初心女

渡橋銀杏

第1話

「あ、浅野先生。こちらにいらしたんですね。保護者会で皆さんにお配りする資料です。職員室の机に忘れてましたよ」

 かなり慌ててさがしてくれたのだろう、森下先生は僕にクラス全員分である四十部の資料がまとまったファイルを手渡すと、膝に手をついて肩で呼吸を始めた。体が上下動するたびに、その綺麗にまとめられていたポニーテールが横にふんわりと揺れる。朝に会った時には整っていた髪がぼさぼさと四方八方に散らばっているのを見ると、焦らせてしまった申し訳なさがこみあげてきた。うなじの辺りから、薄い色の髪の毛が二、三本ほど散らばっている。

「すみません、わざわざありがとうございます」

 四月ももう中盤だというのに今日は気温が急激に冷え込んだせいで、森下先生の発するその息は、色濃く視界に残ってから空中に消えていった。今日が寒い日であることを僕たちに神様が見せつけているように。

 その息を見て思い出した僕は、まだ半分ほど残っていた煙草の吸殻を携帯灰皿に押し込んだ。最後の火種が銀色の膜に反射してから消えて、中はすぐに暗くなる。最後に大きな光を放ってから、誰にも知られずに散っていく。

 煙草への憧れは、こういうところにくるのかもしれない。

 いずれなくなるものほど美しいのだから。

「別に煙草の副流煙なんて私には気にしなくてもいいですよ。こんな田舎でずっと過ごしていたから、煙草なんて同級生のほとんどは吸っていますし、私は特に好きでも嫌いでもないですから。まあでも、消しちゃったものはしょうがないですね」

 森下先生は走ったせいで少しだけ乱れたスーツのすそを手で引き延ばし、薄いベージュ色の布をピンと張りなおした。うなじから漏れる髪をまとめているその合間に、僕は携帯灰皿を胸のポケットにしまった。

「じゃあ、煙草タイムも終わったことですし、そろそろ行きましょう。熱心な保護者の方はそろそろ教室に到着される頃だと思いますよ」

「すみません、少し待ってください」

 僕はジャケットの胸ポケットに常に入れている小型の消臭スプレーを取り出して、体に向かって三回ほど吹きかけた。爽やかなミントの香りが、鼻を掠める。その粒は見えるほど大きいわけではないのに、煙草の煙で汚れたスーツに染み込んでいく感触がした。そんな僕を見ながら、森下先生は笑った。

「浅野先生って真面目なのに、煙草は吸うんですね。なんか意外って言うか、イメージが真反対って言うか。まあ、いっか。ほら、行きましょ」

 真面目とはどういうことを言うのか、森下先生が何を指して言ったのかはわからないけれども僕はそれに頷いてから、彼女の後を追いかけた。

 先ほどまで、膝に手をついていたとは思えないほど元気で、煙草の煙で汚れた自分の体にはとてもじゃないけれどもそんな芸当はできないだろうなんて考えが頭に浮かんだ。十五歳も離れた相手に何を思っているのか。

 自分が老いたことを実感させるのは体よりも心だった。煙草の煙のせいか、少しだけ頭が揺れている感覚を伴ったまま、僕は歩き出した。


 公立間部中学校。日本海を望む間部市にあり、部活動も学業もそこそこの成績を収めていた。間部市は本当に取り立てるところのない場所だった。都会のように中学生が喜ぶような娯楽があるわけでもなければ、それに疲れた人たちが憧れるような自然もない。強いて言うならば海産物だろうけれども、それも特産と言えるかというとそこまでのものではなかった。

 二年前に発覚した病気を抱えた義父に何かがあった時にすぐ駆けつけられるようにと、車で一時間以内の距離に住みたいと言った妻の希望を優先してこの場所へと引っ越してきた。世間的には問題ではあるが個人的には幸いなことに、教員の人手不足は年々深刻化しているため、別に県をまたぐ異動も難しくはなく、すんなりと新しい中学校への赴任が決まってここにやってきた。

 もう四十歳にもなって、遊びたいという気持ちもなくなった僕にとってこの街はちょうど良かった。一人娘の優花もまだ六歳だから、この街でも十分に楽しい生活を送ることができるだろう。高校、大学へと進学するころにはまた夫婦で色々と考えてみればいい。まだ幼い娘を見ていると、そんな姿を想像もできないけれども決して遠い話ではなかった。

