第13話

「ただいま」

 改めて挨拶すると、エプロン姿のお母さんは優しく迎えてくれる。ただ、その笑顔はなんだかおかしい。普段、お母さんはここまで口角を上げて笑ったりはしない。なにかを隠している。昔、家族三人で遊園地に遊びに行く予定を立てていたところにお父さんが急に仕事の都合で来られなくなったことがある。結局、その日は私とお母さんの二人で出かけたけれども、その時にしていた笑顔と全く同じだった。

「ほら、いっぱい運動してお腹が空いたでしょ。理穂の好きなカレーにしたからたくさん食べてね。お代わりも用意しているから」

 私はよく、友達に純粋で嘘がつけないタイプだと言われるけれども、それはお母さんに似たものだと思う。お母さんもわかりやすく表情に出るタイプだ。ただ、こちらからそれに踏み込めるほど体力も余裕もない。

「ありがとう、いただきます」

 好きなはずのカレーは、一口目を口に運んだところであまり味がしない気がした。ただ、お母さんは料理上手で一緒に食べて始めたのに何も無いようにどんどんとお母さんのほうはお皿が綺麗になっていく。ただ、私はなかなかスプーンを握る手が進まない。

 やっぱり、私も体が正直だ。あまり、食べる気はしなかった。

「どうしたの? あんまりご飯が進んでいないみたいだけど」

「ううん、ちょっと疲れているからゆっくり食べたいかも」

「そうね。ずっと外にいたら疲れるわよね」

 私の下手な言い訳も信じて、お母さんは納得したみたいだ。テレビに映るバラエティ番組の方を向いて、本当は私から体育祭の話を聞きたかっただろうけれども我慢しているみたいに見える。私はそれに甘えて、黙々と食欲を満たすためだけに手を動かす。

 ただ、そうはしていられなかった。芸人さんのギャグでお母さんが笑った次の瞬間に、涙がすっと流れた。それは、私が十三年と少しの人生で見た中で最も綺麗な涙だった。なにかお母さんを苦しめていたものが、憑き物が涙になって落ちたみたいに。

「どうしたのお母さん、なんだか変だよ」

「え。ううん、なんでも……」

 そこで話が詰まる。そして、さっき見たばかりの、亮斗が私に告白をした時のような表情でこちらを向く。私の手は自然と止まり、リラックスしていていいはずなのに背中がぴんと張った。そのまま、お母さんが話すのを待った。

「あのね、お母さんとお父さん。離婚することになったの」

 そういったとたんに、ダムが決壊したようにお母さんの目から涙が溢れた。顔を抑えているけど、指の隙間から漏れ出た嗚咽が部屋中に響く。そのまま、私はお母さんの背中をさすって宥めていた。

 どうしてお母さんが離婚を決意したのかは聞かなかった。


 お母さんからそれを聞く前から、私はなんとなくそれを感じていた。あの日、眠れなくて外に飛び出して先生に会った日。私が家に帰るとお母さんと誰かが電話で話しているのが聞こえた。気になった私はなにかあったんじゃないかとその後に出かけるお母さんを追いかけると、近くの喫茶店で一人の男性と会っていた。その時は具体的な話は聞けなかったけど、お母さんが声を殺して泣いていることはガラス張りの店内を外から覗いているとわかった。その頃からお母さんの口からお父さんの話が出る回数が極端に減った気がする。


 以前のお母さんからは時折、お父さんのことを楽しそうに話していることがあったけれど、それより前からお父さんからお母さんへの愛を感じなくなっていた。いや、きっと私への愛情も薄れているんだと思う。

 そもそも働いて出世をすることに執念のあるお父さんは自分にそこまで興味がなかったように思う。きっとお母さんと別れたいのもそういう理由。家庭への興味を無くしていたお父さんと、それを気づきつつも生きていくために受け入れていたお母さん。以前、お母さんに聞いたけれどもこれまで大学を卒業して二十六歳でお父さんと結婚したためにいわゆる働いた経験がほとんどなかった。そのせいでお父さんのことを、愛せていなくても一緒にいるしかないと悩みながらついに答えが出たのだろう。それは、自分の幸せを、それこそ浅野先生にお金や生活など考えずに実直に愛されていたころと比べてしまうとそんな自分が惨めに思えてしまうのだと思う。

