第18話

 春川が帰るのを待ってから僕は保護者の連絡先がまとめられているファイルを開いた。愛璃は今、電話ができる状況だろうか。本来なら家庭訪問や三者面談という形にしたいけれども詳しい話を聞くのも春川にはキツイことだろう。

「学校に来てもらう形にするか」

 愛璃がこの先どうするのかは知らないけれども、忙しい中でなんとか時間を作ってもらわないといけない。そんなことを考えながらコール音を聞いていると、繋がった。

「もしもし、春川さんの担任の浅野です。お時間よろしいでしょうか」

「だからそんなに畏まって話さなくてもいいのに。大丈夫よ」

「今はどちらに?」

「ん、家の中でテレビを見てた。いろいろと動き回ったから大変なの」

 愛璃の声を聞く限りでは、愛璃はもうかなり吹っ切れていたようだった。まあ、男遊びに走る理由が心の隙間を埋めるためなのか、それとも元来はそういう性格で離婚をきっかけに箍が外れただけなのかによる。

「できることなら二人で理穂さんについて話したいことがあります。お時間がある時に学校にお越しいただいてお話しすることは可能でしょうか」

「話? まあ、大丈夫だけど。いつなら空いてる?」

 どうやら愛璃には思い当たるところがないらしかった。なら、後者か?

「いつでも、お時間の合うときで大丈夫です。こちらが合わせます」

「じゃあ、今からは?」

 今と言われて、腕時計を見る。授業が終わってから早い段階で春川に呼び止められたのでまだ五時にもなっていない。時間の余裕はあるし、早期解決が望ましい。

「わかりました。学校の正門でお待ちしています」

「は~い」

 

 それから二十分ほどで愛璃は到着した。化粧もきっちりと決まっていて、また今晩も遊びに行く予定だったのかと思わせるほどだ。僕はしっかりと頭を下げて教師としての対応を意識する。さすがにこちらの雰囲気を呼んだのか、愛璃も軽口は叩かなかった。

「それで、話って言うのは? 理穂が何かしましたか? 飲酒?」

「飲酒?」

 まさか、あの日のことを知っているのか。もちろん、春川は冷蔵庫からビールの缶を取ったわけだから数が減っていたことを確認すれば家にはもう一人しかいない。ただ、春川から何か親に言われたとは聞いていなかったから、てっきり気が付いていないものだと思っていた。

「別に先生が知らないなら私は注意するつもりはないの。それくらいの悪いことなら可愛いものじゃない。それに、あの子がお酒を飲んで一人でその罪悪感を抱えられるとは思わないから、友達か誰かしらかばってくれそうな人には話すはず」

 そう言いながら、愛璃は意味ありげにこちらに目線を合わせた。

「それが僕ということですか」

「まあ、浅野君は信頼できるしね。実直というか誠実というか」

 話が大きくそれて自分の話になってしまいそうだったから、僕は軌道修正する。

「飲酒の件は今回のこととは関係ありません。実は理穂さんから相談を受けました。内容としては、お母さんが様々な男性と夜な夜な遊んでいることがなんだかすごく嫌で、それでもお母さんのことを考えると自分からも言い出せないと」

 僕がそこまで言って、愛璃はようやくそのことかと理解した表情を見せた。

「ああ、そのことね。まあ、確かに私はいわゆる男遊びはしてるわ」

「理穂さんはそのことには一定の理解というか、お母さんにも人生があるからきっぱりノーというつもりはないらしんです。ただ、それを受け入れられないというか」

 なんて説明すればいいのか、上手く言葉が出てこない。

「まあそうね。あの子はなんというか純粋だから」

「だからこそ、お母さんに強く言えないんです。ただ、自分でも受け入れられない。だから、なんとか折り合いをつけたいと。僕はその力になりたいんです。理穂さんが受け入れられてお母さんの中にある問題も解決したいと」

