第11話
雨が多くなりじめじめとした季節の中で、少しずつクラス全体にお互いへの慣れが生まれて空気も良くなってきた。六月の半ばには体育祭があり、それに向かってクラス全体で進んでいる状態だった。
生徒たちはみんな体育祭に対して積極的で、本気で優勝を狙っているらしい。
間部中学の体育祭は学年内で優勝と準優勝を争うシステムになっている。それぞれの競技の順位ごとに個別に得点が定められており、それを合算して最も多いクラスを決める。運動部のメンバーで特に人気も高い大岩亮斗を中心に纏まってリレーなどの練習をしていた。僕も急ぎの業務が無ければ、特に力になれるわけではないけど基本的には参加するようにはしていた。しかし、赴任してきて一年目だからいろいろと対応しなければいけないことが多くて、プログラムごとの細かい練習をまとめるのは森下先生に任せっきりだ。しかし、どのような状況かは少しずつだけれども春川や彩川たちが話してくれた。
そんなことをしながら忙しくしているうちに、いつの間にか愛璃の事は少しだけ頭から薄れていた。
何か力になりたいとは思っていたけれども、それでも自分には何も思いつかなかった。理由もわからないまま一方的に愛璃の旦那を非難するわけにもいかず、具体的な解決はできなくてただただ彼女を慰めるだけの方法しかでてこない。しかし、愛璃がそれを求めているわけではないことがわかった。ただ、離婚を勧めるのも違うような気がして、愛璃から連絡がなく、春川から何か言われることがないのに安心している自分もあった。
体育祭当日の朝、私が登校するころには男子はほとんど集結してわいわいと教室の後ろで盛り上がっていた。こういうときだけ、誰が言い出すわけでもなくみんなが早くに登校してこうやって盛り上がれるところは、男子の素直に羨ましいと思う。何を話しているのかはわからないけれども、楽しそうだ。
なんだか、心が通じ合っているというか男性というものの本能というか。私たちは、そんな男子たちをみながら適当な席に座って会話に花を咲かせている。グラウンドの方からは、けたたましい音で流行りの音楽が流れている。体育祭の、このいかにもお祭りという雰囲気はとても好きだ。本当なら学校で音楽を鳴らしたり騒いだりすることなんてできないのに、その非日常を肯定してくれている空間はとても心地が良い。学校や勉強が嫌いなわけじゃないけど、それだけだと息が詰まりそうになる。
「おお、盛り上がってるな」
いつもはぴったりとしたスーツ姿の浅野先生も、今日はジャージを着ていた。てっきり、普段からスーツ姿だからあんまり学校にいる時の服装には興味がないのかと思っていたけれども、ジャージも私たちの年代なら誰でも知っているブランドのマークが入っている。
スタイリッシュなデザインはスタイルの良い先生に、似合っているなと思った。けれどもたぶんこのジャージだって奥さんが選んだものな気もする。それでも似合っているのならいいことだとは思うけど。
「先生、注意しなくていいんですか?」
男子たちが教室の後ろで円陣を組んでいるのを、一人の女子が茶化すように言ったけれども先生はそれを見ながら微笑んでいる。誰もかれもがこの空気に浮かれていた。
「まあ、先生にもあんな頃があったからなあ。今日はみんなに頑張ってもらわないといけないから仕方ないんじゃないか?」
確かに、体育祭も文化祭も基本的には男子がどれだけ頑張るかな気もする。
そんなことを考えていた時だった。
「なあ、理穂。俺、長距離走で一番でゴールしてくるからな」
いきなりこっちが話しているところにやってきた幼馴染の大岩亮斗が、自慢げに言ってきた。それを見て他の女の子はなんだかこそこそと話しているし、男子たちからもこっちに視線が集まってくる。それがどうしてかはわからなかったけれど。
長距離走は、全学年合同で行われる千五百
