第10話

 忘れもしない、中学三年生の夏。

 あの日、僕と愛璃は恋人として会えた最後の日になった。


 中学生のうちで、ほとんど一年という長い長い期間。

 愛璃の希望でクラスのみんなや友達には知られたくないと、教室内で僕たちの関係はあくまで良い異性の友人であり続けた。中学生だから男女で仲良くしていると冷やかされることもあったけれども僕たちはけしてその冷やかしに対して認めることはしなかった。

「別に嫌だって言うんじゃないけど、なんだか恥ずかしくって」

 愛璃が言うのは、もっともだった。自分は仮に愛璃と交際していることが周りにわかってもそれほど大きな変化はないだろうけど、人気者の愛璃のことだからきっとそれをいじられたりするのだろう。嫌だと思うのなら、愛璃のその気持ちを尊重しようと思った。

「それより、勉強は大丈夫?」

 僕がそう言うと、彼女は心配ないというように頷く。付き合っても付き合っていなくても、交際を宣言してもしなくても僕たちが一緒に勉強する仲であることは変わらなかった。

 僕は好きな人である愛璃に頼られることが嬉しくて、より分かりやすく教えられるようにと授業に一層、真剣にとりくんだおかげで成績もあがった。愛璃も彼女なりに努力して、一年前に比べると成績は見違えるほど上がっていた。そのころには僕はなんとなくだけれども愛璃と同じ高校に進学して共に高校生活を過ごしたいと思っていた。それが僕の初恋であり、初めての恋人関係だった。

 中学生で考えるには早すぎるかもしれないけれども、結婚して一生を添い遂げたいなんて夢に見るようにもなっていた。しかし、それは幻想に終わる。


 終わりはある日突然、やってきた。

 僕はいつものように、愛璃と一緒に勉強をするために彼女の家に行った。いつも先に僕のうちまで迎えに来る愛璃だったけれどもその日は僕が彼女の家まで出向いた。その日が彼女の恋人関係が最後だとは知らずに。既に愛璃の親には紹介されていたから、素直に歓迎してもらえた。いつものように彼女の部屋に行って、勉強を教える。けれど、彼女はどこか上の空で、落ち着きがなかった。

 いつもなら解けているような問題も数分ほど悩んでいたし、僕の説明を聞いていてもふと窓の外を見たり布団のほうをよそ見するなどしていた。それがなにによるものかはわからなかった。しかし、僕が声をかけるとまた集中しだす。愛璃は勉強をするときにはしぅかりとスイッチをいれて集中するタイプだったからこの時の彼女が何を考えているのは何かわからなかった。

「なんだか集中できてないみたいだし、休憩しようか」

 僕がそう言うと、愛璃は申し訳なさそうに頷く。

「なんだか、来てもらったのにごめんね」

「ううん、気にしないで。それより、どうかしたの? いつもと様子が違うみたいだけど」

 僕が言うと、愛璃ははっとしたように顔をあげる。けれども彼女は何も言わなかった。僕の方から尋ねても黙ったままだった。彼女もまた僕に言いづらいことがあったのかもしれない。それならば無理に聞き出すこともないだろうと問い詰めることはしなかった。そのまま、休憩の時間を二人で何もせずに過ごす。どちらも離すこともなく、部屋にある漫画にも触れることはしない。いつもなら、二人して漫画を読んだり他愛のない話をしているのに。僕はなんだか落ち着かない気持ちで愛璃のことを見る。

「なに?」

 僕の視線に気が付いた愛璃は、体を隠すように手元にあるクッションを抱きかかえる。なんとなくその仕草が可愛らしくて僕は思わず笑ってしまった。そのおかげか知らないけれども沈黙がもたらしていた緊張はどこかに晴れて、愛璃も緊張がとけたようだった。いつものように、愛璃は笑顔をみせてくれた。それから、僕たちはまたいつものように過ごす。だけど、その日だけは何かがいつもと違っていて、僕も愛璃もどこかぎこちなかった。僕たちはいつものように振る舞って、互いに笑いあいながら互いのことを心の中で意識しあっていた。

 けれどもそんな時間ほど早く進むもの。気がつけば日も暮れ始めていて、帰る時間になっていた。

「そろそろ帰ろうかな。もうすぐ夕飯でしょ」

 先ほどトイレに行った時には、台所からご飯の良い匂いが漂ってきていた。そろそろ夕飯の支度が終わっている頃だろう。僕は勉強道具を片付けながら、愛璃に声をかける。しかし、いつもは玄関まで見送ろうと立ち上がるはずなのにその日の愛璃はそうはしなかった。足をぺたんと床につけたままで黙って下を向いている。どうかしたのだろうか。なにか、嫌なことがあったのだろうか。僕は愛璃に尋ねる。すると、彼女は首を振る。なんでもないということなのだろうけれども、そうは思えなかった。顔も赤いように見える。