「それで、間部市の住み心地はどうですか? もう慣れました?」

 副担任の森下先生は、この町で育って大学から都会に出て教員免許を取得し、念願叶って地元の間部市に戻ってこられたのだという。そのせいか、生徒たちからも先生というよりは、まさに地元のお姉さんのように慕われている。

 担任と副担任という関係上、いろいろと話すことが多いのだが新しくこっちにやってきた僕を気遣って積極的に話しかけてくれ、地元の隠れたお店や地域の観光地などを教えてくれる。そのおかげで、僕もこの街に体が馴染むのは早かった。

 また、僕のように真面目だけが取り柄の堅物だとどうしてもクラスの盛り上がりにかけるから、こういう明るくて生徒を引っ張ってくれる若い先生を副担任につけてもらってとても助かっている。

 男女問わずに森下先生にはくだらない会話もできる子が多い。こういう先生が一人いるだけでも、学校が楽しいと思う生徒もいてくれるだろう。一部の男子には本気で森下先生を慕っているというような話も聞くが、わからないでもなかった。

「そうですね。ご近所さんも優しく迎えてくれましたし、かなり。まだ僕はこの寒さには慣れませんけどね。家内も僕が見る限りは楽しく過ごしていますよ。引っ越してきて良かったですし、森下先生がこの場所を気に入っている理由もなんとなくですがわかってきたような気がします」

 森下先生や妻と違って、僕は生まれた時からずっと西日本の太平洋側で暮らしていたからこの時期にこんなに寒いことは、妻から聞かされて覚悟はしていたとはいえ堪えるものがあった。なにせ積もらない程度の雪が降るだけで大人でもはしゃいでしまうほど向こうは暖かいのだ。冬本番は想像するだけで少し恐怖すら感じる。

 ただ、もう季節は四月も中盤に入ろうとしていた。すでに娘は小学校で友達ができたと夕食の時に話してくれたし、妻も少しずつ地域の会合などに参加して地元の人たちと交流しているらしい。家族三人が、それぞれ新生活の中で新しい自分という役割を理解し、立場というものを確立し始めていた。

「早く慣れてくださいね。たぶん、冬本番はもっと厳しいでしょうから」

「はは、覚悟しておきます」

「でも、寒いとわざわざ外に出て煙草を吸うのも大変じゃないですか? どうしてわざわざあんなに学校から離れて吸うんですか?」

 正門から少し離れたところ、煙草を校外で吸うことに関して誰かに咎められているわけではないけれども、生徒たちに飲酒や喫煙が体にもたらす悪影響を語りながらも、自分が堂々と吸っているというのはどうも気持ちが悪くてわざわざ学校の外に出てから少し歩いた場所で隠れる様に煙草を吸っている。もちろん、既に生徒には知られているだろうけれど、それは基本的にどうでもよくて自分の中にある気持ち悪さを取り除くためにそうしていた。

 昨今の煙草への悪感情の高まりから考えると、保護者の中にも担任の教師が堂々と煙草を吸っているとよく思わない人もいるだろうということも考えてしっかりと消臭もする。

「なんだか、生徒に煙草について厳しく言えない気がして」

 こういうところを真面目と言われるのだろうけれども、自分としては生まれた時だからこうだから特に誇る気もない。若いころは羽目を外すことが楽しそうにも見えたけれども、この年にもなればそんな気持ちは少しも残っていなかった。

 高校時代、仮病で授業を一日休むつもりだったけれど、なんだか心の中に妙なしこりが生まれてそれがどうしようもなく気持ち悪くて途中から登校したことがある。その時に自分はそういうものには向いていなんだろうと、どことなく諦めている。

 結局、人には向き不向きがあるのだ。

 前日の夜に降った雨が、わずかに残っていた桜の花びらをすべて地面に叩き落としていた。僕はできるだけそれを踏まないようにと歩く。革靴の底が道路の隙間に残っていた小さな水たまりから、雨粒をはじいていった。


「ほら、もう保護者さんが来ちゃってるじゃないですか」

 ちょうど正門前の曲がり角、そこで視界の端に品の良いベージュ色のセーターに白いスカートのシンプルな服装をまとった、同年代位の女性が学校の敷地と外を遮る門。その目印に敷かれた線を跨いでいった。

