第8話

 あの日、具体的に言うなら僕と愛璃が過去に交際していたことが生徒たちに知られてから、毎回のように授業終わりには女子生徒たちに絡まれるのだが、その中でも春川だけはいつもと変わらない様子で僕の授業を受けていた。

 だが、それでも春川は僕を避けているように感じるし、僕が他の女子生徒と話をしていてもなんとなく距離を置かれているような気がする。いつも元気に挨拶をしてくれていたのだが、何となくよそよそしくなっていた。

 自分が思い込んでいるだけと言われるとそんな気がしないでもないけれども。

 正直、僕は春川の考えていることがわからない。まさかこんなことで思春期の学生を悩ませるとは思っていなかったし、それは僕にとっても愛璃にとっても不本意なことだろう。早急に解決したいとは思っていたけれどもこんなことを誰に相談していいのかもわからずにぼんやりと過ごしていた。


 そんなある日のことだった。

 夜の帳が降りて、体にはもう六月だというのに夜風が冷たく刺さる。

 吐き出した煙草の煙が揺蕩い、やがてマンションの玄関にある生垣に吸われて消えていった。肺の底に落ちたメビウスの煙は、重く沈んで体をじんわりと混乱させていく。眠る前に吸う煙草は、頭を微睡ませて嫌なことをすべて忘れさせてくれるから大学生の頃から癖になっていた。

 この煙草を眠る前に吸う癖が嫌で、自分から離れた女性がいると聞いたことがあるけれども、たぶんその子よりも煙草を優先していただろうと思う。悲しいかな、僕はもうこのメビウスが無ければ生きていけない体に成ってしまった。

「はぁ」

 本当なら、子供のために吸うのをやめるべきなんだろうけれども、こうして一人で煙草を吸っているときはいつも、子供と妻の写真を見ているだけで家族思いといわれることへの違和感だけが残っている。

 マンションのオートロックが開く音がした。大学生も住んでいるから、この時間に誰かが出てくることは珍しくない。自分も、二十年ほど前ならこの時間でも遊びに行けるほど体力が有り余って仕方がなかった。朝から晩まで家に帰らずに勉強したり、遊びに行ったり、ずっと友達と過ごしていた。教員免許の勉強はしんどかったけれども勉強の後に飲む安いコンビニのお酒は自分が教師になるという夢を叶えた先を見せてくれた。

 そんなことを回想しながら力を抜いてだらんと頭を垂れていると、その上から自分の名前を呼ぶ声がした。その声は、間違いなくこの時間に聞くべきではないものだった。

 聞きなれた、子供っぽい声。

「あれ、浅野先生?」

 僕はその声に気が付くと、すぐにまだ半分ほど長さが残っていた煙草を地面に落としてアスファルトに靴で擦りつける。火種がアスファルトのひび割れた隙間に残ったけれども、煙はすぐに消えた。風が吹くたびに、わずかにそれは小さくなり火花が少しだけ空中に散る。

「あれ、ポイ捨ては良くないんじゃないですか? 先生?」

 こういうところは親子なのだろう。中学時代、告白する前の愛璃みたいに春川は顔を同じような角度で覗き込んでくる。そして、にやにやとしながら言った。

「教え子に副流煙を吸わせないよりは、僕の中で重要ではないよ。ただ、あまり行儀が良くないからしないようにね」

 完全に火が消えたところで、その吸殻を拾って携帯灰皿に押し込む。内側の銀色に自分の肌色が反射している。自分の中でルールとして決めていることだ。下手にしか生きられない自分は、思考に制限をかけたほうが良いからそうしている。

「真面目だなあ、先生は」

 その少女、春川理穂は薄く笑った。ピンク色の中学生らしいパジャマ、その上に薄いグレーのパーカーを羽織っている。足元だけ靴下も履かずにサンダルを裸足でそのまま履いているから寒そうだった。

 化粧をしていないのは中学生だから当たり前だけど、制服以外の姿を見るのは新鮮だった。髪をストレートにおろしている姿は、まさに中学生の時の愛璃そのものだった。しかし、お風呂に入った後だからかどこかぼんやりとしている。その雰囲気が、どこか浮世離れして見えた。

「何をしてるんだ、もう中学生は寝る時間だぞ」

 携帯電話の液晶に映る四つの数字は、既に睡眠のゴールデンタイムと呼ばれる時間に入っている。今どきの子は家の中でも娯楽が多すぎて眠るのはもったいないのだろうけど、教師としてはできるだけ健康な体を維持するために早く眠ってほしい。そういう注意だけは、素直に口から出てくる。いろいろとこの少女に対して考えていたことがあったはずなのに、それが頭をよぎる間もなく。

 しかし、逆にそのことが良かったのかもしれない。変に焦ることなく自然な、僕自身の口から生まれた言葉がすっと夜の空気を割って出てきた。

「う~ん、なんだか眠れなくて。だからちょっとランニングしようかなって。先生の家ってこんなに中学校から近かったんだね」

 春川は、いたずらでした落書きが見つかった子供のように照れくさそうな、それでいてバツが悪い顔をする。僕から目をそらして下を向いて、ぽりぽりとほっぺたを書くその仕草はまるで漫画の中にいる女の子をそのままコピーしてきたみたいだ。

「部活にも熱心なのは感心だけど、今はしっかりと眠ったほうが体にいいはずだぞ」

 無邪気というか、純粋というか。心を壺に例えたら、その中には純水が溜まっていて壺自体にも汚れ一つもないような。自分も教師としてそうありたいと思ってはいるけれども、これだけはどうしても真似ができそうにない。誰にだって何かしら隠したい過去や、消したい記憶というものはある。もちろん、それは僕にもあった。

