」
ロキは、俺の手を握った。
「ロオルククス」
今度は、聞き取れた。
火の燃える音がした。
異常なほど冷えた全身が、ゆっくりと暖かくなる。さっきみたいな、身を焦がすものではなくて、心休まる炎だった。
「──────あ?」
午後七時二十四分。
瞑った目を、彼は開く。
「あぁ……はは……ちょっと恥ずかしいところを見られてしまったね」
そう言いながら、変に笑ったり、頬を赤めたりなんてせず、表情は一切変わらないままだった。
用意されたテキストを読んでいるみたいだ。
「えぇと、お名前を聞いてもいいかな?」
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