 僕と森下先生も、担任と副担任が先に教室にいないと恰好がつかないということでその女性とは別のルートで、教室へと向かおうとする。しかし、その時に僕の革靴が少しだけざらざらしたコンクリートの地面に引っ掛かって擦れる音を立てた。

 その音に気が付いた女性が振り返る。僕と森下先生は示し合わせるわけでもなく同じタイミングで軽く頭を下げた。ミュージカルみたいだと、少し可笑しくなる。

「あれ?」

 そんな言葉が、頭上から聞こえた。

 最後にもう一度、頭を下げたついでに軽く鼻で息を吸って煙草の匂いが服に残っていないかを確認してから頭を上げる。すると、視界に入ったその女性に、僕はどことなく見覚えがあった。生徒の母親だろうから、誰かの面影を感じることは珍しくないけれどもそうではなくて、間違いなく僕は目の前にいる女性とどこかで会っているとわかるほどだった。記憶の中に、彼女の昔の姿が確かにあるはずだ。

 ぼんやりとした頭の中にある霧を割いて、一人の女性が形どられていく。

 彼女も僕の顔をじろじろと見て同様の反応を示している。

 そして、何かを思い出したようにパチンと手を叩いた。

「浅野君! 浅野洸太君だよね!」

 僕の名前を呼ぶその声を聴いたことで彼女が誰であるかを思い出した。見た目は大きく変わっていたけれども、僕の名前を呼ぶ独特のイントネーションは変わっていない。その耳に触れる時の心地よさが一瞬で僕を記憶の中へと引き戻す。

「赤城さん?」

 僕がそう問いかけると、彼女は楽しそうに笑った。

「あはは、もう名前は変わってるよ。今の苗字は春川だよ。春川愛璃」

 先ほど学校の入り口で受け取っていた名札を見せてくる。そこには確かに春川と書かれていた。そういわれれば、うちのクラスにいる春川理穂によく似ている。

 まとっている雰囲気も、目元にある泣きボクロも、セミロングというには少し短い髪型も。今まで、春川を担任として半月ほど見ていてどうして気が付かなかったのかと思うほどに。

「いや、そんなにじろじろと見つめないでよ。恥ずかしいでしょ」

「ああ、ごめん」

 気づかないうちに視線が引き寄せられていたようだった。思わず、敬語でもなくなる。僕は愛璃から視線をそらして、地面を見た。それを確認して愛璃はまた笑った。

「あの、お二人はお知り合いですか?」

 隣にいた森下先生が不思議そうにこちらを見ている。当然の反応だろう。いきなり会ったことがないはずの担任と保護者が、いかにも見知ったように会話を始めたのだから。

「あら、森下先生。今年も娘がお世話になります」

「え、ああどうも。よろしくお願いします」

 虚をつかれたのか、彼女にしては珍しい言葉で返答する。しかし、愛璃はそういうことはあまり気にしない性格だ。少しの沈黙が三人の隙間を流れていくから、僕はこのタイミングで言っておいた方が森下先生にも良いだろうと話を始める。

「紹介というのも変なんだけど、赤城さん」

 僕がそこまで言ったところで、愛璃は途中から遮って話始めた。

「だから、春川だよ。実は、浅野先生と私は中学の同級生なんです」

 どうやら赤城と呼ぶ癖はなかなか治らないらしい。

 森下先生は目覚ましがなる直前の時計みたいに数秒だけ固まってから、驚きの声をあげる。遅れて手が口の周りを抑えた。門の前に立って挨拶している他の先生もこちらを見ている。

「す、すみません大きな声を出して。でも、そんなことってあるんですね」

「そうね。私も久しぶりに浅野君に会えて嬉しいわ。でも、今は忙しいでしょうからまた今度、落ち着いた時に話しましょ。保護者会、頑張ってね。先生」

 僕と森下先生にそんな言葉だけ残して愛璃は去っていった。

 彼女が僕のことを先生と呼ぶのは当たり前だけれども初めてなのに、どこか懐かしささえ感じた。きっと、中学時代、いや正確に言えば僕たちが交際していた時の関係性はそれに近かったのだと思う。だからこそ、彼女の発した先生という四文字の音はなんだか変な響きで僕の心を少しだけ揺さぶった。

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