Episode02
『ちわちゃんあのね!ぼく、おっきくなったらひーろーになるんだ!』
『ひーろーってなあに?』
『ひーろーっていうのは、つよくて、かっこよくて、やさしくて、すごいひとなんだよ!』
『そうなんだあ!りんちゃんは、ひーろーになってどうするの?』
『えっとね、わるいやつをたおしたり、こまってるひとをたすけてあげたりする!』
『すごーい!りんちゃんすごいねえ!』
『えへへ、それでね、ひーろーになったらね、』
「…この夢、久しぶりに見た…」
幼い頃の口約束。きっとこの約束に意味なんてなかった。
それでも、このときのわたしにはとても嬉しかった約束だった。
10年以上たった今でも、こうして夢に見るくらいには。
それでもここしばらくめっきり見ていなかったのに、このタイミングで夢を見るなんて、自分も内心では水無瀬くんがりんちゃんだと認めているような気がして腹が立つ。
「……違うもん…、りんちゃんと水無瀬くんは、同じじゃないもん……」
水無瀬くんが転校してきた日から一週間が経った。
私は相変わらず水無瀬くんのことを苗字で呼び続けているし、水無瀬くんも私の呼び掛けに返事をすることはなかった。
とはいえ苗字で呼ばずに用件だけ伝えるときや、他の人が呼ぶときにはちゃんと反応する。
つまり水無瀬くんは私の“水無瀬くん”にだけは一切反応しようとしないのだ。
それでも折れた方が負けだと妙な意地を張った私は、水無瀬くんのことを一度も名前で呼ぶことはなかった。
◇◇◇
特別教室での授業を終えた昼休み。
慌てて家を出たこともあってお弁当を忘れてきてしまい、教室に戻るついでに購買に立ち寄ると、理不尽な罵倒と同時に後頭部にごつんと小さな衝撃。
「おいアホ千和」
「いてっ」
聞き覚えしかない声に恨めし気に振り向けば、そこには予想通り不機嫌そうな顔をした槙にぃがいた。
手にはピンク地にさくらんぼ柄のファンシーなかわいらしい巾着。
持っている人間がこうもしかめっ面だと、さくらんぼ柄の巾着はギャグ要素になるんだなあと感心していると、さらに槙にぃの眉間にしわが寄る。
「弁当忘れるとかただのアホだな、お前」
「じゃあ槙にぃはアホの兄貴じゃん」
「弁当投げ飛ばすぞ」
学校だからと控えめながらも槙にぃとの間に不穏な空気を漂わせていると、後ろから何やら楽しそうな声が聞こえてきた。
「あ!三枝センセ発見ー!」
「センセも購買?」
「そんなとこ。そういや遠藤、この間聞きに来たとこ、小テストでちゃんと解けてたな」
「えへへー、センセがしっかり教えてくれたからだよ」
「センセ、私も今度わかんないところ聞きに行っていいー?」
「おー、ちゃんと聞きたいとこ整理してから来るようにな」
「はーい」
授業を受け持っているらしい生徒と話す槙にぃは、ほんの数秒前とは別人のように朗らかに会話をしている。
ほんの数秒前まで不機嫌そうに眉間にしわを寄せていたとは思えないその代わりぶりは、いっそ別人と言われた方がしっくりくる。
先生をしている槙にぃは、教師同士はもちろん生徒からも評判がいいらしくて、私が槇にぃの妹だと知ってる人から羨ましがられることも少なくない。
とはいえ、みんなが羨むのは“先生”をしている槙にぃであって、“兄”である槙にぃじゃないから、妹の私からすると何ともいえないけれど。
「それじゃあ私は失礼します。三枝先生」
お弁当は受け取ったし、和気あいあいと話す三人からは完全に蚊帳の外になってしまった以上、私がここにいる必要はない。
何ならさっきからちらちらと向けられる視線の端々に、敵意に近い何かを感じて気まずいったらない。
いつもだったら絶対にしない呼び方をしてわざとらしく笑顔を向けると、槙にぃの表情が一瞬ひきつったのが分かった。
なかなか見れない表情に少しだけ胸がすく。ふんだ、ざまあみろ。
「ごめん遅くなった!」
「おかえりー、先食べてたし全然おっけー」
「結構時間かかったみたいだけど、購買混んでたん?」
教室に戻ったときには、すでに昼休みは半分近く経過していた。
荷物を置いてから合流すると、先にお昼を食べ始めていた恵梨香と知秋は私が手にしていた巾着を不思議そうに眺めた。
「てか今日お弁当忘れたから購買行ってたんじゃなかったっけ?」
