第3話

「ただいま、いつも出迎えありがとう」

 僕は、黒くて少し重たい玄関のドアを開くと、その音を聞いてすぐにバタバタと廊下を走る音が聞こえてきた。これが学校なら注意をするべきだろうけれども、僕はそれをせずに駆け寄ってきたその子の脇に手を入れて、抱き上げる。

 ふんわりとした子供の匂いが、お風呂に入ったばかりなのかいつもより柔らかい気がした。消臭スプレーをかけているとはいえ煙草の匂いが染みた、年季も入ってくたびれたスーツでそれを汚すべきではないと思ったから、そのまま抱きしめたい気持ちを抑えて二回ほど頭の上まで持ち上げるとその子はきゃっきゃっと喜んでいる。口の端にはカレーがついていた。

「パパ、お帰りなさい!」

 娘の優花は満面の笑みでそういった。僕はそれに笑顔でただいまといってから優花を床におろす。それと同時に、もう一人廊下の奥から出迎えに来てくれた。僕は靴を脱ぐために玄関で腰を下ろす。すると、その人物も僕と同じく床に膝を折って目線を近づけてくる。その膝に暴れる優花を抱えて。育ち盛りでまだまだ体力が有り余って仕方がないのだろう。その姿も愛しく思える。

「おかえりなさい、あなた」

 エプロン姿の妻、結乃が僕の手からカバンを取ってそのまましまいにいく。僕はその背中にお礼を言って、空いた手を優花と繋いでリビングへと向かった。

「パパの手、冷たい」

 そう言いながらきゃっきゃと優花は笑っていた。

 リビングにはカレーの匂いが充満していて、テレビでは優花の好きな女児向けアニメが流れている。時計を見ると長針が水平方向にむいていた。三十分のアニメで言えばこれからが見どころ。それを見るのを諦めてまで出迎えに来てくれたかと思うとより一層の嬉しさがこみあげてきた。教師という仕事は楽ではないけれども、日々の生活の疲れはこうして家族といる時に感じる小さな幸せで打ち消してしまえる。

「ふぅ」

 ジャケットを脱いで、椅子にかけると一気に力が抜けた気がする。教師という堅苦しいものを脱ぎ去ってしまえる気がした。部屋に戻ってきた結乃がそのままカレーをよそってくれるから、それを受け取って優花のする小学校での話を聞きながらカレーを口に運んだ。僕の好きな大きめにカットされたジャガイモが美味しい。ごろごろと口の中で転がり、優花の小さな口には大きなこぶができていた。それをつついてやると、優花はさらに嬉しそうに笑う。

「パパ、今日はあかりちゃんのおうちに遊びに行ってたの」

「へぇ、友達のおうちにお邪魔したのか。それは良かったね」

「うん!」

 口いっぱいにカレーを頬張っているせいで、頷いた瞬間にご飯粒が零れ落ちた。僕はそれをティッシュにくるんでやる。結乃はそれを見てくすくすと笑っていた。絵にかいたような家族団欒の光景が、そこにはあった。

 テレビから聞こえるアニメの可愛らしい声と、食器の打ちあう音だけをバックミュージックに夕食を摂る。きっとこんな日常が続いていくのだろうと疑いはしなかった。平凡と言えば聞こえが悪いけれども、例えば今日のような異変はたまにあるからいい。こういう幸せを積み重ねていくことを、僕は幸せと呼ぶのだろうと再認識した。


「そういえば今日、保護者会があったんだけど、受け持っている生徒の親に、中学時代の同級生がいたんだ。それまで、生徒を見ていても気が付かなかったんだけど、言われてみれば確かに雰囲気から何からよく似ていたんだよ」

「へぇ、そんなマンガみたいなこともあるのね」

 優花を寝かしつけた後の夫婦で過ごす二人の時間。この時間は特に結乃の機嫌がよくてころころと布団のなかで眠っている、愛しくなる寝息を立てている優花の髪の毛を梳きながら目をぱちぱちとさせていた。僕のお弁当を作るために毎日のように早起きしてくれている結乃には感謝の気持ちしかない。

 結婚してから十年近くが経ったけれども、僕たちは上手く恋人から夫婦、夫婦から子持ちの夫婦という関係性に移ったと思う。優花が生まれてからは夫婦そろって全力で優花に愛情を注ぐようにしているし、かといってお互いへの愛を忘れたことは無い。