メートルのタイムを競うレース。クラスで一人しか出走しないことと、最も過酷なレースだから基本的にはクラスの中心で運動ができる人が選ばれるけれども、うちでそれは亮斗だった。坊主頭を輝かせるほどの笑顔で、白い歯を見せている。マンガに出てくる主人公みたいな人だった。
昔から明るくて、スポーツが大好き。元気が有り余って小学校のころは先生に怒られることも多かったけれども、中学校に入って厳しい野球部の先生や先輩たちに指導されたのか真面目な青年というふうになった。
あの笑顔を見せられると、否が応でも彼の事を友人として好きになるのはわかる。亮斗は昔からそんな人だった。野球部の次期エースで、クラスでも人気者。何人か女子の中でも亮斗のことを好きな人がいると聞いたことがある。
「頑張ってね、応援してる」
クラスが体育祭で優勝するとかは考えなくても、きっと亮斗が隣のクラスだったとしても私は幼馴染として亮斗のことを応援するだろう。とはいえ、去年も亮斗は出走して五クラス中で四位に終わっていた。基本的に選ばれるのは運動部に所属している人たちだからみんなこの一年で部活の練習を通じて体力をつけてきているだろうから、申し訳ないけれどもそこまで期待はしていなかった。
だけれども、亮斗には勝ってほしいという気持ちはあった。最初にゴールテープを切って、白いゴールテープに負けないほどに真っ白な笑顔を見たい気持ちはある。
「おう、任せろ」
亮斗はそれだけ言ってから、まるで台風のように去って男子たちのほうへ戻っていった。私は、再び思考を自分の出場する大玉転がしと障害物競走に戻す。男子たちはみんな、女子からの応援に喜んでくれるから自分の出場する競技も楽しみだけれども友達とワイワイしながら花形であるリレーの応援をするのも楽しみだった。
体育祭日和という言葉が良く似合う快晴に肌をじりじりと焼かれながら、わいわいと自分たちのクラスメイトが頑張っている様を眺める。うちのクラスは現在、練習の甲斐あってか五クラス中三位の位置につけていた。そして、得点の高く午前中最後の競技である千五百メートル走が始まろうとしている。亮斗の顔からは緊張が伝わってくる。
私には単純に千五百メートルという長い距離を人とタイムを競いながら走ることもそうだけど、優勝を狙うクラスで得点配分の高い競技に一人で参加するのはとてもじゃないけれども気持ちを想像できない。責任感の強い亮斗のことだから、きっととてもプレッシャーを感じているだろう。小さい頃から先生に怒られることは多かったけれども、その多くは元気を持て余した結果で、ふざけて人を傷つけたり、不真面目なところはなかった。勉強もけして得意ではないけれども真面目にしている。だからこそ、去年の結果はとても悔しかったはずだ。
他のクラスメイトは全員がクラスの待機場所に座って、じっとスタートの合図を舞っていた。私はできる限りのことをしようと、思い切り息を吸って、大きな声で目の前に広がる空気にぶつけるように放つ。声が空気を伝って点から広がっていくように感じた。自分がこんなに大きな声を出せたことが信じられなくて、声の衝撃で少しだけ体が後ろに揺られて椅子に手をつく。
「頑張れ、亮斗!」
遠くて表情は見えなかったけれども、亮斗がこっちに向かって軽く手を挙げるのが見えた。それを見て、クラス中から応援の声が響く。やがてそれは隣のクラスにもどんどんと広がっていき、午前中のラストを飾る競技を前に熱気は増していく。熱狂がグラウンドを包み込んでいき、大きな声がドーム状に広がっていく。
パァン
宙に向かってスターターピストルが放たれ、それと同時に各学年五クラスの代表、十五人が一斉にスタートした。さすがに三年生は早く、すぐにスタート地点から反対側に位置する私たちのクラスの前を通過していく。ここから五分近くも走るとは思えないほどに軽やかでスピーディーに駆けて行った。そして、それを二年生が固まりになって追う。サッカー部やラグビー部でも二年生にしてレギュラーに入っているような人と並んで亮斗も同じペースで二年生集団の中にいた。
