第4話

「ねえねえ、浅野先生ってお母さんと同級生だったの?」

 翌日、日本史の授業が終わって職員室に戻ろうとした僕を呼び止めたのは、やはりというか春川理穂だった。というか、彼女は表情に出てすごくわかりやすいから授業中からずっと、こちらの顔を見ながらうずうずと何か言いたそうにしていた。まあ、自分が彼女と同じ立場なら授業なんて集中できないだろうから見逃しておいたけれども、愛璃から何か聞いているのだろう。ちょうど思春期を迎えて異性や恋愛に対して特に強い興味を持つ時期には少し刺激が強すぎる話題だった。

「ああ、そうだよ。ちょうど君たちと同じ中学二年生の時にクラスメイトだった。それと敬語はしっかりと使いなさい」

 何かを隠しても仕方がないので、僕は聞かれたことにのみしっかりと答える。嘘をつくのは苦手だから、最低限のことだけを答えるのは、自分の中に決めていることだった。

 愛璃がどこまで話しているのかわからなかったから。特に思春期の女子中学生にその母親との恋愛模様を詳細に語る必要もないだろう。少なくとも、彼女たちの頭の中は次の授業どころではなくなってしまう。それに特に内容自体として珍しくもない話だったから。あくまで再会が珍しいのであって、中学時代は等身大の中学生らしい交際をしていたと思う。話をしても、たぶん春川の持っている期待を超えることはないだろう。

「ねえねえ、お母さんって中学時代はどんな風だったんですか? 可愛かったですか?」

 そう聞かれて、何と答えればいいのかわからない。事実としてその時の僕は愛璃のことを可愛いと思っていたけれども、それを言うとこの年代の子たちだからあらぬ噂話が広がりかねない。ただ、否定するのもなんだか愛璃に対して申し訳ない気もする。ふっと中学時代の愛璃と、昨日の愛璃の姿が重なる。僕は少し悩んでから、はっきりとは言わないけど肯定はしておくことにした。

「まあ、そうだね」

 僕の返事に春川は満面の笑みを浮かべた。

 にやにやと薄ら笑いを浮かべるようなものでもない。きっと、このころの中学生に芽生えるような下世話な興味というわけではなくて、単純に自分の母親が褒められたのが嬉しかったのだろう。

 普段は授業にも積極的で提出物もしっかりとしている。ある意味ではテストで毎回のように満点をとるような生徒よりも優等生という言葉が似あう子供だった。純粋で、世の中の汚れなんて知らないほど綺麗な瞳をしている。それがなんだか、危うさのようなものも孕んでいるように見えるほどに完璧に綺麗だった。

 そのせいか、周りには下世話な話を好む人もいるのが当然と言えば当然である。

「え~、じゃあ先生と理穂のお母さんって付き合ったりとかしたんですか?」

 春川の隣にいた彩川がこちらはにやにやと悪く言えばいやらしい笑みを浮かべながら僕のひじをつついてくる。こういう話が好きなのは年相応だとわかっているけれども答えづらい。なにせ、その質問は当たっている。そして、僕は嘘が得意ではない。それに、こういうときの察しの良さというのはやはり女性に分がある。

 なんと返せば自然だろうかと僕が考えている間に、かなり時間が経っていたみたいだった。

「ええっ、もしかしてあたっちゃいました!」

 周りの女子たちはきゃあきゃあとはしゃぎだし、そのせいで教室に残っていた生徒たちからも注目が集まる。その中で春川だけが真ん丸な目でこちらを見ている。なにが起こっているのか、彩川たちはどうしてはしゃいでいるのかがわかっていないようだ。しかし、僕が否定しないことを肯定という意味だと理解したのか、嬉しそうに笑みを浮かべた。こういうところが中学時代の愛璃にそっくりだった。

「ほら、もういい。真面目に勉強してなさい」

 僕はなんと言っていいのかわからず、無理やり切り上げて職員室へと避難した。

 午後の授業を終えて、僕は職員室の窓からぼんやりとグラウンドを見下ろしていた。みんな元気に走り回って遊んでいるのを見ると若いなと感じる。自分たちが中学生の頃には面白いことがあまり無かったから外で毎日のように遊んでいたけれども、これだけエンタメが発展した今でも子供たちは外で駆け回っているのが楽しいのだろう。今の子供たちも本質で言えば自分たちの幼いころと変わらないのかもしれない。その中に、ポニーテールを風に靡かせて元気そうに笑っている春川の姿が見えた。ほかのクラスメイトたちとも仲良くしているようで何よりだ。その姿を見て、ふと僕は思いだす。中学時代の愛璃もこんな風に笑っていたなと。


