第5話
「ねえねえ、ここがわかんないんだけど」
「ああ、そこはね」
そうして、僕は愛璃に勉強を教えることになった。なかなか愛璃は勉強が苦手だったから大変だったけれども、僕はそれが嫌ではなかった。それはテストが終わるまでしばらく続くことになる。愛璃の方も僕に聞くことで理解が深まっていくことを実感したのか何度も質問をしてきたりして楽しそうだった。
「えへへ、浅野君のおかげでいい点がとれたよ」
テストが返却された月曜日の放課後、真面目に教室で勉強していた僕の下に愛璃が表れた。テストの模範解答と自分の間違いを見直して下を向いていたところに、テニスラケットのガット部分でポンと叩かれた。しかし、それはたぶん愛璃が思っていたよりもよっぽど衝撃的で僕は勢いそのままに机に鼻の先を打ち付ける。痛い。
「あ~、ごめんごめん。そんなに強くしたつもりはなかったんだけど」
僕は顔を上げて少し文句を言おうとしたけれども、悪戯っぽい笑みと体操服、背中に回した手に掴んだテニスラケットを照らす夕日。その光景が美しすぎて何かを言う気は起きなかった。そして、愛璃は笑いながら肩にさげたカバンからテスト用紙を取り出す。
「じゃ~ん、どう? 褒めてもいいよ」
愛璃が最も苦手にしていた数学のテスト用紙。その右上には七十八点という点数が赤いペンで書かれている。僕は驚きのあまり、立ち上がってしまった。普段から自分は静かだと思っていたから、人生でこんなことがあるなんて信じられなかった。
「すごい」
褒めるも何も、これだけ点がとれるようになったのは愛璃自身の努力の成果だ。僕が教えたのなんてあくまで基礎の範囲だけで、今回のテストでは応用問題もいくつか出題されていた。きっと、僕との勉強会以外にも自分で努力したんだろう。それがわかるほど、愛璃の笑顔は堂々としていた。
「おめでとう、赤城さんが頑張った成果だよ」
僕は言われたとおりに素直に褒めると、愛璃は少しびっくりした顔をしてから、嬉しそうに笑った。はっきりとした顔に、さらに深く笑顔が刻まれる。
「ま、まあ浅野君が教えてくれたおかげかな。ありがとう」
そういうところを見ると、やっぱりこの子は素直で可愛いなと思う。実直で頑張り屋で、それでもこうしてふざけるような愛嬌もあって。だからこそ、きっとこの子はクラスのみんなに愛される存在なんだろう。 それを感じると同時に、強く自分のものにしたいと感じた。
まさにクラスの中心的な存在で、明るくて優しくて、運動もできる。男子からは憧れの的で、女子からも人気があって、きっとみんなから好かれるようなそんな子。それを自分だけが愛して自分だけが彼女の特別でいたいという強い独占欲のようなものが芽生えたのを自覚する。しかし、それはどうやら自分が自覚できたよりもよっぽど大きかったようで、その思いが膨れ上がって僕は思わず愛璃の手を握っていた。何も考えずに、自分の体が先に動くなんてことは初めてだった。
「な、なに。どうしたの?」
愛璃は目の前で怯えていた。中学生にもなると明らかに男女で体格の差が現れ、僕のほうが腕力も強い。きっと、怖さを感じても無理はない。ただ、僕はそれでもその手を離しはしなかった。
「え?」
しかし、衝動のままに動いてしまったせいか次の言葉が出てこない。このまま勢いで告白してしまおうと思うけれども、その言葉や作法なんかも知らない。そもそも、恋というものをしらなかった自分にはそれが好きという感情なのかもわからずに行動だけが先に来ていた。
僕は漫画やドラマみたいに、繋いだままの手を引いて抱き寄せるなんて勇気は持ち合わせていないし、好きかどうかもわからない相手にただの自分に潜む欲を満たすためだけにそういう不誠実なことはしたくなかった。そうこうしているうちに愛璃が手を振りほどく。
嫌われたかもしれないという恐怖と拒否されたんじゃないかという不安で思わず目を瞑った。いつの間にかかいていた汗が猫背になって浮き上がっていた背骨のあたりを落ちる。しかし、訪れたのはふわりとした感触だった。目を開けると同時に首元には愛璃の両腕が回されて、ぎゅっと抱きしめられる形になる。
僕が混乱していると耳元で囁かれた。
「お礼はなんでも言ってね」
そう言ってから蠱惑的に笑う。
先ほどまで純粋に僕のことを先生として慕っていた彼女が、一瞬で僕の心を完璧に奪い去っていった。手の届くところにいたはずなのに、僕の内側からするりと抜けて遠くに去ってしまう。そのことがひどく悲しく、むなしく、心ぐるしいものと感じてしまった。その時には僕はもう愛璃を求めていた。自分の近くにいてほしい、自分のものにしたいという気持ちはどんどんと体の中で膨らんでいた。