 だから、私は離婚に反対しなかった。お母さんが傷つくのも、お父さんが家庭への興味を完全に無くすのも見たくはないから。お父さんは出世のために体面は気にするだろうからお金にも困らないと思う。お母さんが傷つくよりはよっぽどましだった。それに、こればかりを考えてもいられない。亮斗についても考えないといけない。ただ、仮に私が亮斗を好きで両想いになれたとしても、こんな親の離婚を知らされたような心情では何を思えばいいのかわからなかった。話を終えて落ち着いたお母さんがお風呂に入っている間、テレビを見ても、携帯で友達と連絡をしていても味がしないようで、つまらなかった。考えることがあまりにも多くて、素直に目の前にある情報が入ってこない。


 その日、布団に入ってもなかなか寝付けなかった。ただ、それは両親の離婚よりも亮斗からの告白によるものが大きかった。お父さんのことは好きだけれども、昔から仕事の関係で出張が多くてなかなか一緒に遊んでもらえた経験はない。小さいころは家族三人で動物園や水族館に行ったはずだし、アルバムを開けばその時に撮影した写真は残っている。

 ただ、それを見ても自分の物だとはなんだか思えなかった。少なくとも、私の記憶がはっきりと残っていて、それを自分が経験したものだと思えるより後にはお父さんとどこかに出かけた記憶はない。家に帰ってくると出張先で買ってきたお土産や、誕生日やクリスマスの日には一緒にいてお祝いしてくれたけれども、お父さんにはそれが父親とはこういうものだと刷り込まれているからそれを実行しているだけにしか見えなかった。

 だから、正直な話を言うとお金さえなんとかなれば離婚して家族がお母さんと二人になることは、自分の中でそんなに大きな変化ではなかった。自分の中ではやっぱり、学校での人間関係が大部分を占めているから、お母さんにとっては娘の前で涙を流すような大事だとしても私にはどうしても同じ温度で離婚という事実を見ることはできなかった。

「どうしよう」

 泣き疲れて先に眠ったお母さんの隣で、目に悪影響だからと禁止されている布団の中で携帯をいじる。亮斗とは中学に入って自分専用の携帯を買ってもらってから毎日、何かしら連絡をしていたけれども、今日はまだ何も話していない。

 普段は宿題の見せあいや、クラスの他愛ない話をしていたけれども亮斗からは何の連絡もなかった。ただ、こっちが連絡するとそれは告白の返事が固まったと亮斗に勘違いさせて期待させてしまうみたいで、今の私にはできなかった。

 結局、もんもんと考えてしまい体は確かに疲れているはずなのに眠れない。脳が休むことを許してくれなかった。そうしていると、お腹が空いてくる。お母さんが眠っていることを再度、確認してから何かこの空腹を鎮めるものがないかと冷蔵庫のほうに向かった。

「お酒? しかもこんなに」

 冷蔵庫の奥まで調べていると、そこにはビールの缶が並んでいた。ただ、お父さんもお母さんもそこまでお酒を飲むタイプじゃないから普段から冷蔵庫にそれは無かったはずなのに、きらきらと金色のラベルで存在感を放っている。大人が辛いときにお酒を飲むことは知っていたけれども、お母さんはそんなに苦しんでいたのだろうか。

 一生の愛を誓って、それを添い遂げられない気持ちはそこまで人を苦しめるのか。

「どんな味がするんだろう」

 アルコールの危険性は、学校でも何度か教えられていた。未成年の内から飲酒をしていると体にも頭にも良くないとわかってはいる。頭ではわかっているのに私はそれに手を伸ばしていた。掌にアルミ缶からひんやりと冷気が伝わってくる。昔からいたずらはしていたけれども、小学生にもなると学校でも家でも怒鳴られるほどに怒られたことは無かった。

 ずっと良い子だったし、それが大切だとわかっていた。だからこそ、今こうして未成年なのに、禁止されているビールを持っていることがすごく自分を興奮させて、亮斗のこともお父さんの事も、お母さんのことも忘れさせてくれる。冷蔵庫のドアを占めて、キッチンの箸で座って、携帯の明かりだけを頼りにプルタブを引っ張る。プシュという泡が弾ける音は暗い部屋に大きく響いた気がした。意味もないのに、口を抑える。