 月に一度は優花を連れてだが夫婦で揃ってどこかへ出かけるようにしているし、こうして昼にあったことを話すようにしている。結乃は専業主婦を希望したし、僕もそれに反対する気持ちはなかったから家に入ってもらっているけれども、それでもやはり外の世界へ憧れはあるみたいだ。六歳の優花に似た純粋なまなざしで僕の話をうんうんと聞いてくれる。

 今日の話題は、さすがに愛璃についてだった。ただ、中学時代の恋人だったことは結乃にもなぜか言わなかった。言えなかったわけではない。結乃は別にそんなことを気にするようなタイプでもないのに、なぜか僕は言えなかった。


 まるでフィクションみたいな話だから、結乃もいつもより更に興味津々で聞いてくれている。こういう素直なところに僕は惹かれて結乃を生涯の伴侶にしようと選んだのだ。

 おっとりした性格だけれども、家事は得意でいつも快適に家では過ごせている。そんな僕の生活は、結乃がいなければ成立しなかっただろう。教師という仕事をしている以上はやはり自分の話を熱心に聞いてくれることも嬉しい。

「いつか優花も中学生になるのかなあ。楽しみだなあ」

 まあ、話の芯を食っていることは少ないけれどもこういうところも愛らしい。結乃のこの性格に癒されることは多かったから、結婚して良かったと思う。自分は口下手だと理解しているから、言葉で伝えようとはしていないけれど、行動はそうしているつもりだ。


 結乃と出会ったのは、大学時代だった。

 ただ、大学時代は付き合いがあったわけではない。学部内でもお互いに目立つ生徒では無かったし、結乃は教員を目指しているわけではなかったからそういう会話もなかった。打算というわけではないけれども、就職などを考えると大学の後期にもなれば基本的には進路が同じ方向同士で固まることが多い。

 そうしていたほうが予定が合いやすいし、情報も手に入るからだった。だから、そのときに一般企業への就職を希望していた結乃のことは知らなかった。

 あとから聞いた話だと結乃は友達とワイワイやっているような女の子では無かったし、僕も僕でそういうのに興味はなかった。いや、興味がないといえば嘘になるかもしれない。勉強が忙しいことを言い訳にして必要以上の人間関係を持たなかったのは大学時代の自分だ。

 そのまま大学を卒業して、慣れない仕事に追われてどんどんと友達との付き合いも薄くなっていた中で誘われた同窓会で、僕と結乃は再び出会うことになる。


「おお、浅野。久しぶり」

 同窓会の日、みんな働き始めたばかりでそこまでお金に余裕がないなかで安い居酒屋に十人ほどが集まった。赤い提灯が天井に吊り上げられた空間はどことなく温かく、エアコンの効きは良くなかったけれども心地が良かった。

「久しぶり、その子は?」

 その十人の中で、唯一名前を知らなかったのが結乃だった。女子が四人と僕を含めた男子が六人。男子はなんとなく飲み会で一緒になれば打ち解けていたこと、仕事柄、人の名前を覚えるのは得意だったから記憶にあったけれども、女子に関しては在学中に関わってこなかったせいで、友達とそういった関係があった人しか知らなかった。

「何言ってんだよ。黒川さんだよ。覚えてないのか?」

「ごめん」

 僕は素直に謝る。結乃も少し困っていたけれども笑って頷いてくれた。その瞬間に、僕は彼女のことを異性とか同性とかそういうことではなく優しくていい人だと認識した。

 ふんわりとした雰囲気は今と変わらず、隣にいると安心感があった。名前を知らないということで仲良くなれるように無理やり隣へと座らせられたけれども気を使わずに話せたし、ほとんど初めて話したのに二人の間に沈黙の時間があっても気にならなかった。

「初めて話したけど、浅野君って見た目通りに真面目なんだね」

 真面目という言葉に悪意が含まれることはよくあるけれども、結乃が言うとそんなことは微塵も感じられなかった。初めて話してから一時間ほど経つ頃には僕は結乃と同窓会が終わってももう少し一緒にいたいと思うようになっていた。