「どうしたの、なにかあったのなら相談に乗るよ」

「ううん、そうじゃないの」

 彼女はそう言いながらも、何かを言いたそうだった。僕は彼女に言うように促すけれども、愛璃は首を横に振るばかりで口を開こうとしなかった。もちろん、僕が知らないところで愛璃には愛璃の人間関係があり、様々なことを考えているのはわかっているつもりだったけれどもそれを自分に話してくれないことは寂しかった。でも、この状態になったら僕にはどうしようもない。

「じゃあ、帰るよ」

 僕が諦めて、ドアノブに手を掛けたところで急に愛璃が立ち上がる音が背後から聞こえた。

 その音に反応して僕が振り返る前に、愛璃は僕の背中を抱きしめた。きつく縛る手が僕の胸を圧迫し、背中には愛璃の熱を感じる。緊張しているのか、愛璃からは心臓の音まで聞こえてきた。僕はそんな突然のことに頭が混乱していた。今まで愛璃と二人っきりでいて、彼女からこんなことをされたことがなかったからだ。突然のことに頭の中が真っ白になり、何をするべきなのかわからなかった。

 しかし、背中に触れる愛璃の温かさを感じれば感じるほど僕の思考回路は正常に機能しなくなっていった。心臓の音がどんどん激しくなる。これは一体どういうことなんだろうか。そんなことを考えながらも愛璃の方を振り向くことが僕にはできなかった。

 愛璃は、僕の肩に頭を預けて何も言葉を発さない。何か言わないといけない。そう思って口を開こうとしたときに、愛璃が先に口を開いた。

 僕の耳元で、かすれるような声でささやいたその言葉は今も忘れることができない。

「大好き」

 そして、その声が耳元から離れると同時に頬には愛璃の柔らかな唇の感触。彼女はすぐに僕から離れ、僕たちは改めて向き合う形になった。愛璃は黙ったままで、僕の心臓だけが早く動き続ける。先ほどまで外から聞こえていた音もすべて消えて、静かな時間が部屋の中をただ流れていた。僕は何を言おうかと必死に考えていたけれども、その時間はあまり長くはなかった。愛璃が先に口を開いたからだ。

愛璃は僕から離れて、言う。

「私ね、明日引っ越すの。だから今日が最後なの。ごめんね、こんなときに変なことを言って」

 愛璃はまるで何事もなかったかのように平然としていたけれども僕の心臓は激しく動き続けていたし頭の中も混乱し続けていた。そんな僕に彼女は続けて言う。

「またいつか会えるから、その時はまた仲良くしてね」

「そんな……」

 僕はその先の言葉が続かずに、黙って頷くことしかできなかった。何も言うことができないでいたし、何を言えばいいのかもわからなかったからだ。愛璃を気遣うほどの余裕もなければ、こういう時の想定もしていない。だから、愛璃の言った言葉が僕にとってはあまりにも重すぎて僕は頷くことしかできなかった。

 またいつか会えるから、その時はまた仲良くしてね。

 その言葉が頭の中で反響する。ぐわんぐわんと自分の脳を揺さぶり、体も水平を保てない。自分の心臓の鼓動すら聞こえず、愛璃がどんな顔でその言葉を言ったのかはわからなかった。ただ、愛璃がその時どんな気持ちでその言葉を口にしたのかだけは分かった。今にも泣きだしそうな顔をした愛璃。

 ぐっと服の端を掴んで涙をこらえるように力を込めている。それがどうしようもなく辛そうで、見ていられなかった。しかし、そんな僕以上に辛いのは愛璃なのだとすぐにわかった。それを理解した時には僕はその顔を見ないでいいように、涙をぬぐう代わりに愛璃の体を抱きしめていた。じんわりと肩口に愛璃の涙が染み込んでいく。愛璃は僕の服の裾を掴んで、声を押し殺しながら泣いていた。

 きっと、僕が抱き返したのは正解だった。そうすることで僕は愛璃に安らぎを与えられると信じて疑わなかった。愛璃が泣きやむまで、僕は愛璃の体をずっと抱きしめていた。抱きしめている愛璃の体が、鼻をすするたびに大きく揺れる。そんな彼女が愛おしくて、僕はいっそう強く抱きしめる。

 大丈夫だと言い聞かせるように。しばらく時間が経って、愛璃の体の揺れが止まり、彼女の泣きやんだことを感じた。僕は抱きしめていた手の力を緩めて愛璃の体から手を離す。愛璃は少しだけ後ろに下がって、目が合った。先ほどまで泣いていたせいか、目は充血して真っ赤になっていた。それを隠すように、愛璃は顔を伏せる。しかし、僕はその顔に手を伸ばして愛璃の顔を上向かせ、そのまま唇を重ねた。初めてのキス。