「これくらい、いいよね」

 自分に言い訳をしてから私はそのまま、おそるおそるあふれ出た泡に口をつけて吸い上げる。口の中に入ってくる泡は何も味がしなくて美味しくない。美味しい、不味いよりも変というのが正しい表現のような気がした。ただ、ここまで来たらもう止められない。そのまま飲み口に口をつけて、ゆっくりとそれを重力に任せて口の中に入れる。先に泡が口の中を覆いつくし、それを洗い流していくようにどんどんとビールが口の中を侵食していく。

 苦い、素直な感想だった。他のどんな食べ物にも違う独特な苦さというか、不味いわけではないけれども何が美味しくて大人はこれを楽しく飲むのかわからない。ただ、その苦さが、独特な味が全てを忘れさせてくれた。亮斗もお母さんもお父さんも全員が、自分のことばっかりだ。私がそんなことを考える余裕もないのに無理難題を一斉に押し付ける。体育祭で優勝したらとか知らない、お父さんの愛されていないとか知らない、家庭より仕事が大事とかそんなことは知らない。

 なんだかそれに腹が立って、それをビールの苦さで上書きするようにどんどんと体の内側に流し込んでいく。どくんどくんと喉が音を鳴らすたびに、心臓も跳ねた。重力に従って、どくどくと缶の内側から溢れてくるビールを一滴もこぼさないように体の内側へと流し込んでいく。喉の奥が少しだけ焼けるように痛い。

 だけども、手を下げるということは思い浮かばなかった。カッターナイフで手首を切るように、成人もしていないような若い体にアルコールが良くないとわかっているし、喉の奥がアルコールのせいかわからないけれども痛い。でも、そのことが気持ち良かった。そのまま、一缶が空になるまで腕を上げ続けていた。飲み切った途端に、体が沸騰するように熱くなる。表面よりも、顔の内側から発熱してそれが少しずつ広がっていった。やがて脳の方にまで近づいて行ってどんどんと思考ができなくなる。手の内側にあるのは冷えたアルミ缶のはずなのに、それを感じられないほど熱い。

 しかし、飲み終わった瞬間にばれたらどうしようという気持ちが湧き上がってくる。頭はぼんやりとしているのに、自分がよくないことをしたという証明であるビールの缶は私を現実へと引き戻した。とにかく、この空き缶を処分しないといけない。ただ、何も見ずに手に取ったそれはどうやらかなり度数の濃いビールだったらしく、体は上手く動いてくれない。立ち上がろうとしても上半身と下半身がばらばらになったみたいに重心が安定しない。かろうじてつま先に力を入れて立っていられるくらい。

「うぇ、気持ち悪い」

 ただ、早くなんとかしないとこの空き缶もそうだしこの時間に起きていることも見つかればお母さんに咎められる。しかし。はやく動こうとするほどに、体の内側から熱いものが喉の奥に上がってくる。それが痛くて、私の目からは自然と涙が溢れていた。

「うう、どうして」

 涙を拭いながら、なんとか立ち上がる。このままゴミ箱に捨てていればばれるから近くの公園まで捨てに行かないと。玄関まで行って、軽く上着を羽織ってサンダルをひっかける。ドアを開ける音が大きくて怖かったけれども、それは無視して外に飛び出した。

 熱い体を、冷たい夜風が冷やす。初めて、お酒を飲んでから気持ち良いと感じた。しかし、すぐに体の内側から気持ち悪さが押し寄せる。缶を握って、歩き出そうとしたところで暗さで見えなかった地面の少し盛り上がったところに躓いて倒れてしまう。それと同時に体が大きく揺れて内側にあるものが少しだけ口の中に溢れた。膝を擦りむいたのか、足が一瞬だけ跳ねるような感覚があってからじんわりと濡れていく。辛い、苦い、痛い。そんな感情が、頭の中をどんどん支配していった。

「ううう」

 手にはビールの空き缶で吐きそう。こんな状況じゃ、誰かに見られた時点で問題になるのに誰かに助けてほしかった。ただ、夜も更けてこんな田舎じゃ誰も出歩いていない。なんだか涙が出そうだった。

「助けて……」

 虚空に響くその声は、空気の中に消えていくかと思った。

「大丈夫ですか?」

 地面に倒れてうつむいている私の頭の上から、男の人の声が聞こえた。ただ、その声が誰なのかはわからない。だけど、なんだか安心できた。その人はしゃがんでこちらと視線を合わせる。その瞬間に驚いた顔をされる。

「春川!」

 そこにいたのは、煙草を口に咥えた浅野先生だった。

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