私は、その様子を見てなんだか誇らしくなった。亮斗が前を通るたびにクラス中から歓声が湧く。それにも集中力を乱されず、一生懸命に走る亮斗の姿は恰好良かった。
「頑張れ!」
私はその声が亮斗の背中を押して、少しでも加速してくれるように信じて思い切り叫ぶけれども、届いているかはわからない。次第にグラウンドの反対側であるスタート地点の辺りで二年生の集団から一人が遅れだす。一瞬、日の角度が悪くて見えなかった私は亮斗が遅れたんじゃないかと心配するけれどもどうやら五組の代表らしい。亮斗はそのまま集団の中でペースを保っている。
やがて、三年生が亮斗達に一周近くの差をつけてどんどんとゴールしていく。一周が二百メートルのトラックだから、ちょうど七周半のレース。私たちの目の前でゴールテープが切られていく。砂埃が舞って、少しだけ亮斗の姿を見失う。三年生の座っているあたりからは歓声が湧くけれども、まだレースは終わっていない。しかし、その歓声に焦りを感じたのか全体のペースが上がった。それを見て更に私たちのクラスも盛り上がりどんどんペースがあがっていく。ただ、遠くにいる亮斗はかなり苦しそうに見えた。
二年生は一人を除いてまだ塊になったまま、最後の一周を迎えようとしていた。
全員、顔に疲労の色が濃く見える。その背中を押すように私たちも声を出す。
そして、ラストの一周に差し掛かったところで一人が大きくペースを上げて塊から抜け出した。きっと、ここまで他のランナーを風よけにしてスタミナを残していたのだろう。
しかし、亮斗や他のランナーも離されないように大きくペースを上げた。最後のデッドヒート。最後の一周を勢いよく駆ける。最初にペースを上げた三組の代表と、その後ろにつける亮斗。二人とも、残った体力で全力を尽くしている。勝負はこの二人に絞られた。
再び体育祭の実行委員が三年生によってきられたゴールテープを張りなおす、そして亮斗達がゴール手前のコーナーに差し掛かる。
近づくにつれてどんどんと大きくなる亮斗の姿。大きく外から迂回しようとしても、距離を離されないためになかなか膨らめない。もう、体力も限界を迎えているのだろう。険しい顔で大きく腕を振る。ただ、私の頭には朝に絶対勝つと言った亮斗の表情が浮かぶ。あの顔のまま、私に勝ったと伝えてほしい。再び大きく息を吸う。
「頑張れ、負けるな!」
一層大きくなる声にかき消されないように叫んだ。そして、亮斗がコーナーの半分に差し掛かったところで大きく膨らんだ。そして、そのまま無理な前傾姿勢を取ってさらにスピードを上げる。もう誰も対抗できず、危うい走り方ながらも亮斗の体が前に出た。
今にも転んでしまいそうなほどに傾いた体をなんとか足で支えている。
「いけ!」
私の声が届くその瞬間に、亮斗が胸からゴールテープに飛び込んだ。
そしてそのまま、なんとか体勢を立て直してゆっくりと歩き出す。私の周りでは勝利に湧く歓声が上がり、その瞬間に安堵したのか亮斗の足が止まって膝に手をついた。この距離では顔はよく見えないけれど、肩で息をしている。
私も立ち上がって、そして人込みをかき分けて最前列に飛び出し、そのまま亮斗のもとへと向かう。一年生は競技中だから近寄れはしないけれども、目の前まで行って、やっと顔をみることが出来た。
汗でぐっしょり濡れた顔が一瞬笑って、すぐに乱れた呼吸を整えるために俯いた。
「お疲れ様、おめでとう」
私がそんな声をかけると、 亮斗は顔を上げずに肩で呼吸をしたままこういった。
「一番でゴールしたぞ」
きっとこっちには見せていないだけで、笑っているんだろう。私はその亮斗の表情を想像すると、体はしんどいはずなのに顔だけは元気な不格好な亮斗が浮かんでなんだか面白かった。
「おめでとう」
「おう」
私はそのまま、クラスのみんなに合流するために走って戻った。
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