「でも、先生も眠れないから出てきたんでしょう?」

「違う。僕は眠る前に煙草を二本、吸い切ってから眠るのが癖になっているだけだから、もう寝るよ。じゃあ、送るから早く家に戻ろう」

 僕がそう言って去ろうとすると、春川は意地悪な笑みを浮かべた。あまりにも蠱惑的なそれを、僕は直視しないようにした。頭がぼんやりとした状態だと、変にあの頃の愛璃と重ねてしまって感傷的になってしまう。煙草の悪いところだ。

「じゃあ、まだ二本は吸い切ってないね。ほら、いいよ。私は別に副流煙とか気にしないから。どうぞどうぞ」

 春川は手をこちらに向けて促す。確かにそれはそうだ。吸い切ってはいない。ただ、世間的にも喫煙者はかなり肩身は狭いし、自分自身の感覚でもこの純粋な少女を煙草の煙で汚したくはない。だから、僕は首を横に振ってそのまま春川の家まで送ろうと歩き出した。

「待ってください!」

 しかし、そうはさせてくれない。理穂は、背中を向けた僕の手を摑まえる。

「君が気にしなくても僕が気にするんだ。ほら、もう帰ろう。早く寝ないと、遅刻して怒られても知らないぞ。明日の門番は生徒指導部だから」

「もしもそう怒られたら、浅野先生に寝かせてもらえませんでした~って言うからね。でも、今帰っても眠れないんですよ。最近、なんだか寝つきが悪くて」

 僕は別に面倒だとは思っていないけれども溜息をついた。ここから、どうやって説得をしていこうか。ただ、理穂の視線ははっきりと僕がポケットにしまって隆起している煙草のケースにあるらしく、どうやらそれなしでは解決できそうにない。

「あの、煙草ってどんな味がするんですか?」

 僕がケースに触ろうとするだけで目を丸くして興味津々でこちらの手元を見てくる。

「そんなもの中学生が知ることじゃないよ。大人になってから一本だけ、吸ってみればいい。きっと、口に合わないとわかってすぐに辞められるだろうから」

 なんでもそうだ。この子たちにとって六年という時間は考えつかないほどに長いものだけれども、僕から見ればわずかな時間でしかない。煙草を吸うようになれば、この子たちもそれには気が付くだろう。煙草のダメなところは、こういうときに変にドラマチックな所だ。

 体に悪いものは美しい。お酒だって薬だって、煙草だって、夜更かしだって。

「まあ、そうだよね。さすがに先生は煙草を吸わせてはくれないですよね」

「当たり前だ。煙草は、君みたいな学生が吸っていいものじゃない」

 僕はそう言うと、胸ポケットからメビウスの箱を取り出す。中から一本取り出して、口にくわえてライターで火を点ける。カチッという音がしてライターから炎が生まれる。風が強く吹いて少しだけ揺れた。

 煙草の先の炎と、春川の透き通るような肌が視線上で重なる。くゆらせた紫煙は緩やかに揺れながら夜へと伸びていく。それを、春川ができるだけ吸い込まないようにと思い切り空に向かって息で吹き飛ばした。春川が、それを見て少し笑った。

「やっぱり、真面目だ」

「真面目なくらいしか取り柄がないんだ。だから、それでいいんだよ」

 僕はそう言って、また大きく煙を吸い込む。メビウスは煙草の中では一番好きだけれども、やはり喉が少しだけ痒くなる。でも、煙が体の中に沈んでいく感覚は好きだ。

 そのまま、静寂が二人の間に流れる。目の前を通ったはずの車、その走行音は実際の距離よりも離れているように聞こえた。何か話そうと思ったけれども、口を開こうとした瞬間に春川の唇が動いた。

「なんだかいいね、こういうのも」

 そのまま、僕らは黙って空を見上げている。ちょうど角度の問題でマンションが邪魔をして星は空には見えなかった。適当なタイミングで僕は煙草を携帯灰皿に押し込んで炎を消す。このとき、春川は残念そうな顔はしていなかった。

 そのあとも、特に何かあるわけではなかった。春川は僕の隣に立って、マンションの玄関を見るわけでもなくただ空を見るだけだった。会話はなかったけれども、不思議と居心地が悪いとは感じなかった。むしろ、安らぎを感じるくらいだ。

 こんな感覚は久しぶりだと思う。教師としては早くこの子を帰らせるべきなのに。

「お母さんから先生の話を聞いていたんだけど」

 そちらを向いていなかったからわからなかったけど、春川が話始めた。

「なんだか先生ってモテそうだよね」

「まあ、収入はいいし公務員ていう部分はあるからな」

 僕がそう言うと、春川は苦笑していた。

「そう意味じゃないんだけどなあ」

 そう言った瞬間に僕の住むマンションのエントランスの時計が十一時を知らせた。その方向を向いた途端に、背中に真ん中から大きな衝撃が走る。驚いて後ろを振り向くと、そこには器用に走りながらもこちらを向く少女がいた。

「じゃあね、先生! おやすみなさい」

 敬語を使いなさいだとか、先生を叩くんじゃないとかいろいろと言いたいことはあったけれども、僕はこの言葉だけにとどめておいた。どうせ、この古びた体じゃ追いつけない。

「おやすみ」

 その日、愛璃が依頼した探偵が夫の浮気を報告しに家に来ていたこと、それを春川も見てしまったことを知るのは、ずいぶんと後になってからの事だった。

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