第9話

「先生、家庭訪問の順番を纏めておきました」

「ああ、ありがとうございます」

 この辺りの地理にまだ不慣れな僕は、どの家が近いかなどの情報は森下先生のほうがよくわかっているからと事前に保護者に向けて空いている時間を調査したものと同時に渡しておいた。半日の授業をしてから四十人もいる生徒の家を回らないといけないからこの期間中はなかなか大変だ。さらっと森下先生のメモを見ると、やはりこの名前が目についた。

「春川さんは、最終日の最後の時間帯ですか」

 表を見ると、最終日の金曜。十八時から春川家と書かれてあった。保護者会の日以来、もちろん会っていなかった愛璃との再会。どうしても意識をしてしまう部分はあった。もちろん過去のものとして感情はなく、ただの保護者であるのだが、中学時代の同級生で元恋人だから全く他の人と同様に扱うのは難しい。ただ、だからといって僕が何か特別な対応をすべきものでもないし、何もするつもりもなかった。あくまでこれは仕事だ。それに、家庭訪問と言っても春川理穂に関してはこれまで叱ったこともなければ彼女自身にも特に何か問題を抱えているような様子はない。

 あくまで形式上の訪問になるだろう。

「やっぱり、元同級生の家に家庭訪問するのは変な感じがします?」

 森下先生もやっぱり気になるのだろう。春川や他の生徒みたいにわざわざその話をすることはしてこないけれども、春川の名前が会話であがるたびに何かを聞きたそうにしているのはよくわかる。ただ、僕はそれを無視している。だって、どうしようもない。別に森下先生になら話しても問題はないと思うけれども僕自身がそれを話したいとは思っていなかった。彼女は、何も言わない僕の様子を見て勝手に勘違いをしたのだろう。ちょっと申し訳なさそうに俯くとそれ以上は何も言ってこなかった。

「まあ、そりゃ珍しいことですからね。ただ、私情は切り捨ててやらないといけないですから頑張ります。それより、森下先生のことを斎藤先生が探していましたよ」

「え、本当ですか。ありがとうございます、それでは!」

 森下先生は足早に職員室を出ていった。おそらく斎藤先生のところへ向かったのだろう。この学校に赴任してまだ日が浅いとはいえ、僕の対応もなかなか板についてきたようだ。


 春川の家につくと、スーツのボタンをしっかりと留めているか確認からインターホンを押す。 この家のインターホンはカメラ付きだったから誰が来たのかすぐにわかるようだ。

 愛璃に自分のことを向こうからだけ見られていると、なんだか少し緊張した。

「あ、いらっしゃい。わざわざお疲れ様」

 家庭訪問期間の最終日、僕が家を訪れると愛璃は笑顔で歓迎してくれた。しかし、僕が玄関で立ち止まっていると困惑した表情を浮かべる。

「どうしたの、あがってよ」

「いや、家庭訪問だから玄関で大丈夫です。お気遣いなく」

 そう言うと、愛璃はクスッと笑った。

「いいのよそういうのは。真面目だなあ。せっかく最後なんだからあがってよ」

 そういわれて手を引かれると、思っていたよりも力が強くて玄関から中に引きずり込まれる。こうなると聞かないのは昔からだったから僕は仕方なく身を任せて靴を脱いで家にあがる。。ただ、しっかりと並べないとどうも気持ちが悪い。

 リビングには、大きめのソファとローテーブルが置かれている。きちんと片付いていているけれどもやっぱり落ち着かない。とりあえず、座る場所がないからとダイニングチェアに座ろうとすると愛璃が僕の肩をつかんだ。そのまま、ソファへと連れていかれて無理やり座らされる。

「もしかして、わざわざ最後の時間を指定しました?」

 僕が思い当たった可能性を口にする。愛璃は仕事をしていないことは春川との話で出てきていた。いろいろと主婦にも都合があるのはわかるけど、一週間の全てで十分程度の時間が、金曜日の十八時以降にしかとれないというのも珍しい。

 そう言うと、愛璃は首をかしげながら言った。

「さあ、たまたまじゃない?」 

 そして、その隣にさすがに常識的な距離を持って愛璃は腰かけた。彼女の重みでソファが沈んで、一瞬だけ太ももとソファに間が生まれる。目の前のローテーブルには同じ形で色違いのカップが並べられる。すっと透き通る匂いが心地よかった。

