第19話

 期末テストも終わって、夏休みがはじまった。温暖化の影響か七月の中盤だというのにじめじめと暑い。職員室の中は涼しいけれども、外で頑張っている運動部の生徒はまさに地獄だろう。朝から夕方まで絶え間なく練習の声が聞こえてくると、夏が来たと感じる。夏休みに入ってからは自然と、春川の顔を見ることも少なくなった。彼女が僕のところに来なければ、基本的には何も起こらない。もちろん、問題があるのならば解決する手助けはしたいけれどもそれも向こうから言い出してこない限り、こちらから本当の意味で手を差し伸べることはできない。

 あの脆くて壊れやすい少女と、複雑な事情を抱えていて同じように壊れやすい愛璃。二人での生活を、春川はどのように感じているのだろうか。愛璃は春川が悩みを抱えていることはわかっているだろうから、お互いが上手く気を使って生活できていればいいと思う。

 だが、春川はそこまで器用なタイプでもない。お互いに気を遣い続けていたら、どちらかが疲れてしまう。二人が上手くやっていくために僕ができることは何だろう。春川のためにも、愛璃のためにも僕は動くべきなのだろうか。しかしそれは余計なお世話かもしれない。

 そんなことを考えながら仕事をしていると、またいつの間にか片付いてしまい僕は家路へとついた。


「ねえ、懐かしくない?」

 その日、雨が降った日。家に帰ると、結乃がソファーに座って何かを読んでいた。

「ただいま、優花は?」

「遊び疲れて眠っちゃったわ。夜中、寝かせるのがちょっと大変かも」

 そう言われて隣の部屋を確認すると、確かに優花は眠っていた。すうすうと気持ちの良い寝息を立てて無防備に全身を布団に放り出している。結乃は膝の上の本をテーブルの上に置き、僕にも見えるようにした。僕も結乃の隣に座り、その本を見る。

 それは結乃の卒業アルバムだった。それを僕は初めて見る。結乃は懐かしそうにページをめくり、優しく微笑んでいた。結乃のページには、当然だけど僕の知らない、中学時代の結乃がいる。中学二年生の、修学旅行の写真が目に入る。そのどれも結乃は心の底から楽しそうで、幸せそうだった。

「ねえ、あなたの卒業アルバムは?」

「いや、いいよ。なんだか恥ずかしいし、探すのも面倒だ」

 たぶん、結婚して新居に越すタイミングで実家からいろいろと荷物を持ってきただろうから家のどこかにはあるんだろうけど、探すのも面倒だしあまりみていたいものではなかった。否が応でも愛璃の問題を見つめてしまうから。僕はアルバムから目を逸らし、結乃の目を見つめた。しかし、結乃は目だけが器用に笑う。

「そう言うと思って、先に探しておいたわ」

 ソファーの後ろに手を伸ばすと、その手には古びた卒業アルバムが握られていた。学校名は確かに僕の通っていた中学校。もちろん、愛璃は途中で転校していったから全員が青い背景で取られた証明写真のようなところにはいないんだけれども、確か始めてもらったときに確認すると一年時の行事などでは少しだけ愛璃の映った写真も存在していたはずだ。僕がそのアルバムに手を伸ばすと、結乃は一瞬だけ微笑んだ後、黙って僕の方へとアルバムを滑らせる。

「仕方ないな」

 写真の中の僕は、今よりも随分と幼い顔をしている。昔の話はもちろんしないわけじゃないけど、結乃に子供の頃を知られることは恥ずかしさがあった。でも、そんな感情も結乃の次の一言で吹き飛ぶ。

「ねえ、あの子のお母さんなんでしょ。その子は誰? このアルバムの中にもいるんでしょ」

 結乃は、僕と愛璃の過去にあった関係を知らない。そのはずだ。付き合っていたころに過去の恋人についてきかれたことは確かに答えたけれども、わざわざ愛璃の名前を言ったとは記憶がはっきりしない中でも言ったとは思えなかった。

「あ、あの子って?」

 僕は切り返そうとするけれども、生まれながらに嘘も苦手な自分にこれまで十年以上も一緒に暮らしている結乃がそれに気が付かないとは思えない。おそらく、僕がわざとわかっていないふりをしているのも全て見透かしたうえでの笑顔だ。いつもはにこやかでただただ純粋に僕のことを癒してくれる、家の中にある太陽のような存在である結乃が怖かった。こんなこと、数年前のあの件以来だ。

「ほら、お祭りのときにいた。あなたによく懐いてたじゃない。あの子のお母さん。ここって田舎だから、いろいろと聞こえてくるのよ。聞かなくてもいいことが」

 結乃の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。もう、こんな顔はさせないと約束したはずなのに。

「ごめん、不安にさせて。でも、僕は本気で君を愛してる」

 僕は、結乃を抱きしめた。結乃は、僕の胸に顔をうずめながら小さく頷いた。そして、そのままの姿勢で僕に体重を預ける。

「愛してるよ、結乃」

 その言葉に、一切の嘘はなかった。僕にとっては、結乃と優花が全てだ。仕事とか、お金とか、付き合いとか様々なしがらみがあるけれども、間違いなく一番大切に思っているのは家族だ。もう、悲しませないと約束して、それを自分にも課していたはずなのに。