 その気持ちは嘘偽りの無いものだった。元恋人として浅からぬ縁がある愛璃と、生徒として大事に思っている春川。その二人が幸せになれる妥協点を探したい。

「まあ、男遊びをやめてくれっていうなら辞めるわよ」

「いえ、そういうことではなくて。それ以外になにかストレスの解消法というか」

 僕がそう言うと、愛璃は高笑いをしだした。

 明らかにこちらを馬鹿にしているように。

「ストレスってそうじゃないわよ。私はね男の人に愛されていたいの。女性の価値は隣にいる男の人って言うように、私の幸せは隣に愛してくれる男の人がいること。ストレスなんか別にないわ。私を愛してくれなかった旦那は慰謝料というお金だけ置いて出て行ってくれた。私は、それこそ浅野君と付き合ったときみたいに純粋に自分だけを見て愛してくれる人が欲しいの。私がいないとダメだって、そう思わせてくれるような」

 愛璃はそこまで話すと、少し落ち着いて続けた。

 それが悪いというつもりは当然ない。人にはそれぞれに幸せの価値観がある。ただ、その幸せと春川の感じる不快感は相反するものだ。とにかく、愛璃の今の考え方は変える必要がある。何か別の幸せの形を見つけてほしい。

「いいわよね、浅野君の奥さん。蛍祭りのときに見たけどすごく幸せそうだった。奪ってしまいたくなる位」

「何を言っているんですか」

 さすがに僕はその言葉には反論する。愛璃も本気で言ったわけではないのか、僕の反応を見てまた笑った。どうやら、愛璃は簡単に考えを変えるつもりはないらしい。元恋人として春川の苦しみは理解できるが、それでもここで折れてしまうのもなんだか違う気がする。

「それより、あなたが理穂のケアをしてあげていればあの子はそれで満足じゃない?」

「どういうことですか?」

「あの子、オナニーしながら先生って呼んでたわよ」

 衝撃的な発言に僕は言葉を詰まらせる。春川が僕のおかずに自慰行為をしているというのだろうか。

「たぶん、あの子はまだ気づいていないけどあの子、君の事が好きなんだと思うわ。やっぱり親子って似るものね」

 僕はその言葉に返す言葉もなかった。最近、感じる強い視線はそういうことだったのだろうか。僕の反応を気にすることなく愛璃は続ける。

 ただ、その言葉を素直に受け入れて喜ぶことなんてとてもじゃないけれどもできなかった。春川は教え子で、僕は先生だ。

「ま、そういうことだから。男遊びは控えてあげる。じゃあね」

 呆然としている僕を置いて、愛璃は教室を後にした。


 先生に相談した次の日には、お母さんの夜遊びが無くなった。しかし、それと同時にクラス内で妙な噂話が流れ始めた。体育祭を経てクラスの全員がそれなりに関係性を形にした段階でそういうことが起こるのは去年もそうだったと思うけれども、今回はあんまり気持ちの良いものではないというか、悪質だった。

『先生って、以前、生徒に手を出したらしいよ』

 誰がそんなことを言い出したのかわからないけれど、そんなことを言うのは先生に失礼だし、その噂話を私の友達がしているときも、ふと聞こえてきたときも心が傷んだ。確かに生徒にそこまで表面的に情熱的ではないけれども、すごく私たちの事を考えてくれる浅野先生がそんなことをするとは思えない。その話を聞くたびに、なんだか不快感が表情の裏に集まって気分が悪くなる。

「どこからそんな話が出たんだろうね」

 確かに先生はこっちに県をまたいで越してきたんだから噂なんて立てようと思えばいくらでも作ることができる。先生は基本的にそういうことには授業に支障が出ない限りは気にしないだろう。だけど、私は嫌だった。

「理穂、大丈夫? 顔色が良くないけど」

「うん、ちょっとトイレにいってくる」

 ただ、トイレに行っても気持ちは休まらない。いつもトイレにはクラスを構わずに女子がいて、その声は教室にいる時よりもよっぽど大きい。言葉が歪んで、それを聞いている私の内側までぐらんぐらんと揺れて気持ち悪くなる。お酒を飲んだ時みたいだった。

「最近、なんだか体調が良くないみたいだけど大丈夫か?」

 いつものように私が柚葉たちと先生に話しかけにいくと、後ろから誰が言っているわけでも聞こえてくるわけでもないのに私と先生ができていると噂されて後ろ指を刺されているように感じる。実際にそういう話がクラスのみんなの中であるのかもしれないけれども、みんな中学生にもなって賢いから、表立ってそんなことを言うはずがないのに。

