第2話

 教室へと向かう僕と森下先生の話題はやはり、愛璃のことになった。珍しいものを見た森下先生のテンションはやはり高く、いつもより半歩ほど近い距離で僕の隣を歩いているせいか、肩がたびたびぶつかる。しかし、森下先生はそんなことは気にならないようだ。風に揺れる髪がふんわりとした匂いを運んでくる。

「珍しいこともあるんですね、同級生が担任している生徒の保護者って。なんだかドラマみたいって言うか、ここから恋愛に発展するのが定番って言うか」

 森下先生の鼻歌交じりの冗談を無視して、僕は話を続ける。仮に愛璃でなければ僕もそれを笑って冗談にできたんだろうけれども、愛璃に関してはそれができない。恋愛に発展するという森下先生の言葉に、心がむず痒さを覚えた。

「まあ、僕たちの年齢なら中学生くらいの子供がいてもおかしくないですけどね」

 四十歳で中学二年生の子供がいるということは、だいたい二十六歳の頃に子供を出産していることになる。近年の晩婚化傾向を鑑みると少し早い気もしないが、けして悪いことではない。むしろ、僕は若いころに結婚できることを尊敬する気持ちもあった。今後の人生を大きく左右する決断をその年齢では僕にはできなかった。

 その時の自分を振り返ると、まだ仕事ばかりに精一杯で交際や結婚について考えられなかったと思うと、立派なことだと思う。愛璃がどんな人を選んだのかというのは少しだけ気になったけれども、わざわざきくことではなかった。

 きっと幸せに暮らしているんだろう。それなら、何も言うことはない。

「でも、春川さんって理穂ちゃんのお母さんですよね。本当に瓜二つですよね。二人で並んで歩いていたら親子というよりも少し歳の離れた姉妹みたいっていうか。理穂ちゃんもすごくお母さんと仲が良いって話してましたし」

 森下先生の言いたいことは誇張しすぎかもしれないが、言いたいことはわかった。

 愛璃と話してから初めて気が付いたけれども、うちのクラスにいる春川理穂は当たり前だが中学時代の愛璃とよく似ている。意図的にそうしているのかはわからないけれども、二人の髪型は同じだし中学時代の愛璃と春川理穂を比べて見分けがつくのはそれなりに二人を時間を重ねていないと難しいだろう。

 もちろん、時代は変わって使う言葉なんかはかなり変わったけれども、親子だからか特に癖はよく似ていた。例えば、教師から質問されて答えがわからなかった時には左下のほうを向くのは、二人に共通している。

 また、愛璃は顔の作りが幼いというのか、実年齢よりもかなり若く見える。

「そうですね。うちの娘も六歳ですけどどんどんと面影が妻に似てきたので女の子はやっぱり母に似るんでしょうね。森下先生にもいずれ娘ができたら似てくるんじゃないですか?」

「まだ、あんまりイメージできないですけどね」

 僕から振った話題を、森下先生は意図的にこのターンで終わらせる。これは何か話したいことがある人の癖だ。そして、そういう時には僕は素直に話を聞くようにしている。僕は自分から話を振るのも得意ではないから。

「でも、綺麗な人ですよね。もしかして、春川さんと昔に何かありました?」

 森下先生は、まるで生徒たちのようにわくわくしながら僕に聞いてくる。

 初めての授業で何か質問がないかと聞いた時に、恋人がいるかと質問するときの学生と同じ表情だ。こういうところが、お姉さんのような先生だと生徒たちからも人気なのだろう。ある意味で純粋で子供っぽいというか。その純粋さには明るさがあった。

「いえ、何も。クラスの春川さんと同じように明るくて誰にでも好かれる子でしたから。いわゆるクラスの一軍というか人気者でしたよ」

 自分で嘘をつくのは苦手だと自覚しているから不安だったが、森下先生の素直さが勝ったようだ。それこそ、愛璃なら今でも僕の嘘なんて軽く看破するだろう。

 彼女も同じように純粋だった。その時の関係性によるかもしれないけれども中学時代の僕を愛璃は疑うことはしなかったと思う。最期の瞬間まで。

「へぇ、まあ春川さんは人気がありますからね。男子からも女子からも。この前、クラスの女の子たちと恋バナをしてたんですけど、女の子はやっぱりどの男子が好きかよりもどの男子に好かれているかばっかり話しているんですよね。なんだか大人みたいに。その話によると、うちのクラスだけでも春川さんのことを好きな男子って三人もいるらしいんですよ。やっぱり、モテる女の子はそれだけで人生が楽しそうですよね。特に学生時代、中学生なんて恋愛を覚えたての時期なんて」

 森下先生も男性から人気が出そうなものだが、交際経験の乏しい僕にはわからない。過去に交際したのは中学時代の愛璃と妻の二人しかいない。

 しかも、愛璃のことはつい最近まで忘れていた。初恋で、人生で初めての彼女とは言ってもそれを重要視していない人間からすればドラマのような展開ですらもそれくらいのものでしかなかった。


「まあ人生を楽しそうにしているから魅力的に見えるんでしょうね。じゃあ、私はちょっと乱れた髪型とか化粧を軽く直してきますから先に行っててください」

 森下先生はそういって先に行ってしまった。どことなく足取りが軽いというか機嫌が良い風に見えるのは気のせいだろうか。一人だけで残された僕は少しだけ愛璃との思い出を頭のそこから引き出しながら教室へと向かった。


 結局というか、無事に保護者会は終わり、僕は帰路に就いた。変わったことと言 えば、説明の最中にふと愛璃の方に視線を向けると小さく手を振られたくらいだ。

 もちろん、それに対してわざわざリアクションをするようなことをせずに淡々とこなす。もう十回以上も担任を経験しているから、慣れたものだ。さっきは少し動揺したけれども、僕にとって愛璃とのことはもう過去でしかなく、仮にそれが二人きりで偶然に出会ったものであれば笑って会話をしただろうけれども、担任が変わって最初の保護者会だからそんなことはできなかった。

 愛璃もそこにはしっかりと配慮してくれたのか、僕に対しても森下先生に対してもそれ以上のことをする様子はなく、帰り際に何か言われるということもなかった。

「まあ、何もないだろう。珍しいこともあるんだな」

 そうぽつんとつぶやいた言葉は、静かな町に吸い込まれて消える。ぼんやりと空に浮かぶ月は綺麗だ。今日はちょうど三日月の日だった。

 午後六時だというのに、既にあまり人はおらずどことなく寂しい印象を受ける。きっとこの時間帯の支配者である高校生たちはバスや電車で少し遠くの町へと繰り出しているのだろう。この町から繁華街へと出るには三十分ほどかかるけれどもきっとこの町で過ごすよりもよっぽど楽しいだろう。

 商店街の間を抜ける風は何も遮ることなく体に直撃してくる。森下先生から聞いたところ、いわゆるヤンキーのような若者も少ないらしい。見回りが必要なのは、地域の祭りくらいだろうか。僕のような人間にはとても過ごしやすい町で、引っ越してきてまだ一ヶ月も経たないけれども僕はここを気に入っていた。

 少し寂しく感じるような帰り道を自転車をそこそこに飛ばして駆け抜ける。すり抜けていく風が、耳の下を冷たくなぞった。引っ越しや前任からの引継ぎなどの業務が忙しくて髪を切る時間がなく、少し伸びた襟足をさらう。

 家につくころには周囲のマンションやアパートからは、徐々に温かみのある光が漏れてきていた。どことなくその明かりが、気温を上げてくれている気がする。

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