第12話

「久しぶり」

 僕がちょうど午前中の仕事を終えて、生徒たちのいる教室に戻ろうとしていたところに後ろから声を駆けられた。その声は愛璃のもので間違いはなく、あの時、愛璃の旦那さんが浮気をしているとだけ言われたときよりもよっぽど明るくなっている。

 いや、そもそも愛璃は明るい人だ。夫の浮気に、離婚など考えることが多く暗くなっていたけれども昔の頃のようだと感じる華やかな声。愛璃は昔と変わらぬ笑顔でそこに立っていた。僕はそれに答えるように微笑み返す。

「ああ、お久しぶりです」

 他の保護者に挨拶するときのようにあまりにも畏まるのはなんだか恥ずかしくて、少しだけ反応が遅れる。そんな僕を見て、愛璃はくすりと笑った。


 愛璃が引っ越してからも、僕たちは連絡を取り続けた。しかし、今のように中学生にもなればクラスの九割が携帯電話を所持しているような状況ではなく、僕は親にそういう相手がいるのをできるだけ隠していたかったから手紙を書いた。愛璃も、なんだか少女漫画らしいと喜んでそれに応じてくれた。

 最初のうちこそ、相手を思って手紙を書くという行為は楽しく感じていた。しかし、それでは僕たちの関係は続かなかった。

 今でこそ恋人関係にはなったけれども、僕たちは最初は先生と生徒のような関係であった。愛璃の疑問を僕が解決する。それは恋人になってからも一緒に勉強をするなど形を変えていたため、自分たちの関係の基本はやはり勉強によって形作られていた。だから、僕たちは手紙のやりとりをしていても成績の話や勉強に関する話題を当たり前のように書いていた。ただ、別の学校で進み具合も違う。以前のように勉強を教えるようなことはないからどうしても話が尽きてしまう。

 共通の趣味もない、今までは同じクラスというコミュニティに所属していたけれどもそれも失った僕に愛璃へと話せることが見つからなかった。だから、僕はいつも愛璃と話せることへの喜びよりも何を話せばいいのかわからず、愛璃を喜ばせようとする、愛璃に笑ってほしいと思って悩むのではなくそれより前で悩んでしまい、好きな人とこうして文通できているのに楽しいと感じられなくなっていた。

 きっと愛璃もそれを感じ取っていたのだろう。ある時を境に、愛璃からの手紙が途絶えた。そして、こちらから送ろうとも思えなかった。その時には夏休みも近づいていたからなんとか会いに行こうと思っていた。けれども、いつの間にかそれは自分の中でなかったことになっていた。

 僕の初恋で、初めての交際は自然消滅という形で終わっていった。


「私、離婚することに決めたの。久しぶりに、夫が家に帰ってきたんだけどもう一緒のベッドで眠ることができなくて、いろいろと理由をつけてその日はソファーで寝たのね。その時の感触が、私にはもう無理だって。この生活も終わりなんだって教えてくれた」

 僕は何も言えずに、唇の端を咬んでいる愛璃の顔を見つめる。わいわいと生徒たちが揃って教室に戻っていくはずなのに、その音が遠くに聞こえた。映像の中でそれを振り返るかのように、今の自分が愛璃とだけ同じ空間にいるように。

 燦燦と照り付ける太陽は、じりじりとそうしている間も肌を焼いていく。

「そうなのか……」

「ごめんね、せっかく担任している生徒が頑張って楽しんでいたところにこんなこと報告して」

 僕が謝ると、愛璃は困ったような顔で笑った。もっと、今一番辛いのは愛璃なはずなのに。僕は自分のことばかりでどこか逃げていたことを恥じた。

「ごめん、気の利いたことを言えなくて」

 その言葉を言い終わる前に、こんな重たい空気なんて吹き飛ばすほどに明るい声が二人の間を真っ二つにした。

「あ、お母さん! 先生!」

 みんなで固まって教室のほうへと戻っていた途中の春川が、愛璃のほうに飛び込んできた。飼い主を見つけた犬のように嬉しそうで、小さく運動靴のかかとが地面からついては離れているように錯覚するほどだ。そんな春川を見て、愛璃もすぐさま優しい母の顔になった。この様子なら大丈夫だろう。

