春に睨まれて
平山芙蓉
1
春の陽射が、僕にだけ優しくなくなったのは、いつからだろう?
四月。
新しく迎えた、春。
使い棄てみたいな人生と、その中で何度も無駄にしてきたこれまでが、これからまた始まる。そんな予感がシャツと共に、少し汗ばんだ背中に張り付いていた。
項を焼く陽光の熱に負けて、首を擡げる。正午を少し回った空は、懐古主義者が好みそうな青色で染まっており、雲は一つも浮かんでいない。あるものは我が物顔で煌々と光を放つ、太陽だけだ。きっと彼は自分のことを、この国に住む人間全てに愛されていると、勘違いしているのだろう。そうじゃなければ、あんなところで堂々としていられるはずがない。
奴のいる空から目を離し、ポケットから煙草を取り出し、口に咥える。火を点けようとするけれど、風に邪魔されて上手くいかない。ビルの建ち並ぶ一角にある会社で、無駄に風通しが良いせいだ。手や身体で風を除け、試行錯誤を繰り返して、ようやく煙草の先に、テールランプのような火が点いてくれる。でも、火種はフィルタへ向かってその命を、どんどん風に奪われていった。何回もフリントを擦って、親指を痛めてまで得たひと時だというのに、酷い話だ。どうやら嫌煙家は、人間だけではないらしい。
煙を吸いながら、午後からの仕事のことを考えた。今は繁忙期で、昼休憩以外は誰も手を止められない。フロアの空気には溜息の汚れが染み付いており、同僚も上司も関係なく、目には不健康な色を滲ませている。誰に話を聞いても、たったの数時間で疲れが取れるわけがないと言っていたから、当然だろう。
僕もまた、例外なくその一人だ。毎日、毎日、量以外はほとんど変わらない仕事を、終わらせるために働き続ける。そうして帰宅しても、夕食を取って、惰性で動画サイトを徘徊し、飽きたらシャワーを浴びて寝るだけ。たった数行で終わる、コンパクトで窮屈な日常。それでも、明日は理由もなくやってきて、僕を目覚めさせる。
幼かった頃の網膜には、そんな人間ほど稀有に映っていた。大人はみんな、自信に満ち溢れていて、自由に生きていけるのだ、と。けれど、現実は違う。右を見ても、左を見ても、使い古された常套句をペーストされたかのように、誰もが似た生活に浸かっている。画面の先にいる特別な人間たちとは、最もかけ離れた無様な生活を。
抜け出すチャンスは、いくつもあった。レールは単純ではなく、いくつもの分岐が広がり、その先へ進める可能性に満ちていた。もちろん、自分の望む限り、好きな場所を目指すことができた。
でも、そうはしなかった。
ちらちらと辺りの様子を窺い、数多の信号機の言いなりになって、間違いなんてほとんどない一本道を、ずっと走ってきただけ。事故も起こさなければ、衝突だってしない。安心安全という標語がお似合い。そんな生活こそが、僕を含めた多くの
「それでも……」
他に人のいない屋上で、僕は独り言ちた。
口から漏れた煙が、青い空へと昇り、綿飴のように溶けてしまう。
それでも、何だ?
自分で言っておきながら、その先を続けられない。
分かっている。
このまま死んでいくだけと、諦めている自分。
反対に、まだ何か、と足掻いている自分。
そして、相反する二人のどちらにも正しさを与えず、ただ目を背ける灰色の僕。
情けない。
情けないから、春は僕を責める。
誰かに教えてもらうまでもなく、分かりきっていることだ。
でも、分かっているだけじゃ、何も変わらない。
灰色で生きていれば、死人と同じ冷たさのままなのだろう。
こうありたいという理想にだって、近付けやしない。
ほとんど吸っていないのに短くなった煙草から、毛虫みたいな灰が落ちる。綺麗な姿は最初だけで、風に吹かれると簡単に朽ちて、すぐに跡形もなくなった。ポケットから携帯灰皿を取り出し、吸殻を入れる。本当は二本目を吸いたかったけれど、やめておいた。この風の強い中でまた、ライタで火を点けられる自信がなかったからだ。
腕時計を見ると、再開まであと三十分ほど時間があった。でも、気の早い奴は既に仕事を始めているし、今は誰もそれを咎めない。僕もそろそろ戻って始めよう
そう決めて、屋上のドアへ身体を向けた時、視界の端に何かが映った。
建物に沿った細い道路を挟んだ先にあるビル。
うちよりも少しだけ背の高い、その屋上に、
ひらひらと揺らめく何かの影が――。
視線が自然とそちらへ吸い寄せられて、光景を頭が理解する間に、
それは、容易く落下した。
人だ。
人が落ちた。
違う、落下ではない。
あれは、飛降りだ。
言葉がビリヤードの球のように、音を鳴らして頭を駆けて、
津波の前兆みたく、血が引いていく。
転落防止用の鉄柵から身体を乗り出し、下を覗いた。うちのビルが四階建に対して、向こうは六階まである。案の定、道路のアスファルトの上には、関節の曲がった人の姿があった。関節は出鱈目な方向に曲がって、動いている様子はない。離れた位置からでも、熟れた柘榴のように頭蓋の割れた様子が見えて、即死であることは一目瞭然だ。
飛降りたのは女性で、着ているセーラー服から察するに、学生だろう。ひらひらと揺れていた影は、彼女のスカートだったらしい。
鉄柵から離れると力が抜けて、尻もちをついてしまった。冷静になろうとするほど、脳内は煩雑になり、何をするべきなのかが分からなくなっていく。
こういう時、警察と救急、どちらに電話をかけるべきなのか?