「まあうん、そうだったんだけど」
「あ、もしかして三枝先生が届けてくれたとか?えー優しいじゃーん」
「優しい、ねぇ……」
特に隠しているつもりはないけれど、学校全体を通して私と槙にぃが兄妹だということを知らない生徒は少なくない。
基本的に生徒たちとフランクな付き合い方をしているからか、私だけが特別距離が近いと思われていないのが理由の一つ。
まあ面倒なことに巻き込まれないで済むのは楽だから大歓迎なんだけど。
「うち姉ちゃんしかいないし、お兄ちゃん欲しかったなー」
「欲しいならあげるよ。槇にぃいなくても、まだ凪月にぃと智希にぃがいるし」
「凪月さんも智希さんも恰好いいもんねー」
「えっそうなの?」
「そうそう。三人とも違うタイプのイケメンなんだけどさ、本当に漫画とかドラマみたいだよ」
「その分、面倒ごとに巻き込まれるのも三倍だけどね」
「「あー……」」
昔からそうだった。
小学生のときも中学生のときも、バレンタインやクリスマス、卒業式なんかの行事近辺はもちろん、何気ない普通の日も。
彼女や好きな人はいるか教えてほしい。プレゼントを渡してほしい。放課後屋上に読んでほしい。卒業式のボタンをもらいたいのだけれど。エトセトラエトセトラ。
こんな感じでキューピット紛いの頼みごとを何度されたことか。兄貴三人分だからもう両手の指でも足りないほどだ。
実際、身内の贔屓目を抜きにしたとしても、三人ともそれぞれ整った顔立ちをしていると思うし、喧嘩をすることも腹が立つこともあるけれど、だからといって性格が悪いと思うこともない。
けれど、同じ両親から生まれて、同じように育ってきた自分は、そういった色恋沙汰とはほぼ無縁の人生を送ってきたとなると、少しくらい八つ当たりしたい気持ちになるのはおかしくない、はず。
「かっこいいお兄さんが三人もいて、今は水無瀬くんの隣でしょ。イケメンと接点を持つ星の下にでも生まれたの?」
「知らないよそんなの」
水無瀬くんは“端正な顔立ちの帰国子女”として、転校早々学校中の女子の噂の的になった。その注目ぶりというと、今この時間にも昼休みを利用して、水無瀬くんを見に来ている他クラスの女子がいるほどだ。
当の本人はといえば、そんなギャラリーに対して一切反応を見せることなく、楽しそうに友達と話しながら昼ご飯を食べている。
「ってか、千和って水無瀬くんに対してやけに冷めてない?転校初日もなんか揉めてたっぽいし、何かあったの?」
「別にそういうのじゃないよ。必要な会話はしてるし」
ただ、私の中のりんちゃんと結びつかないだけ。というか水無瀬くんがりんちゃんだって認めてなんかいないから!
「まあ、千和には高橋先輩が居るもんねー」
「ってか最近会ってるの?先輩、大学忙しいんでしょ?」
「うん、結構忙しいみたい。でも今日会うんだ」
高橋先輩は、一つ年上でこの春から大学生になった私の彼氏だ。
半年くらい前に先輩から告白された。優しくて大人っぽくて、ヒーローとは少し違うけれど私のことを大切にしてくれる素敵な人。
「彼氏持ちの余裕か!あーあ、私も彼氏欲しいなー」
そう言って知秋は机に突っ伏すけれど、別に彼氏が居ても居なくてもそこまで大きく変わるようなことはないと思う。
恋だって、正直自分が恋と呼べるほどのものをしてきたかどうか分からない。
先輩と付き合う前も、“恰好いいな”と思う人や、“素敵だな”と思う人はいた。けれど、それが恋がどうかと聞かれたら、すぐに肯定できる自信はない。
「ねえねえ、千和の初恋っていつだった?」
あのときの私がりんちゃんに抱いていた思いは、恋と呼べるのだろうか。
ただ真っ直ぐに、純粋に、りんちゃんが大好きで、ずっと傍に居たいと思った。
誰かのことを大切に、傍に居たいと願うことを恋と呼ぶのなら、私の初恋はきっとりんちゃんだ。
「うーん……、…保育園のとき、かな」
「へえ、千和って彼氏いるけど、なんか恋愛に無頓着なイメージだったから意外」
「今では可愛い思い出だよ」
そう。あのときの想いも、全部いい思い出だ。私の中の大切な思い出。
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