「すみません、わざわざ。いただきます」

「そんな敬語なんて使わなくていいのに。どうぞ、召し上がれ」

 インスタントの紅茶を一口飲む。鼻に抜けていく香りが心地いい。ただ、隣に座っている愛璃は笑顔で僕を見てくるから少しだけ飲みづらい。そして、カップを置いてから僕はカバンを開いた。

 基本的には授業態度や学校での生活、さらには学業について話すために中間テストの成績がまとめられたものを全家庭に渡して何か不安な点はないか、具体的に何を目指しているなどの進路選択の指針はあるのかなどを保護者と担任で詰めるためだと思っている。

 今の子はみんな良くも悪くも賢いから、基本的に何か明確に問題があることは少ない。いや、実際に生徒たちは何かいろいろと考えて悩んでその中で成長しているんだろうけれども、それを思春期に入り始めた段階で教師や親に相談してくれることは少ない。それは、自分に照らし合わせても同じだ。

 だからこそ、こうして親と教師が直接話してなんとか深刻な問題があればその解決に繋がるようなことがないかを探すべきなのだが、なかなか難しい。

「これは、中間テストの成績と事前に生徒たちに調査した学校生活に対するアンケートです。成績も全体的に苦手な科目があるわけでもなく、アンケートでも特に学校生活に明確な不満があるようでもないですので、理穂さんは楽しく過ごせているそうです」

 愛璃は僕の渡した二枚のプリントをちらりと見てから、僕の目を見ていった。

「先生から見て、理穂はどうですか? 楽しそうに過ごせていますか?」

 その敬語が、あえて使ったものだというのは僕にもわかる。

「ええ、友達も多くクラスでの行事にも積極的に参加しており理想的な学生生活だと思います。僕たち教師とも積極的にコミュニケーションを取ってくれていますが、特に問題があるようには見えません」

 僕がそう言うと、愛璃は満面の笑みを浮かべた。この笑顔だけで、僕を疑うことなく信用しているのがよくわかった。自分のことを信頼してくれているのは嬉しいけれども、愛璃はどうも人を信じすぎる節があるから、プレッシャーも感じてしまう。

 良く言えば人に合わせることができるけど、悪く言えば人に任せきってしまう。

「それなら良かった。理穂も先生の事はどうやら気に入っているみたいでテストの勉強も頑張っていたし、夕飯の時にもよく話してくれるの。まあ、昔の恋人だからまだ好きな気持ちが残っているとかあの純粋な子なら本気で信じていそうだけど」

「そうですね。今回の特に数学や社会の範囲はなかなか印象に残りづらくて点数を下げる生徒が多かったんですけど理穂さんはよく頑張ったと思います」

 あえて愛璃の伝えたがっている後半の文章を無視して、僕は素直に思ったことを伝えた。

 その答えに満足したのか、愛璃はカップをゆっくりと口に運んでいく。正直に言うと、これ以上にこちらから話すことはないから玄関先で済ませていいのだ。この後に予定がないにしても、なにも愛璃に思うところがないのであれば早く帰りたいという気持ちはある。

 しかし、愛璃はまだ僕を帰そうとしない。もじもじと何か話したそうにしている。

 こうしていてもきりがないし、昔のよしみで何か話したいことがあるなら聞こうと思った。教師としてここに来たわけだけれども、今くらいは昔の友人に戻って話を聞こうと気持ちを切り替えてから、僕は問いかける。

「何か話したいことがあるんだろう? なんでもいいから話だけなら聞くよ」

 そう言うと、愛璃は嬉しいような恥ずかしいような複雑な表情を浮かべて手を組んだ。 

 そして、一言だけ言った。

「夫が浮気してるの」

「は?」

 あまりに突拍子もなくて、僕はただそう返すことしかできなかった。

 しかし、愛璃の顔はいつの間にか深刻になっている。言葉よりもなによりも表情というものは饒舌だ。ただ、いきなりそんな単語が出てきても僕にどうしろというのだろう。正直、そんなに重い話をできるほど人生を経験していない。