 愛璃とお互いを初めて認識したのは、中学二年生の時だった。ただ、一年生の頃から学年での集会や体育祭などのイベントでたまに見かけるとほんの少しだけれども目を引かれて足が止まるような、今になって思えばその時点で僕は愛璃の見た目に引かれていたんだろう。けれども、特にアプローチを掛けたりすることは無く、中学の一年を過ごした。

 恋愛なんて初めてだったからどういう風に話しかければいいのか、どうすれば女の子に好かれるのかなんてわからなかった。女子から人気があるのは自分みたいな真面目な男子ではなくて、少しだけふざけたというと言い方が悪いけれども、クラスの中で人気があってイベントなどで盛り上げる役をしている恰好の良い男子たちだった。

 初めて話したのは、愛璃の方から話しかけてきてくれたから。僕は昔からあんまり自分から話題をふるようなことはなかなかできなくて、そのせいか男子には仲の良い人はいたけれども女子とはほとんど話していなかった。たまに入ってくる友達から聞いた話だと、女子からは真面目でいい人なんだろうけどちょっと近寄りがたいみたいに思われていたらしい。そのころから教師を目指していた僕はそれを自分に教師の適性がないのかと、少し悲しく思ったこともあった。

「ねえねえ、浅野君」

 そんななかでクラス替えで初めて出会った僕に、中間テストが近づいてきた五月頃、愛璃が話しかけてくれたことは、僕にとってはなかなか驚くべき出来事で、慣れていない僕は何を話していいかわからなくてしどろもどろに答えたのを覚えている。

「な、なに?」

「あはは、どうしたの。別に何か悪いことをしてるわけじゃないんだから、そんなに緊張しなくてもいいのに」

 愛璃はそうやって、笑いながら僕の肩あたりを叩いた。その部分から何とも言えないようなこそばい気持ちが背中に向かって広がる。ただ、決して嫌なものではなかった。どことなく心地よいというか、なんとも言葉にしづらい感触だった。

「ここさ、わかんないんだけど教えてくれない?」

 そう言いながら愛璃は、数学のワークブック、その中にある問題を指さす。ちょうどその日に宿題が出されたページだった。既に解答は終えられて、答え合わせまでされている。その中で最後の問題だけが間違って、赤いペンで正しい解答が書かれていた。

 そのページを見るだけでも、僕は個人的に愛璃に好感をいだいた。先生のいうとおりに答えだけでなくて途中式までしっかりと赤のペンで記し、そのうえでわからないことがあると質問して頼ってくれるのは嬉しかった。このころから、僕は人に何かを教えるのは好きだった。

「わかった、ちょっと考えさせて」

 なんとか得意な勉強なら上手く話せるかと思って近づくと、愛璃にお願いされた問題をチェックする。その時に、まだ宿題をしてなかった僕は頭をフル回転させて、ざっと頭の中で仮定を立てて検算までしてから話始めた。

「ああ、ここの問題は数値をそれぞれ文字に代入して、そこから式に掛け算をすれば」

「式に掛けるってどういうこと?」

「ああ、それはね……」

 楽しさなんかは忘れて、理解してもらえるように必死に頭のなかで丁寧に説明を組み立てていく。それでも、愛璃はじっと僕の目を見ながら話を聞いてくれていた。理解したところは素直に頷いて、よくわかっていないところでは質問してくれる。教えがいのようなものを感じられた。いままでも、少なからず何人かの生徒からわからないところを聞かれたことはある。ただそれは大抵はさっと答えだけ教えてもらって課題を片付けたいというだけだったけど愛璃は真面目に話を聞いて理解しようとしていた。前者を否定する気はないし、気持ちは良くわかるけれども愛璃に対して無条件に抱いていた、テニス部に入っていてクラスでも可愛い女の子たちのグループにいて、そういう人に感じる勝手なイメージや恐怖心はその時点で払拭された。

「ありがとう、よくわかった!」

 そう言いながら、手をふって教室を後にする。その笑顔と自分の説明を聞いてくれるという嬉しさ。このことがきっかけで、僕らは仲良くなっていった。

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