「ホントに?」

「うん、心配させてごめん。でも、二度とあんなことは起こさないようにするから」

 あの忌まわしい記憶。それを消すように僕は結乃の唇に唇を重ねた。彼女の口に残っていた不満の言葉を吸い出すように舌を絡める。

「ねえ、あなた」

「ん?」

「そろそろ落ち着いたら、もう一人。子供が欲しいな」

 僕はそれに静かに頷きながら、さらに唇を重ねた。


「久しぶり」

 私がすることがなくて手持無沙汰な中で公園にいると、部活帰りの亮斗に声をかけられた。周りにいた同級生の野球部員たち、名前は知らないような人たちが亮斗を冷やかしていたけれども、それはもう気にならなかった。あんなに先生といる時にそれをされるのは嫌だったのに、亮斗とはそうも思わない。

「久しぶりだね、今日も練習?」

「うん、今日はバトミントン部も練習してたぞ。いかないのか?」

 そう言われると、私は言葉に詰まる。もう夏休みも始まってから一週間、部のグループで回されている予定表によるともう五回も練習を無断でサボっていた。お母さんは私が家にいて、宿題もせず部活にもいかないでいたとしても何も言ってこないけれども、誰かが責めてくれるなら楽なんだろうかと考えるほどに暇だった。

 できることなら亮斗じゃなくて、顧問の先生に見つかって今からでも無理やりに部活に連れていかれた方が良かったんじゃないか。それなら自分でも学校に向かえばいいのに、それはできる気がしなかった。

「隣、いいか?」

「どうぞ」

 鉄製の手すりみたいなものを間に挟んで、亮斗が私の隣に腰かける。汗とキツイ制汗剤の匂いが混じって、変な気分がした。亮斗の肌は黒く焼けて日を受けて輝いており、ずっと勉強もせず部活もせずにいるような私にはあまりにも眩しかった。私は、そんな亮斗に何を言っていいか分からなかった。

「そのさ、ごめんな。あの時は。うちの母ちゃんと理穂のお母さんって仲良いからわかるんだけど、ちょうど理穂も色々混乱しているときに何も考えずに告白なんてして」

「ううん、そんなこと気にしないで」

 あの時、飲酒を決断した時には亮斗にも怒りを覚えていたけれども、今はそんな気持ちもすっかりなくなっていた。亮斗が私のためにしてくれたことだと分かっているし、それにその点については私の気持ちは完全に整理ができている。私は先生のことが好きだ。教師としてとかそういう生易しい綺麗な感情ではなくて、もっと本能として浅野先生を求めている。もちろん、先生が奥さんを愛しているのは良く知っている。けれども、どうしようもなく先生が好きなんだ。

 だから、私は先生に奥さんがいても良かった。ただ、先生が私を好きになってくれればそれで良かった。

「そっか、やっぱり理穂は優しいな。でも、優しくされている俺が言うのもなんだけどもっと優しくなくていいと思うよ。理穂はあまりにも優しすぎる」

「え?」

 亮斗の言葉の意味が一瞬わからなかった。私は私が優しいなんて思っていない。そういう風に褒められるのは、無難な選択肢だからだと思っていた。でも、私は優しいのだろうか。私は、本当に優しいのだろうか。その疑問が私の中で渦巻いて、私の思考を鈍らせる。

「そんな、私は優しくなんてないよ」

 優しいと言われると、思いつくのはやっぱり先生だった。あんな風に相手のことを思って優しくするだけじゃなくて、叱ったり、しっかり話を聞いたりできる人が本当に優しい人だと思う。そう思っている中で、また先生の事ばかりが思考を占領していることに気が付く。亮斗が今、私のことをどう思っているかは知らないけれども、もしもまだ好きでいてくれるのなら目の前で会話をしながら別の好きな人を考えるなんて残酷なことはしたくなかった。

「いや、そんなことない。真面目で、優しい。だから、もっと理穂の思うようにしたらいい。もちろん、俺のできることであればなんでも協力する。さっきも部活の話をしたけど、別に毎日行かなくちゃいけないわけじゃないし、勉強だって毎日しないといけないわけじゃない。今、弱っている理穂を見るのが俺は何よりも辛い」

 亮斗は話しながら熱が入ったのか、どんどん体が近づいてきていた。こちらに向いた体、その肩は私との間にあった鉄の手すりを越えている。

「ご、ごめん。そういう意味はないんだ。じゃあ」

 気まずくなったのか、亮斗はそれだけ言って帰ってしまった。私は何がしたいんだろう。

 一番欲しいのは先生からの愛。それはわかる。生徒としてこれだけ目をかけてもらえて、すごく真摯に私の抱える問題にも向き合ってくれてそれだけで満足するべきなのに、それがもうできないところまで来ている。ただ、その欲望を果たすためにこうして夏休みに何もせずにぼんやりとしていることが正解なのかと考えれば違う。私はあくまで逃げているだけだ。あの、いづらい日常、家から。


「おかえり」

「ただいま」

 それだけの言葉を交わすのにも、言葉が重い。あの日、私が先生にしたお母さんの男遊びに関する相談。おそらく、先生はすぐにそれに対応してくれたんだと思うけれど、そのせいで家庭は一気に暗くなった。あの日以来、家に居場所がない。お母さんは直接、私に何かを言うわけじゃないし態度にも出さない。なのに前より話しかけられる回数も、話しかける回数は明らかに減っていた。学校の話題が無くなって、部活にもいかなければ私の生活はずっと一緒だ。面白い発見も何もないから私はお母さんに対して話しかける手札がない。それはお母さんも同じで、今はお父さんから送られてきた生活費で暮らしていけるから特に外に出ることもなく部屋でだらだらとテレビを見ている。お互いにそんな日々が続いている。学校には夏休みがあける八月の末、つまりはあと一カ月以上はいけない。部活にも一週間近くを無断で休んで、どんな顔をして出ればいいのかわからなかった。家にも学校にも部活にも、どこにも私の居場所はなかった。

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