好きだなんて言葉では生ぬるいほどに、体中が熱くなっていた。
「へぇ、そんな風に先生とお母さんは仲良くなったんだ」
帰宅後、先生には詳しく教えてもらえなかった話をするとお母さんは楽しそうに話してくれた。娘と恋バナをするのは母親の喜びの一つだとは聞いたことがあるけれども、まさか母側の話をすることになるとは思わなかっただろう。
お母さんは昔から恋愛ドラマや恋愛漫画ばかり読むような若い感性を持っている人だから特に楽しいんだろうと思う。鼻歌を唄いながらご機嫌そうに、お代わりのお茶を淹れている。メインはお母さんの過去だから仕方ないけれども、少し話しすぎな気もする。
その様子を見ていると、お母さんは先生のことを昔のこととはいえ本当に好きだったこと、そしていい思い出のままで終わっていることは伝わってきた。まあ、先生は真面目だからきっとお母さんのことを本気で好きで大切にしてくれていたのだろう。誠実というか、そういう言葉の似あう人だった。
「そうよ。浅野君ってそのころからすごく真面目で。お母さんの中学生ぐらいの頃ってまだ悪い男の子が人気だったからなんだか珍しかったの。でも弱いってわけじゃなくて、しっかりと主張するところは主張するというか。だから、意外と人気があったのよ」
まあ、人気があるというのはよくわかる。先生は別に鼻にかけるようなことはしないけれども顔も塩顔で俳優にいそうなタイプだし、なにより優しい。今日も私の質問に困りながらも配慮して可愛いと思っていたとは肯定してくれた。それに、普段から私たちのことを第一に考えて頑張ってくれていると感じることは多い。確かに話すことは副担任の森下先生の方が多いけれども、浅野先生もクラスでは男女問わずに人気だった。
「へぇ、まあ、わかるかも」
お母さんはなんというか男の人に頼りたがるタイプだから魅力的に見えただろう。
「でも、なんで先生のことを好きになったの?」
「なんだろう。勉強を教えてもらったり、顔がかっこよかったりっていろいろあるけれども一番は、お母さんのことを本気で見てくれていたからかな。そのころ、ちょうど愛璃と同じくらいだけどその時って恋に恋しているというか、恋愛への憧れみたいなものや彼女を作って友達に自慢したいって言う部分があると思うの」
なるほど、確かにそれはわかる気がする。友達同士の会話でも彼氏がいる人はどこか尊敬というか友達の中でも立場が高い気がした。そして、私も恋愛への憧れがあるからわるいとは言えないけれども、なんだかそれは本物の愛とは違う気がする。
本物は、その人をしっかりと見てその人のことしか見えないくらいに盲目になる物だと思う。まあ、私は恋も愛も経験がないからわからないけれども。
「でも、そんな中でも浅野君は私を純粋に一人の女の子として見てくれたの。パパと出会ったのは大人になってからだからどうしても、結婚とかを考えて社会的立場とかお金とか要らないことばかりを考えてしまってあの時ほど純粋には恋愛できなかったかな。もちろん、パパのことは好きだけどね」
確かに先生はそれくらいの熱量で私のお母さんを真剣に思っていたんだろう。いつかの会話で先生が身に着けている時計もカバンも奥さんからもらったものだと先生から聞いたし、携帯の待ち受けは奥さんと子供の写真らしい。そんな先生から中学という青春の始まりの時期を本気で思われてお母さんも幸せだったのだろう。なんだか少しうらやましい気持ちがあった。
「いつか理穂にもそういう人が現れるわよ」
お母さんは微笑みながら私に向かってそう言う。でも、今のところそういう人はいなかった。小学五年生の林間学校、部屋のみんなが恋バナでクラスの誰がかっこよいとか言っているのもよくわからなかったし、その気持ちは今もわからない。
友達には彼氏がいたりするし、私は告白もされたこともあるけれども理解できない。この人が本当に自分の隣を歩いて、手を繋いで、キスをするというイメージができなかった。
「本当に好きな人が現れるのかな?」
私の言葉にお母さんは肯定も否定もせずに微笑みながら頷いてくれた。
「そうよ。私には思い返せば浅野君とパパがお母さんにはそうだったのかもね」
でも、そんな人は現れるんだろうか? 私はまだわからないままだった。
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