だけど、もし通報をしたら、事情聴取をされるのではないか?
そうなれば、午後の仕事は壊滅的になる。
十五分やそこらで、終わるはずがない。
ただでさえ人手不足で、現場は天手古舞だというのに、同僚や上司たちに、後から何と言われるか分からない。
いっそのこと、知らないフリをしようか?
幸いにもあのビルは、テナントは入っておらず、ほとんど廃墟に等しい。通もこの時間帯は、人や車の往来はなく、閑散としている。近くに沢山の建物があったとしても、角度や位置からして、目撃者が他にいるとは考え難い。
僕は何も見ていないし、何も聞いていない。
いつものように煙草を吸って、いつものように仕事へ戻る。
通報するのは、通りかかった誰かに任せよう。
……いや、そんな演技ができるくらい、僕は平静を保てないだろう。自分の顔色が今、どんな風になっているのかなんて、鏡を見なくとも分かる。今日を誤魔化しきれても、徐々に綻びが生まれてしまう。そうなれば、余計に厄介だ。
ならばどうする?
最善策を模索しようにも、答はどんどんと否定され、時間は浪費されていく一方だった。
そもそも、どうしてこんな時間に、こんな場所で、飛降りなんてしたのだろう?
自分に突き付けていた矛先が、今度は飛降りた彼女の方へと向けられる。立ち上がり、スラックスの埃を払いながらもう一度、鉄柵の下を覗く。遺体は先ほどと変わらず、そこに転がったままだ。白昼夢でも、誰かの仕かけた質の悪い悪戯ではない。もしそうなら、どれだけ良かっただろうか。
何にしても、こいつのせいで僕はこんなにも、頭を悩ませている。ただでさえ、考えることが多いというのに。実行するにしても、僕がいることに気付いて、直前で止してくれるか、少し時間を置いてからにでもしてくれれば、こんなことにはならなかった。
不謹慎だ、なんて倫理で蓋をしようにも、憤りとも嘆きともつかない感情が、大きな波となって、血管を流れる。
……そうだ。
こんなに白昼堂々と、人に見られるリスクを背負ってまで、自殺をしたのだ。きっとあの場所には、遺書の一つくらい、あるに違いない。どんな想いで、死に至る道を選んだのか。
知りたい。
そんな黒々とした好奇心が、俄かに湧いてきた。それに、どうせ警察や救急がくれば、回収されてしまう。ならば、誰に読まれようと変わらないだろうし、そのくらいのことは僕だってしても良いだろう。
感情に身を任せるまま、屋上を後にして、会社を出る。昼休みも終わりかけで、若干の気が引けたけれど、幸い誰も、僕を気に留める人間はいない。みんな自分のことでいっぱいなのだ。
路地に入ると、建物が影になっており、辺りは暗かった。暑いくらいだった温度もなく、冷房の効き過ぎた部屋のように肌寒い。
そんな道の真ん中には、あの少女の遺体が転がっている。上から見るよりも生々しく、届てくるはずなんてないのに、血肉の臭が鼻腔に広がった。どこからやってきたのか、烏が彼女の頭からはみ出した脳を突いていた。そいつは僕に気付くと、威嚇めいた鳴き声を、僕に投げかけてくる。
「……要らないよ、好きにすれば良い」
自分に言い聞かせるつもりで呟いてから、現場となった建物へと近寄る。もちろん、少女の遺体を視界の外へと追い遣りながら、足を踏み入れた。
入口はドアが開きっ放しになっている。少女が入った時のままなのか、元よりそうなっていたのかは分からない。中は埃っぽく、鼻や目がむず痒くなった。電気が通っていないから薄暗いけれど、窓のあるお陰で想像よりは明るい。床にはチラシやら、誰かが持ち込んだゴミなどが散乱していた。どんな会社が入っていたのかは、残留物だけで判断できそうもない。
奥へと進むと、裏口のドアが見えた。摺り硝子の小窓が嵌められているけれど、端の方が割られている。ソフトボールくらいの穴の向こう側には、伸びに伸びた雑草の頭が見えた。ノブの鍵はかけられていない。最初に侵入した輩は、ここを使ったのだろう。自然にできたモノではないことは、火を見るよりも明らかだ。ドアを正面にして、左に曲がったところに上階へと続く階段があった。足元を取られないように気を付けながら、僕はそこを上っていく。
一体、どうしてこんなことをしているのか。正常な冷静さを取り戻した僕は、今更になって疑問を抱いた。通報や救助などの、本来やるべきことを差し置いてまで、現場を訪れる。野次馬根性の強い奴だって、ここまでしないだろう。誰かに見付かれば、間違いなく僕は罪に問われてしまう。階段を上る度に、階下を振り返りながら、現在進行形で渋くなる後悔を噛み締める。
