第6話

「コンビニ行ってきます!」

 夕食をお母さんと二人で食べてから、なんだか無性にアイスが食べたくなったからお金をもらって外に出かけることにした。部屋着の上にパーカーだけ羽織ってほとんどそのまま外に出る。じわじわと暑さが強まってきてそろそろ夏が来るのを感じさせてくる季節だった。少し駆け足で、コンビニまでのわずかな道を走り抜ける。

「ありがとうございました~」

 そのままお母さんから頼まれた分までアイスを買ってから、炭酸の抜けるような挨拶を背にコンビニを後にすると、ちょうど目の前から誰かが自転車に乗ってこちらに向かってくる。私に気づいて爽やかな笑顔で挨拶をしてくれたその人は、浅野先生だった。ただ、笑顔の中には少しだけ苦い顔もあった。

 たぶん、お母さんの事を思い出したからだと思う。お母さんはまあ楽しいだけで済むだろうけど、先生からすれば複雑なんだろう。先生のことだから私がなにか気にしていないか、みんなにその事実をいじられたりしていないか心配してくれているのだろうか。

 先生は真面目過ぎて、少し生きづらそうにも見える。

「こんばんは!」

「こんばんは。元気は良いけど、もう夜の八時前だぞ。早く帰って勉強しなさい」

「はいは~い」

 私に挨拶するときにも、わざわざ自転車から降りて目線を合わせて話してくれる。お母さんの言う真面目の意味がより深くわかった気がした。たぶん荷物からして学校からの帰りに奥さんから頼まれていた買い物を済ませていたのだろう。

「家は近くなのか、ついでだから送っていくよ。最近、不審者が出たらしいからな」

 そういえば、生徒指導の先生がそんな話をしていた気がする。カラカラと音を立てる年季の入ったママチャリを押しながら、先生は私の隣を歩いていた。その真面目な横顔は確かに恰好が良いんだけど、それと同時にどこかからかってみたくなる。

 お母さんも人のことをからかうのが好きだから、昔はこうしていたんだろう。

「ねえ先生。お母さんから聞いたんですけど、テニスコートで告白したんですか?」

 ちょうど水筒で水を飲んでいた先生は、喉の奥でせき込む。普段は真面目な先生が声にならないように咳込んでいるのは少し面白い。先生は、水筒から口を外して濡れた口元をポケットから取り出したハンカチで拭う。そして、溜息をつきながら話してくれた。

「そうだよ。別に春川のお母さんの口からそれについてきくことは構わないけど、聞いたことを僕に言わないでくれるかな。なんて返せばいいのかわからない」

「でも、先生が言ったんですよね。告白されたって聞きましたよ」

 私がしつこく言うと先生はもう一度溜息をついた。もしかして、先生は本気で嫌がっているのかもしれない。それなら申し訳ないことをしてしまった。

 少し落ち込んでいると、先生は横目で私を一瞥する。その視線がどこか柔らかくて優しくて安心するものだったから、なんだか少しドキッとした。横から見える眼鏡のテンプル、その先に見える鋭い目。それらが呆れるような表情をして柔らかくなっただけなのに、どうしてこんなにドキッとしてしまったんだろう。

 頭を掻きながら、先生は恥ずかしそうに言った。

「まあ、そうだよ。ただ、もうかなり昔の話だからな。春川もいつかこの恥ずかしさがわかるよ」

 そこで一度会話は途切れた。私の隣を歩く先生は、溜息をつきながら何かを思い出すように空を見上げる。私もなんだか先生の見ていた景色を見てみたくなってしまった。

 恋は、愛とはどんなものなんだろう。先生がお母さんを、お母さんが先生を愛したのと同じように自分にも愛をくれる人がいるんだろうか。これまで出会ってきた同級生の中に、そんな人がいたのか。それとも、これから先に出会う人の中にいるのか。

「いいな、私も恋愛したい。女の人は愛してもらえるのが幸せって言うじゃないですか」

 私がいきなり突拍子もないことを言ったからか、先生はくすりと笑ってくれた。

「ずいぶん前時代的な考えな気もするけど、でもそれも幸せのひとつの答えではあるんじゃないかな。結局、誰かに愛されていなければ幸せを本気で共有できる相手もいないだろうから」

 しばらく自転車を押しながら歩くと、見慣れた景色が目に入る。このまま進めば私の家だけど、もう少し先生と話していたかった。

 いや、話がはずんでいるわけじゃないけれどもなんていうんだろう、気を使わなくて済む。一緒にいると落ち着くというか、別に無言でも苦に感じない。私は昔から気を使ってしまうところからつまらないことで気が滅入ってしまったり、無言を嫌って無理に話してより変な空気にしてしまうことがあった。なのに、先生にはそれを感じない。

 先生も、無理に話をしようとしている風ではなくて、思いついた言葉を口からシャボン玉みたいに放り出して、ふわふわと浮いている。それに向かって私が返事のシャボン玉を飛ばして、たまたまそれがぶつかって会話になっているみたいですごく楽だった。だから、もう少しこのまま歩いていたかった。

「じゃ、先生が私に恋を教えてくださいよ」

 冗談で言ったつもりなのに、先生の方を見るとなんだか緊張していた。そのせいで漂った空気を先生と居て初めて居心地の悪さを感じた。こういう冗談は、お互いが冗談だと思っているから笑えるのであって、片方が本気にしてしまうとこっちまで恥ずかしくなってしまう。先生のことだから生徒に手を出すとはまあ考えられないだろうけど。

「なにを言ってるんだ。そういう冗談はやめなさい」

「……あ、もしかしてお母さんのことを思い出したんですか」

 どうやらビンゴだったらしく、先生は下を向いて首の後ろにある筋を掻いた。

「そういえば、春川の家はどこなんだ? 住所とかは聞いているけれども、引っ越してきたばかりだからあんまり詳しくないんだ」

「もうすぐですよ。あそこに見えるマンションです」

 明らかに話題を変えたことを、私はつっこもうとは思わなかった。自分の家を指さして言うと、先生はそっちに視線をやる。出てきた時にはついていなかった向かいの家のランプが灯っている。それが見えると、なんとなく先生との時間が終わってしまうような気持ちになった。誘蛾灯の周りにも虫が目立ち始めた四月の末、中学生の自分にとってはまだ日が沈むのが早い。それでも、安全のためにと先生が付き添ってくれたのもこの暗さのおかげだ。そう思って、私は素直に帰ることにした。

「そ、そうか。じゃあまた明日」

「明日? 明日は土曜日ですよ?」

 私がそう言うと、先生は話題から視線を逸らすように腕時計を確認した。そして、何度か時計と私を交互に見た後、少し気まずそうに頭を搔いた。

「そ、そうだね。じゃあ、また来週」

「はい、また来週」

 私が手を振ると、先生も小さく、優しく手を振り返してくれた。

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