 ただ、その笑顔の裏でそんなことを思われていると考えると、どうしても私は一緒に先生と話している柚葉たち以外とはいつの間にか溝ができていた。考えても仕方がないし、どうせ夏休みを挟んだらみんなそんなことを忘れているだろう。そういう風に自分で解決しようと思っても、なかなか踏ん切りがつかない。ただ、こんなことを先生には相談できなかった。自分のことならいいけれども、先生を傷つけてしまうかもしれない。

 どんどんと、あの体育祭の日から悩みが増えていく。

 それが今の私には何よりも恐れることだった。そして、それと同時に先生と本当にそういうことがあるのなら嬉しいと、自分が先生にそうやって愛してもらえるという想像をすると、嬉しい気持ちもあった。これが恋なのかはわからないけれども、私は先生に愛してほしかった。他の生徒とは違う、特別な感情で。


 先生にはお酒をもう飲まないことを約束したから、そんな自分の溜まったものを吐き出す方法もわからない。みんないろんな悩みを抱えているのにどうしているんだろうと思いながら、今日もお母さんの目を盗んでオナニーをする。その間だけは不快な噂のことを忘れて気持ち良さだけが私を満たしてくれた。どんどんとその頻度は多くなり、前までは週に一回ほどだったものが最近では毎日複数回、それをしている。自分でも頭を空っぽに、真っ白にしたくてどんどんと激しくなって自分のしていることがわからなくなる。

 体が疲れているはずなのに、心を癒すためにそれをする。自分がそのときにどんな表情をしているのか、お母さんが留守でしばらく帰ってこないとわかっているときにはなんて言っているのかわからないほど。ただ、それが終わると急にさみしさがこみあげてくる。どうしていつも私ばかりが悩まないといけないんだろう。先生にも頼れない私はこうして自分を慰めることでしか癒されないのかなと。先生と話すのは楽しかったけど、みんなからそういう風に思われているかもと考えるだけで気持ちが暗くなる。だから、なんとなく話す頻度も減っていった。 みんなは楽しくやっているのに、どうして私だけがこんなに悩んでいるんだろう。ただ、それでそんなことをみんなに相談できるはずもなかった。結局、誰にも自分の悩みは話せず私はどんどんと暗くなっていった。 毎日、暗い気持ちになって学校へ行く。そんな私のことを心配して、柚葉たちは積極的に声をかけてくれた。

 そのことには感謝していたけど、結局私はなにも話すことができずに彼女の気持ちだけ無駄にさせてしまった。だけど、それも仕方がないことだった。私がそんなことをしていて悩んでいるなんて言えるはずがないのだから……


 春川はあの日から、とりあえずの元気は取り戻したみたいだった。しかし、また悩んでいるらしい。思春期だから常に悩みはつきないものだろうし、それが将来の成長にも繋がるのだからそれ自体は問題視していないのだが、どうも愛璃の言葉が引っ掛かっていた。

 春川が僕のことを性的な意味で好意を持っているかもしれない。もちろん、愛璃の言葉自体が僕をからかうための嘘である可能性もあるし、先生というのも自分であるという確証もない。ただ、どうしてもそれが頭から消えてくれない。

「どうしたの、あなた」

 こうして優花を挟んで家族三人、川の字になって眠っているときもだ。毎晩、眠りにつこうと目を閉じると、春川の顔が浮かんだ。

「いや、なんでもない。最近、なんだか疲れているみたいだ」

 こうして目を開いて、擦るとそれは消える。目の前には無垢な寝顔の優花。その頭をゆっくり撫でていると、いつの間にか眠っている。そんな生活が続いていた。ただ、それにも時間がかかるからどんどん睡眠時間が削られていく。今まで感じたことがないのに、学校へと向かう足取りが重くてなかなか寝起きも悪い。ときどき、なんともいえないような悪夢にうなされて夜中に飛び起きることもあった。このままではいけないと思いながらも、時間が解決してくれるだろうと考えて問題を放置してしまっている。しかし、それを繰り返しているうちに僕の目の下にはクマができており、それはよりいっそう深刻な問題であることを周りに知らせているようであった。 夏休みに入れば、なにかが自然と解決してくれるだろうか。無責任ながらそんな期待もぼんやりと自分の頭に浮かんでいた。

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