そうやって少し及び腰になりながらも、ようやく最上階へと辿り着く。フロア自体は最後だけど、急な階段が続いており、その先に屋上へと通じる扉が見えた。こちらも一階の裏口にあったものと同じ造をしている。違うのは、割れていないところだろうか。扉は三センチほど開いており、光が斜めに射し込んでいる。
肌のべたつく不快感を我慢しながら、最後の階段を上った。
ノブを捻り、ドアを押すと、甲高い音と共に世界が拓ける。
突然やってきた眩しさのせいで、薄暗さに慣れていた目を細めてしまう。一瞬の白飛びの後、真っ先に入り込んできたのは、何の変化もない青い空だった。雲一つない、晴れた空。物理的な関係を除いても、ここから見える空は大きくて、遠く見えた。
屋上はそこまで広くはない。コンクリートタイルが敷かれているけれど、所々が割れており、黒ずんでいる。幸いにも、転落防止用の柵に、目立つ破損はなかった。でも、錆びついているから、凭れかかったりすれば、簡単に折れてしまいそうだ。
僕はまず先に、勤務先のある方へと近寄り、下を覗く。ここからだと会社の屋上は丸見えだった。更に視線を下にずらすと、少女の遺体も確認できる。どうやら、まだ見つかっていないらしくて安心した。それだけを確かめてから、僕は身を引く。いくら人通りの少ない路地だからと言っても、誰も通らないわけではないのだから。
柵から少し離れると、その向こう側に、黒い塊が見えた。それは、合皮でできており、まだまだ新品に近い靴だった。荒れ果てたこの場所には、似つかわしくない。しかも、踵の下にはわざとらしく紙が置かれている。テンプレートみたいに用意されたそれが、彼女の遺書であることは、容易に理解できた。
屈んで、紙が風に吹き飛ばされないよう、慎重になりながら、手を伸ばす。
手に取った紙は、A4サイズを二つに折っただけのコピー用紙で、それと分かる表書もされていない。一度でも風に吹かれてしまえば、ただのゴミとして棄てられてもおかしくなかった。
本当に、読むべきなのだろうか?
ここまでやっておきながら怖気付き、躊躇してしまう。
『やれよ』
誰かのそんな声が、頭の中で聞こえる。
そうだ。
やらなければならない。
きっとここで、僕の人生は変わる。
何故?
何故だろう?
ふわふわと漂う曖昧な動機に、僕は目を凝らす。
理想とはほど遠い人生。
特別とは全く違う人生。
平凡という名のワゴンに詰め込まれた、他人と同じ人生。
そうやって諦めたフリをしているくせに、
画面の内側の他人を妬み、恨み、
ぼんやりとした願望を棄てきれない。
分かっている。
こんなことをしたって、何か変わるはずなんてないと。
通報するか、無視してそのまま仕事に戻った方が、まだ有益だっただろう。
それでもこんな愚かさを選んでしまうのは――、
馬鹿げた理屈で権利を主張してまで、ここへ訪れてしまったのは、
彼女がどれだけ不幸だったのかを知って、
まだ大丈夫なんだ、と、
自分を安心させてやりたいからだ。
「別に、構わないだろう?」
誤魔化すようにそう呟いてから、手にした少女の遺書を開き、目を通した。
『私はこの世界で、理想に近付けませんでした。誰かの特別にも、なれませんでした。どうやら、私がいるべき世界は、ここじゃないみたいです。さようなら』
……意を決して開いたというのに、たったそれだけのことが、端的に書かれていただけだった。名前もなければ、恨み辛みが渦巻いているわけではない。はっきりとした筆致で、迷いなく紙の真ん中に書かれている。恐らく、最初からそれ以外を遺すつもりがなかったのだろう。そんな意思を犇々と感じるほどに、彼女の言葉は真っ直ぐだった。
「どうしてだよ……」
どうして、それだけの理由で死ねる?
理想もなければ、特別すらもない、
漠然とした僕でさえ、こうして生きていられるというのに。
遺書を投げ棄て、空を仰ぐ。
街に降り注ぐ春の陽射しは、僕だけを嘲笑している。
どこかで咲いた赤いサイレンの音が、耳を劈く。
僕はここにいれば、きっと特別になれるのだろう。
犯罪者か、異常者か。
そんな特別に。
世界に見切りを付けて、次を求めようとした、彼女を食い物にして。
そうしなければ、
僕はずっと凡人のままだ。
だけど……。
「誰かを踏み台にするなんて、当たり前のことじゃないか」
春に睨まれて 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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