 僕にはその当時、地元の同級生には結婚するやつが出てきている中でも恋人が欲しいという欲はなかった。教員としてドラマのような熱血教師に憧れていたわけではないけれども、どうしても生まれながらの性分なのか中学生という人生を左右すると言っても過言ではない時期の子供を預かるということにひどくプレッシャーを感じて、そのころはプライベートのことを考える余裕はなかった。常に生徒のことを考えて、どうすれば勉強に意欲的に取り組めるのか、よりよい学校生活を送ることができるのか。

 そんなふうに答えが出ないことばかりをひたすらに考えていた。いや、目の前にあるそれを考えることで他のことを考えないようにしていたのかもしれない。人は答えのないものを考える時は本当に暇なときか、本当に忙しくて何かを考える余裕がないときだ。

「なんだか、すごく尽くしてくれそう。今は交際相手はいるの?」

「忙しくて、ずっとそういうことを考えられなかったかな」

 思えば、中学時代に赤城愛璃と交際してから十年近くの月日が流れていた。自分の中で明確に感じていたわけではないけれども、どこか満たされない気持ちは体の中で上手く飲み込めずに宙に浮いていた。子供達の成長は嬉しい反面、自分自身は何か成長しているのだろうか、幸せになれているのかと布団の中で思うこともあった。

 だからこそ、同窓会でたまたま隣にいた結乃に声をかけたんだろうと思う。

「じゃあ、女の子に興味はあるの?」

 そう言いながら僕の膝に手を置く。酔っぱらっているのか頬は赤く、どことなく目は虚ろだった。しかし、それが変に色気を増している。僕の中に眠る獣の部分、真面目なジャケットで覆い隠してきたそれが背中を破って現れ、自分の体を覆いつくしていく感覚があった。

 人当たりが良くて人畜無害な明るくも暗くもないおっとりした人。今でも、その印象は変わらない。ただ、そのことがどこか純粋さというか、みんなが社会に出て賢くなる一方でまだ彼女は子供の心を残しているようなところがあった。僕は結乃のそんなところを魅力的に思った。

 そんななかで、こういう大人のように誘われたギャップ。

「ねえ、この後。二人で抜け出さない?」

 だから、結乃を二次会に誘われていたのにもかかわらずそのまま連れ出して、二人きりで適当なバーに誘った。それまで女の子をデートに誘ったこともないような自分が、明らかに好意を持っていることがわかるような状況で気が付いたときにはそれを口にしていた。

 結乃は戸惑いながらもついてきてくれて、そこで僕らは連絡先と唾液を交換することになった。


 結乃は、あまり積極的ではないにしても、これまでの社会人経験でそれなりに男性経験があることは語ってくれた。ただ、どうしても心のどこかで男性に対する不信感というか不信感がぬぐえなかったらしい。この性格からどうしても男性には軽く見られていたのだろう。それで、結乃の体からそれをぬぐい去るために僕は色々なところに誘った。

 水族館、動物園、遊園地だったりと結乃のような人が喜ぶような場所を考えて、一緒に時間を過ごす中で、結乃は僕に心を許してくれたんだと思う。そうして二年間の交際を経て、僕らは結婚した。そこからなかなか子供ができないために苦しい時間を過ごしたけれども、今は幸せに過ごせている。


 少しだけ話してから、僕は布団から起き上がった。

「煙草を吸ってから眠るよ。おやすみ」

 結乃が優花を妊娠したころから、煙草を家の中で吸うことは無くなった。ただ、もう眠る前に吸うのが癖になってしまったから、辞めることも考えたけれどもそれはできない。僕はそのまま結乃の頭に軽く手を置いてからリビングから出る。

「おやすみなさい、あなた」

「ああ、おやすみ」

 煙草をくわえて外に出る。洗濯ものにも煙草の匂いをつけたくないからベランダではなくてわざわざサンダルを穿いてこうして外に出てきている。こっちに越して来て良いと思ったことは、夜中にしっかりと月も星も見えることだった。煙草の煙越しに見える月はいつもよりも綺麗に見える。少しだけぼんやりとしているからだろうか。

 外は、日中よりも少しだけ涼しく感じるけれども肌を刺すような寒さではない。ふんわりと春の風が煙草の煙を攫う。こんな平穏な毎日が、これからもずっと変わらず続いていくはずだった。それだけを僕は求めていた。

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