第14話

「少しは落ち着いたか?」

 浅野先生には珍しく怒るようにそれを言われたから私は思わず体がびくっと怯えた。本当に怖いのは、年がら年中怒っているような先生ではなくて、いつも優しくていつも私の見方をしてくれる浅野先生に嫌われてしまうことだった。もちろん、こんなことで私を見捨てるような先生ではないとわかっているけれども、少しでも先生に嫌われたくない、好かれていたいという感情がいつの間にか私の中には生まれていた。血が少しずつ借りたハンカチを汚していくたびに、先生の心も黒く染まって私への悪感情も膨らんでいくように感じた。

「はい。すいません」

 私がしゅんとしてそう言うと、先生は大きくため息を吐いた。それは、いつも通りの浅野先生で私は少し安心した。こちらに呆れて見放すようなものではなくて、仕方ないというようなため息。それは、私にもう怒っていないことを伝えている。先生はゆっくりと私の隣に腰をかけた。

「謝らなくていい。落ち着くまで待ってるから」

 浅野先生は私の頭をぽんぽんと撫でた。その温かい手は、私の心を落ち着けてくれた。そう、浅野先生の手に触れられると落ち着くのだ。年はうちのお父さんと同じくらいなはずなのに、なんだか比べ物にならないくらいの重みと温かみがあった。夏に向かっているとはいえ、パジャマで夜中に外に出ると寒い。特に酔いがどんどんとさめてきていると体の内側から温度が消えて更に冷えていくはずなのに、先生の隣にいるとそれが和らぐ。先生の手の温かさと大きさで私の心は包まれているような気がする。

「うっ」

 安心すると、急に体の内側から何かが押し寄せてきた。

「ほら、落ち着いて。ゆっくり吐け」

 そのまま私は先生に背中を撫でられて、排水溝に思い切り吐いた。喉の奥にピリッとした辛みがあり、それは気持ち悪いけれども、吐き出したその瞬間だけは気持ち良かった。いま、私の中にある言葉にならないものが形になってあふれ出た気がした。たぶん、感情なんて突き止めればこんなもので、人の内側にあるものなんてプラスであろうとマイナスであろうとも気持ち悪くて汚い。

 そして、マンションの生垣。その端にある小さなスペースに座っている。手には先生が買ってくれた水。先生は私がこんな夜中に外にいること、ビールの缶を持っていたことに対しても何も言わずにいてくれた。布団の中にいるよりも、安心できた。

 水を飲んで、ようやく自分で歩けるようになったところで私は立ち上がる。

「すみませんでした」

 何に対して、先生に謝っているんだろう。ビールを飲んだから、夜中に出歩いたから、迷惑をかけたから。その全部だろうか。私の発した言葉なのに、私にはその意味がよくわからない。

「別に僕のことは気にしなくていい。ビールの件もわざわざ今、咎める気はない。いろいろと思うところがあったんだろう。ただ、こんな夜中に外を出歩いて見つけたのが僕じゃなかったら危なかったぞ。みんながみんな、良い大人だと思うな」

「はい」

 てっきりここから怒られるのかと思っていたけれども、先生はそれだけ言って黙った。おそらく、不審者とかそういう心配をしてくれているのだろう。

「あの、怒らないんですか?」

「別に今やることじゃない。ビールのことだって、わざと悪いことをしようと思ったわけでもないんだろう。お母さんからいろいろと事情は聞いている」

 そっか、お母さんは先生にも相談してたんだ。確かに、私も先生に相談することならできる気がする。誰よりも、話していると落ち着かせてくれる。

「ただ、何か悩み事があるなら話してくれ。春川が話したいと思ったタイミングで良いし、別に僕じゃなくていい。他の先生でも、言ってくれれば僕が都合をつけてもらえるようにするし、頼れる大人なら誰でもいい。一人で抱え込むんじゃない。わかったな」

「はい、すみませんでした」

 私はもう一度謝ると、今日はちゃんと話せる気がしなかったから帰ろうと決めた。ビールの缶も先生に見つかったからお母さんに怒られてもどうでも良かった。水と空き缶をもって先生に礼をしてから帰ろうとする。その時だった。

「春川、何かあったら相談してくれ。先生は春川の味方だ」

 先生はそう言って。私の手から空き缶を取った。

「これは僕が捨てておく。帰ったらすぐに寝るように。じゃあおやすみ」

 私は何も言えず、何も言わずに家に帰った。そうすると、ようやく何も考えずに眠ることができた。ふんわりと私の体を布団が包んで守ってくれているとそう感じた。


「先生、すいません。わざわざ時間をもらって」

「子供がそんなことを気にするんじゃない。頼ってくれて僕は嬉しいよ」

 一週間の間を挟んでの月曜日、放課後に話がしたいと春川に言われたから、僕は空き教室を一つ借りてゆっくりと話せる準備をした。教師として十年以上も生活をしているけれどもこうして真面目に生徒と一対一で話すのはいつ以来だろう。特に飲酒が絡んでいる場合は、普通は不真面目な生徒だからこちらにはなかなか心を開いて自分から話したいとは言ってくれない。

