第21話

「あの、ただの噂話だからもちろん私は信じていないんです。だけど、ちょうど夏休みに入る前くらいに、クラスで噂になっていたんです。先生が、前に生徒とその、男女の関係になったって」

 私がそう言うと、明らかに先生の顔は曇っていた。普段は冷静で、すっと通った鼻筋まで歪んでいるように見える。やっぱり、言うべきじゃなかったのかなと思うけど、そこを解決したかった。

「その、本当なんですか?」

 先生は一度、溜息を吐き出してから、その重い口を開いた。

「いや、確かにそんな騒動があったのは事実だよ。ただ、本当じゃあない」

 その言葉の意味が良くわからなくて、私は次の言葉を探す。

「どういうことですか?」

「その、こんなことを今の春川に言うのもなんだけど、その当時も今と同じように一人の女子生徒から相談を受けていたんだ。それで、急に呼び出されたかと思うと急に抱き着かれてそういう写真を撮られた。それが拡散されて問題になったってことだよ。もちろん、その時には僕は今の妻と付き合っていたからそんな気持ちは全くと言っていいほどなかった。ただ、はめられたんだよ」

 私はその話を聞いて、少し安心した。先生はそんな人じゃないって思っていたけど、さすがにあんな噂が立ってしまうとやっぱり不安だったから。

「でも、それがどうしたんだ? もちろん、僕のことを心配してくれるのは嬉しいけど春川が悩む必要なんて」

 考える先生に、私は言うべきかを迷った。私と先生が陰で噂されていること。それは、また先生を不愉快にさせてしまうだろうか。

「春川、ほら何でも話してくれって言っただろ?」

「あの、実は今。その噂もあって先生が私の事を好きって。私がいつも先生と一緒にいて、お母さんが先生の元恋人だからですよね。先生も過去にそんなことがあったのに、そんなことが広まって迷惑じゃないかって」

 私がそう言うと、先生は急に笑顔になった。その笑顔が逆に不自然に見えて私は戸惑った。

「ううん、気にしなくてもいい。大丈夫だよ」

「そ、そうですか。でも、話しかける迷惑なんじゃ」

 今は夏休みだからもちろん、私を含めて生徒は先生に会う機会が極端に少ない。その中で噂が消えてくれていればいい、いや一旦は消えるだろう。ただ、それも私がまた新学期が始まって私が前と同じように先生に話掛けていれば再燃してしまう。そんな事を考えると、どうしても心配になった。

 静かになって、新学期になって先生から距離を取りながら学校生活を送る。そうすれば、先生に迷惑を掛けないで済む。そう考えてから私は頭を振る。ほんの一瞬だけ頭をよぎったのに、それがどうしようもなく辛く感じた。亮斗との問題も公園で話してきっと解決した。お母さんが私をこうして捜索してくれるのも知って、これから先生と解決していきそうな気がする。先生の話も噂だった。

 だけど、その問題が全て解決しても先生と話せない学校生活は想像するだけで辛い。もう、先生がいないと生きていけない。

 でも、それをすると先生に迷惑になってしまうかもしれない。

 私はどうすればいいのだろう。亮斗と付き合ったら、少なくともそれを本気で考えてみれば忘れられるだろうか。でも、目の前にいる先生をどうしても忘れられる気がしない。以前のように、お母さんとの関係が良くなって家でリラックスできれば恋をしなくてもこの気持ちを消せるだろうか。でも、そんなことができるだろうか。私は先生を目の前にするとどうしてもその気になれない。

「そんなことないよ。こんな風に何かを相談してくれるんじゃなくて、普通に話しかけてもらえるのも嬉しいからさ」

 その笑顔に、また私は騙されそうになる。この人には愛する奥さんと子供がいるのに、それは祭りのときに嫌というほど見たのに。それでも、今だけはその笑顔を信じてみたくなる。その家族への愛を試すようなことなんてしたくないのに、ここで口づけをすればどうなるだろうか考えてしまう。

 さっきの、過去にあった女子中学生との噂を否定してくれた時も喜ぶべきなのに、私はきっと、ずるい私はきっと心のどこかで残念に感じてしまった。もしもその噂が本当なら、生徒である私でも可能性が少しでも残されているから。でも、そんなことは先生はしない。そう言う先生が好きだから。

「どうした? 春川?」

 もう一度、先生の顔を見ると、やめようと思ったのに気持ちが溢れてきた。

「あの、先生。私」

「ん?」

 ここで振られて、しっかりと諦めよう。それから、先生の幸せを心から願って生徒に戻ろう。そんな決意をし手震える喉から声を放つ。

「先生……」

 でも、それが怖くて、自分が振られることがわかっている中で告白するのが怖くて言葉に詰まる。その時だった。

「大丈夫、落ち着いて何でも話してくれ」

 先生のその優しい声に、私の中の何かが壊れた。もう、どうなってもいいと思えるほどに身体の内側から頭に向かって熱が集まってくる。それを吐き出さないと狂ってしまいそうになるほどの興奮が私を襲う。

 もう抑えきれなくなった私は、それを唇で紡いだ。

「先生、好きです」

 そう言葉にして、私はうつむく。先生は私と向き合っていて初めて、意図的ではなく沈黙を使った。その沈黙が怖くて、私は思わず目を上げる。その時、先生は笑ってはいなかった。その表情に胸が締め付けられる。やっぱり迷惑だっただろうか。先生を困らせてしまったのだろうか。でも、もう後には引けない。何を言われても受け止めるしかない。