「ほら、友達が待ってるわよ。お弁当、頑張って作ったから美味しく食べてね」

 少しだけ話してから、愛璃は春川を教室へ戻るように促す。春川を待っている彩川たちは、僕と愛璃がいることをみると手だけで器用に囃し立ててきたけれども、僕はそんなことは気にならなかった。中学時代、あんなに二人でいることに対して恥ずかしさを感じていたのに、それはいつの間にか無くなっていた。その時のドキドキする気持ちがなくなったのも、きっと僕が年を取ったからだろう。


「二年生の優勝は、三組でした。おめでとうございます」

 閉会式の成績発表でアナウンスされた事実が、体にどっと疲れを押し付けてきた。

 結局、私たちのクラスは準優勝に終わった。私自身の成績はそこそこ。目立った活躍をしたわけでもないし、出場したすべてのレースで二番目だった。自分は真面目ではあったけれども亮斗たちみたいに本気で取り組んでいたと思っていなかったし、男子たちほどの熱量はなかったはずだけれどもすごく悔しかった。準優勝だったからというのもあるかもしれない。ただ、片付けが終わるころには準優勝を喜べるようにはなっていた。

 もちろん優勝を目指していたのもあるけれども、みんなで何かの目標に向かって努力できるのは貴重な経験だから、この思い出を大切にしてほしいという先生の言葉はその通りだと思ったし、準備期間や練習中はとても楽しかった。 この体育祭期間で今まで関わりが無かった人とも話せて、すごく良い思い出になった。きっと、ここからもっとみんなと仲良くできるだろう。

「じゃあ、みんな。気を付けて帰るように」

 クラス全員で片づけをしてから、浅野先生の号令で全員が帰路に就く。ここで高校生なら打ち上げでファミレスに行くとかそういうこともあるんだろうけど、まだ私たちは中学生だから自由は少ない。少しくらい帰り道で騒いでも怒られないくらいの幸せ。そんな小さな幸せを嚙み締めながら、私たちはゆっくりと通学路を逆走する。私の家は一番最後の方だから、どんどん人が減っていく。

「じゃあ、また来週ね」

 いつもはこの時間でも人通りが少なくて、なんだか寂しくて薄暗い道なのに、今日はやけに明るく見えた。ちょうどこの道を境に一人になるからいつもは怖さを感じるのに。

「じゃあ、またね」

 みんなと別れて、一人になったときに今日のことを思い出す。長距離走の亮斗に声援を送るために思い切り息を吸い込んだ時のこと。あんなに大きな声を出して誰かを応援したのは初めてのことだった。自分の声の大きさに驚いてしまったけれども、応援はしっかりと届いたと思う。クラスのみんなもすごく盛り上がっていたし、自分もすっきりした。

 そんなことを思い浮かべていると、後ろから声をかけられた。

「お疲れ、応援ありがとな」

「亮斗」

 走って追いかけてきたのか、そこには息を切らした亮斗がいた。昔は一緒に帰っていたけれども、中学に入ってからは部活の終わる時間が違うから一緒に帰ることは無くなったけれども幼馴染だから家は近くだった。

「亮斗もお疲れ様。応援、聞こえてた?」

「もちろん、理穂の声が聞こえたから頑張れた」

 搔いていない汗を拭う仕草をしながら、亮斗は笑う。私は、その笑顔に安心して思わず顔が緩んだ。何を話すわけでもなく二人で歩いていると、一緒にいて落ち着くことに気が付いた。このことは、先生と夜に会った時以来。ただ、その時とは違って亮斗は何かを話したがっているみたいだった。亮斗は、自分の鞄を肩にかけ直してから少しうつむき加減に私の顔をみる。その目は、何かを言いたそうだった。けど、それが何かはわからない。