 春川は見る限りで、明らかに緊張していた。

「別にそんなに緊張しなくていい。いつもどおりにしてくれたほうが助かるよ」

「わかりました。すみません」

 どうも、あの日以来ずっと僕に対して申し訳なさを感じているみたいだ。何か僕がクラスの全員に頼みごとをすると率先してそれをしてくれるし、何かを話すと最後に謝ってくる。以前から積極的に僕の仕事を手伝ってくれていたけれども、それに向かう態度や姿勢は明らかに違っていた。別に飲酒や夜更かしを肯定するわけではないけれども、そのことにあまりにも責任を感じすぎている気もする。揃って腰を落ち着けたところで、僕は話しやすいようにとこちらから切り出す。

「あのな、春川。僕に申し訳ないとは思わなくていい。先生は生徒が何かしたら助けるのは当たり前のことだし、そのためにこの仕事をしている。だから、気負わないでくれ。ほら、リラックスして」

 そうはいうけれども、やっぱり急には無理だろう。今日の様子を見る限り、クラスでは上手くやっているけれども、愛璃がするように心から笑える時ではないけど無理に口角を上げて周りとテンションを合わせているように見えた。

「じゃあ、さっそくだけど何を悩んでいるか聞いてもいいか」

 僕が促すと、春川はゆっくりと大岩とのこと、両親のことを話してくれた。告白されたこと、離婚のこと、お父さんがもう長い間、自分と母を愛していなかったこと。

 それは、とても思春期の女の子には酷なことだったと思う。それが一斉に彼女の小さな体と心に襲い掛かってきた。でも、彼女はそれを頑張って乗り越えてちゃんと自分の中で消化して僕に対して話してくれた。もちろん、僕の体験と春川の体験は全く違うからそれがすべて正しいとは言わないけれども少なくとも僕には春川に寄り添いたいという気持ちがあったし、それが間違いだとは思っていない。

 教師の仕事でもあり、優しいが故に心を痛める少女を救いたいという人間として当然の良心も存在していた。そもそも、こうして相談に来てくれている時点で僕は春川に対して誠実でありたいと思っている。

 それが教師という職だから、それだけだった。

「そうか、春川も大変だったな。疲れているのにいきなりそんな話を立て続けにされて」

「はい」

 春川は小さくうなづく。しかし、その言葉を発して落ち着いたのか張っていた肩ひじは少しだらりとなって、小さくだが口角も上がって見えた。

「別に全部を真面目に考える必要もない。疲れているときにそんな話をするなって突っぱねるくらいの気持ちでいいんだぞ。先生もこういう性格だから、色々と昔から頼られたりしてその時は大変だった」

「先生にもそんなことがあったんですか?」

「もちろん、その時はいろいろと抱え込んでしまって考えることが多くてパンクしてしまったこともあるよ。今の春川みたいに。ただ、やっぱり思うのが子供のうちくらいは自分のことを一番に考えていればいい。大岩だって、告白を別にこまらせてやろうとおもってしたわけじゃない。だから、春川がそのことで悩むのが、大岩にとっても一番嫌なことだと思うぞ」

 大岩も、もう二ヶ月も過ごしていると純粋に良いやつだというのは僕もわかっていた。おおよそ、体育祭で優勝したらとかそういう縛りを自分に課して告白しようとしていたのが溢れただけだろう。

「それに春川のお母さんは春川に似て顔に出やすいところはあるけれども、気持ちが固まったから離婚を選んだんだ。春川がどう思うかもいろいろと考えた結果だからそれについて春川自身が悩むのはいいけれども、両親の事は考えなくていい。子供が思っているよりも、親っていうのは子供が大事だから自分なんか気にしなくていいと思ってるよ」

 僕がそこまで言うと、春川は少し安心してくれたみたいだった。

「ただ、アルコールを摂取するのは良くない。いろいろと抱えていたものがあるのはわかるからこれを別に他の先生に報告したり警察に言ったりはしない。ただ、体に悪いから今後はそんなことをしないで僕のことを頼ってくれ」

「はい、ありがとうございます」

 どんどん、春川の持つ明るさが戻っていく。僕からいうことはそれくらいだったから、後はできるだけ春川の言いたいことを聞いていた。どんどん悩みから、クラスで合ったくだらないこと。今日、クラスメイトとしたけれども素直に楽しめなかった分を僕との会話で取り返すように素直に笑ってくれた。一時間ほど二人でどうでもいい話をした。

「ありがとうございました。なんだか、すごく楽になりました」

「それは良かった。部活の先生にはこっちから言っておくから今日は帰って休みなさい」

「はい、それじゃあ」

 春川が教室を出てそのまま帰ろうとした瞬間に声をかけたのが不味かった。僕の方をむいたせいでドアをスライドさせるための金具に引っ掛かって春川は大きく態勢を崩す。僕は慌ててその体を掴んで起こした。必然的に体の距離が縮まる。

「ごめん、急に声をかけて。じゃあ、また明日」

「はい……」

 春川はそのまま、静かに帰っていった。

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