 そう思っていると、先生は微笑んでくれた。優しい笑顔で私を見てくれていることに少しほっとしたのも束の間で先生が口を開いた。

「ありがとう、そう思ってくれるのは嬉しい。ただ、気持ちには答えられない。すまない」

 的確かつ丁寧な断りに、私は納得してしまった。ここで若気の至りとか気の迷いみたいな言葉で濁すことだってできるはずなのに、先生ははっきりと伝えてくれた。それが先生らしいと思って、私は思わず笑ってしまう。

 最後に先生の、胸の内に飛び込んでみたくてそこに入り込んだ。それはぶつかりげいこのようで、先生は思わず私を抱きしめるような形になる。その一瞬は、私がこのために生まれてきたんだと思えるほどに幸せだった。

 反対に、先生はすごく慌てているのが手の揺れからも伝わってきてそれも愛しい。

「ど、どうしたんだ。春川」

「ううん。なんでもないです。でも、先生が私の初恋で良かった」

 そう言って、先生の胸に両手を当てて小さく押した。もう、ここまで言ったから私の居場所じゃない。ちゃんと、奥さんがいるべき場所を一時的にでも占領できたんだからもうあきらめよう。その思った瞬間に自分の頬が緩んだのがわかった。なんだか、久しぶりに笑えた気がする。

「じゃあね、先生。また今度」

 そう言って、私は先生に背を向ける。そして、振り向いた。やっぱり先生には笑顔でいてほしいから。それから、歩き始めて振り返ると先生は小さく手を振っていた。今まで通りだけど少し違う関係になれて嬉しかった。私は一人っきりの帰り道を歩きながら明日からまた頑張ろうと誓った。

 私は最後に抱きしめられた瞬間に、スーツのポケットから彼の好きだった煙草を抜き取っていた。前に道で拾ったライターでそれに火をつける。

「美味しくないなあ」

 いたずらではあるが、これが私にとっての最後の思い出になる。そっと離れ、涙をごまかしながら、夕暮れの街路を歩いた。


 そこから二日ほど経って、私が宿題をしたり部活へと復帰しようとしていた時に学校側から呼び出された。その時は、外を夜までふらふら歩いていることとか部活を無断でさぼっていたからだと思って、少しブルーな気分にもなりつつここで部活に来ていないことに一度でも怒られれば自然に復帰できるとか考えながら職員室へと行った。すると、すぐに校長室へと通される。初めて入った校長室という空間は、テレビドラマに出てくるようなお金持ちの社長とかが座っている椅子に似ていた。生徒指導の先生と、部活の先生。さらには校長先生まで揃って私は手前にある黒いソファーに座らされる。

「あの、なんですか?」

 私はそう聞いた。そして、最初に言われたのは予想すらしていなかった言葉だった。

「君と浅野先生が逢引きをしている写真が学校のポストに投函されていた」

 その瞬間に、私の心臓は止まるかと思った。それがどういうことを意味するのか、予想もしていなかったけれども汗がさっと引くと同時にこの後の流れが簡単に想像できる。先生と生徒の恋愛はもちろん駄目なことで、それはあの瞬間、先生に思いを伝えた時にも理解していたほど自分の中で常識だからこその恐怖だった。生徒のほうがどうなるかは知らないけど、義務教育という言葉に守られた中学生だからそこまで大きな責任は負わされない。しかし、先生は違う。間違いなく、懲戒免職されるだろう。しかし、先生はそんな気持ちを持っていたわけじゃない。

「違うんです、先生!」

 私が慌てて声を発し、その勢いのままに立ち上がると先生たちは明らかに身構えた。生徒指導の先生でラグビー部の顧問である上岡先生なんて私よりも三倍近い体格をしているのに、警戒の態勢をとっている。そこまで、先生に恋をしたというだけでそこまで怯えられるのかと思うと悲しくなった。だから、私はもうこれ以上先生を困らせたくないとゆっくりとソファーに腰を下ろした。それからもう一度前を見ると校長先生が口を開いた。

「どういうことか、説明しなさい」

 校長先生の威厳を含んだ声に私は観念して、あったことをすべて話すことにした。下手に先生への好意を隠したり、亮斗やお母さんに関する悩みを隠すとそのせいで疑われかねない。私は嘘が下手だと知っているからこそ、自分が傷ついても先生を守るためにはすべてを正直に話すしかなかった。

 先生の事を本気で好きなこと、いろいろなことを悩んで先生に相談していたこと、先生はただ自分を探しに来てくれただけだということを丁寧に話した。

「そうか」

 私の説明を聞いて、校長先生たちは苦い顔をする。顔を見合わせたあとに、申し訳なさそうに言った。

「なるほど。君の言い分は良く分かった。私の経験からすると嘘をついているようにも見えない」

 その言葉に、私の脳よりも先に身体が反応する。しかし、それを見て制するように先に校長先生が言葉を続けた。

「だが、君はしってかどうかわからないが浅野先生は過去にもこういったことが起きている」

 それは先生があの日に教えてくれたつらい過去の事だった。その時も先生は冤罪で、しっかりとそれが晴れたからこうして私と出会えたのだ。それはわかっている。なら、今回も。そんな思いは、次の言葉に打ち砕かれた。

「私自身は先生を信じたいが、それを決めるのは上の仕事だ。君の言い分はわかった、すべて報告しておくよ。帰りなさい」

 そう言いながら左手で退室を促される。すぐに先生が私の両脇に立って、まるで犯罪者を連行するように部屋から出そうとした。私はもう暑いとか寒いとかそんなことは感じられずに、絶望の色が足の先から広がってくるのを感じる。涙は、出てこなかった。

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