 愛璃の唇は、想像以上に柔らかかった。同じ人間なのだから唇の感触は同じはずだけれども、ずっと柔らかいものに触れているように感じる。柔らかい感触を何度も確かめながら、僕は初めて愛する人とした口づけに夢中になっていた。そのまま時間がとまってしまえばいいのにと思ったほどに心地よくて幸せで頭の中が真っ白になる。唇を重ねたままでいたいと強く思い、もっとずっとこのままでいたかった。自分の体ごと愛璃の体に沈んでいくように思えた。このまま、愛璃と一緒に溶けてしまうのもいいとさえ思えた。でも、終わりは来る。愛璃が僕の肩を叩く。僕はそれに従って彼女から唇を離した。

「はぁ……」

 唇が離れても、まだ僕たちは抱きしめあっていた。互いの呼吸の音すらも聞こえてきそうで息苦しいけれどもそれすらも愛おしくてたまらなかった。好きな人の体に触れるということがこんなにも幸せなのだと初めて知る。しばらくそうして抱き合っていると、僕の体からゆっくりと力が抜けていくような気がした。初めての口づけだったせいだろうか、緊張や興奮がほどけていく。

 愛璃の体を支えていられないくらいにぐったりとしてしまい、そのまま床に倒れそうになる。先ほどまでしていた勉強で得た知識はどこかへいってしまい、その快楽から頭の中で脳が溶けていく。思考も理性も何もかもがなくなって、ただ体が愛璃を求める。

 しかし、僕は床に倒れることはなかった。愛璃が僕を抱いて支えてくれていたからだ。

「愛璃」

 愛しくなって、ただ名前を呼ぶ。それがいけなかった。

 愛璃の体が、先ほどよりも大きく跳ねた。彼女の腕が僕の首に回されて、強く引き寄せられる。そして再び唇が重なりあうと、今度は愛璃の舌が口の隙間から伸びてきた。驚いて思わず口を離してしまうと、彼女は続けて言う。

「もっとしてよ、私の事が好きなんでしょ」

 その瞬間だった。僕が必死に保っていた理性は完全に崩れ去り、ただ目の前にいる女の子を愛したいとしか考えられなくなってしまったのだ。僕はもう一度、彼女の唇に自分の唇を重ねるとそのまま彼女を床に押し倒した。そして、彼女の首筋を舐め、舌を這わせる。愛璃はそんな僕の頭を抱きしめるようにして押さえ込み、先ほどよりも激しく唇を求めた。互いに舌をからめ合い、求めあうような口づけをしながら服の中に手を入れる。愛璃の胸は柔らかくて、ずっと触れていたいほど気持ちがよかった。体が熱い。頭の中が焼けるように熱くて、何も考えられない。ただ目の前にいる愛璃のことだけしか考えられなかった。もっと欲しい。もっと彼女と一つになりたいと願いながら、僕は愛璃を求めていた。

 そして僕たちはそのまま一線を越えてしまっていた。


 それを終えた時には、空は暗くなっていた。隣にいる愛璃は僕の肩に頭を預けてすやすやと寝息を立てている。そして、僕の右手は愛璃の手を握っていた。愛璃は僕にすべてをさらけ出し、僕もまた彼女を求め続けた。でも、それが何かを解決するわけではなかった。愛璃が眠ってしまったせいか一人になった部屋で、愛璃がいない自分の生活について考える。

 今まで通り、僕は学校に通って勉強をし、休み時間に友達と話をする。そこに愛璃はいない。そんな生活が僕には待っているのだ。それを考えただけで心臓が締め付けられるように痛んだけれども、きっとこれは仕方のないことなのだと思い込むしかなかった。ただ、その想像の中に色はなく、灰色で、味気なく、僕の心を蝕んでいく。隣にいる愛璃の頬に手を伸ばすと、暖かな空気が指先に触れた。その空気に触れて、少しだけ寂しさが紛れる。

 きっと、僕はこれから愛璃を思いながら生きていくのだと思う。他に好きな人ができることもないし、結婚することもないのだろう。だから、これから先の僕の中に愛璃以外の誰かが入り込むことはないのだろうと思う。それはつまり、この灰色のような世界の中で生きていくということだとわかったけれども、それを受け入れるしかなかった。その時にはそう思っていた。中学生ながら自分は単純で、この先の人生を愛璃の隣で生きていたいと思えるほどにまで、彼女を愛していた。

 その愛が、いつまで続くかなんてことは考えもしなかったのだ。純粋に、永遠のものだと錯覚していた。

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