「なんだか、こうして亮斗と二人で帰るのって久しぶりだね」

 仕方がないから、話しやすいように私から切り出す。ただ、亮斗は顔を下に向けたままだった。珍しく、何かを悩んでいるように見える。 ただ、こちらからした話を返してもらえない以上はどうしていいのかわからない。黙っていると、亮斗が口を開いた。

「あのさ、本当は長距離走で一位になって、体育祭で優勝して言いたかったんだけど」

「ん?」

 隣を歩いていた亮斗はこちらを向いてその場に立ち止まる。それに合わせて私も歩みを止めた。いつも真剣な亮斗だけど、こんなにまっすぐに私のことを見つめたのは初めての事だったから、なんだか自分の内側まで見られているみたいでくすぐったい。

 亮斗の顔には、少しの迷いが浮かんでいる。夕日のせいか、赤く染まっていた。

「どうしたの?」

 私が心配して近寄ろうとしたのを制するように、亮斗は言葉を紡いだ。

「好きだ、付き合ってほしい」

 その言葉は、一瞬私の頭を真っ白にする。好きってどういう意味だっけ。一瞬そんな風に思ってしまってから、意味を理解して思わず目を大きく見開いた。今まで、亮斗から恋愛系の話が出たことは一度もない。どちらかと言うとそういうことよりも今は野球に集中したいと思っていた。

 そのせいで、私は亮斗とそういう関係になることを考えたことがない。

 ものすごく良い人なのは知っているし、私のことを本気で好いてくれているのはすごく伝わってくる。でも、それをすんなりと受け入れることが出来るのかと言ったら、それはまた別問題だった。亮斗の事は嫌いじゃないし、これからもずっと一緒にいたいとは思ってるけれども恋愛対象になったことはなかったから。だから、すぐに頷くことが出来ない。そんな中途半端な気持ちで付き合うべきじゃないけど、亮斗のことが嫌で断るわけじゃない。それを上手く伝えるような言葉は口からすんなりと出てこない。そんな私を見て、亮斗は何かを決めたみたいだった。

「急でごめん、今すぐに返事が欲しいわけじゃない。ただ、考えてみてほしい」

 そう言うと、この場所から逃げるように亮斗は走り出した。

「ちょっと、待って」

 私がその袖を掴もうとしても、気が付いた時には亮斗は角を曲がって私の前から消えていた。 告白の返事だけが、私の心の内側に取り残されていた。


「おかえりなさい。準優勝おめでとう」

 帰ると、いつものように元気よくお母さんが出迎えてくれる。リビングから漂ってくるのは、私の好きなカレーの匂い。たぶん、好きな半熟の卵も準備してくれているだろう。

 ただ、それを素直に喜べるかと言われると難しい。考えることは少ないのに、それがとても難しかった。とにかく、汗をかいたのを流したくてシャワーを浴びる。しかし温水は汗や砂を流してくれても悩みまでは流してくれない。私はシャワーを浴びながらずっと亮斗からの告白について考えていた。

 確かに亮斗は良い奴で、私の事を本気で好きでいてくれたら嬉しいと思う。ただ、亮斗と恋人になればどうなるのか。幼稚園の頃から知っている亮斗と付き合ったらどういう風に関係が変化するだろう。周りの人はなんていうだろう。付き合って何をするんだろう。普通のカップルみたいに部活が休みの日にどこかへデートに行き、手を繋いで、ハグをして、私は亮斗とそこまでしか想像ができない。キスやそれ以上の行為が愛情表現としてあるのはわかっているけれども自分の体を洗いながら考える。この体を亮斗に触れられること、鏡に映る自分の唇に亮斗の唇が重なること。それが想像できない以上はやっぱり私は亮斗が私を思ってくれているほど、亮斗を恋人として愛せていないんだと思う。なら、告白を断るしかない。でも、そうなると私は亮斗を私の意志で傷つけることになる。それに今の関係性も崩れてしまうかもしれない。そんな事を考えている間にとうとう結論は出ず、私はシャワーを止めた。

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