 教師という立場から真面目や賢い印象を受けて頼ってくる人は多いけれども、結局は生まれてから家と学校以外の世界を知らないただの人間だ。

「ごめんね、こんなことを言っても困らせるだけなのに」

 僕は、とりあえず言葉を選ぼうと思った。ただ、何を言っても正解にはならないような気がして少し恐ろしかった。ただ、黙っているわけにもいかない。

 しばらく考えたけれど、結局思いついた言葉はこれしかなかった。

「それは、辛かったね」

 僕にはこれしか言う言葉が見つからなかった。優しくなでるだけで根本を解決してはいない、ただ愛璃がこの件を解決しようとしているのかもわからない以上は部外者である自分が踏み込むべきじゃないと思った。愛璃は、ゆっくりと頷いた。

 僕は、隣でじっとしていることしか出来なかった。沈黙の時間が流れてそれが重さとなってどんどんと背中や足に圧し掛かってくる。ソファーがより重く沈んでいくような気がした。やがて、愛璃が小さな声で呟いた。

「ねえ、私。どうすればいいんだろう」

 すがるような目で見られても、そもそも僕は愛璃が結婚した相手の事すら知らない。それに、事情を聞いたところで僕がどうこうできる問題でもない。もちろん、愛璃のことをなんとかしてあげたいという気持ちはあるけれども。

 離婚はできるだけ避けるべきという考えは世間的に薄れ、それぞれの幸せが優先される中でも僕はどうしてもそれを勧める気にはならなかった。

 教師としてというか、僕はやっぱりそれが二人の娘である理穂。思春期でいろいろと考える時期に、あの純粋な子が父親の浮気や離婚に心を痛めてしまわないかが心配だった。この時に、僕はやっぱりもう初恋などこれっぽっちも心に残っていないことが分かった。

 だからこそ、こうして目の前で涙を流した彼女を見ていても可哀そうとは思ったけれどもどこかスクリーンの中を見ているみたいで情はわかない。あの頃はあんなに愛して、大事に思っていたはずなのにその気持ちは忘れてしまった。

「とにかく、色々な感情があるだろうけれども自分自身の事、そして理穂さんのことをしっかりと考えてほしい。僕は何もできないけれども、できる限りは理穂さんの気持ちをケアするように尽くすから、どんな判断でも尊重する」

 僕は、ゆっくりと子供に聞かせるようにそう言った。 ぼろぼろと涙が溢れて、粒となって彼女の履いているロングスカートの上に落ちる。テーブルの上にあったティッシュの箱をずらして彼女の近くに置くと、静かに黙って外を見つめていた。

 静かな時間が流れる。それを打ち破ったのは、ドアの開く音だった。

「ただいま~」

 理穂の声が玄関からしたとたんに、愛璃は立ち上がって服の袖で涙を拭ってキッチンの方へと戻っていった。僕もカバンに中間テストの成績表などの書類をしまって帰る用意をする。ただ、愛璃が自分の気持ちを、泣きたいという気持ちを押し殺して理穂に心配を掛けないようにとしている姿を見て、なんだか安心した。

 彼女なら、きっと大丈夫だろう。

「あれ、先生。そっか、家庭訪問だ」

「こんばんは。お邪魔してます」

 僕が軽くソファーから腰をあげて頭をさげると、春川も少しだけ頭を下げた。

「せっかくだから一緒に晩御飯を食べようよ。ねえいいでしょお母さん」

 跳ねるように素直に喜ぶ理穂とは対照的に愛璃は沈んでいながらも不安に感じさせないように作り上げた明るい声で、少しだけ嗜めるように言う。母の笑顔だった。

「先生も帰らないと小さい娘さんもいるんだから。困らせるような事言わないの」

「はぁい」

 僕はその言葉に従って、玄関の方へと向かう。

「じゃあ、また学校で。お邪魔しました」

 そう言われた理穂は、いつもと同じ笑みを浮かべて僕に手を振った。

「じゃあね、先生。また学校でね」

 それから家庭のことについて理穂から聞くことはなく、また愛璃に会うこともなく二週間もの時間が流れて体育祭の時期になった。普通に過ごしていると生徒の保護者と会うことはほとんどない。

 心のどこかで心配はしていたけれどもその事実を知っているかもわからない春川に様子を聞くのはおかしい気がしたし、僕がそれを知ってどうするのかという部分もあった。体育祭で会えれば、少し話を聞こうという気持ちはあった。

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