第四章 秋也
第32話
「ねぇ、この授業つまんなくない?」
シャーペンの後ろでワイシャツをつつかれ、横を向けばそこにあったのは隣の席の美少女の悪戯な顔だった。
黒板に書かれた大量の数字と、とある男子が問題を書いていた。俺は真面目だから目を離したくない……なんて自分に言い訳しては、心の中でビンタをして、隣の美少女に笑いかけた。
「まぁ、つまんないよね」
「じゃあ、抜けようよ」
「へ?」
抜ける?どうやって?――そう聞く前に、彼女は声をお腹を押えて下を向いた。
「せんせ……お、お腹痛くて…保健室いっていいですか…………」
「お、おお!?大丈夫か!?」
「松田くん……連れてってくれる……?」
「松田、連れてってやれ」
「え、ええー…わかりました……」
そうして隣のヘンな女子を―――城野 夏莉の肩を支え、教室から出ようとする。一部の男子が「松田ずるいぞ」だとか、「羨ましい」だとか騒いでいた。当の本人はどんな顔をしているのかと思えば、長い髪の毛で横顔すら見えなくなっていた。ぼんやり見えた肌の色はあまりにも白くて、「白くね!?大丈夫!?」と、声を上げてしまった。教室内から「早く連れて行ってあげて」などと声が上がった。本当に具合が悪かったんだと思って、急いで保健室に向かった―――彼女の首筋は少し汗ばんでいて、更に焦って無我夢中で保健室に運ぼうとして…その直前で彼女は足を止めた。
「行くよ!!」
「え!?」
強く手を掴まれ、そのまま非常階段の方向に向かって走っていった。
「まじウケる!廊下ダッシュとか楽しくない!?」
「楽しくないって……!元気なら教室戻ろうよ!!」
「いーから!」
道中の自販機に慣れた手つきで100円玉を入れていた。彼女が買ったのはオレンジジュースと緑茶。どっち飲む?なんて……。そりゃあ、オレンジジュースに決まってる。
「オレンジジュース好きなんだよね、俺」
4月にしては寒い日だった。非常階段は風が強く吹き付けて、カーディガンを席に置いてきたことを後悔した。
「4月から授業サボるとか、悪い男だね〜」
「いや城野さんが無理矢理連れてきたんじゃん…」
「名演だったでしょ、体調不良」
「うん、本当に具合悪いのかと思った」
「こういう時は大女優顔負けだからねっ」
「ふっ、変な人」
「変なのは松田くんも一緒でしょ、数学の時いっつも黒板見てるくせにさぁ、ノートに書いてるの、カービィの落書きじゃん」
「え!?いつからバレてた!?」
「2回目の授業から」
「うわー…マジか……」
「てっきり最初は数学好きなんだと思って、頼りになりそーって思ったんだけどねぇ……」
「てことは、城野さん数学苦手なの?」
「うん、マジ無理」
「数学ってか勉強全般無理そうだね」
「は〜〜!?松田くんって随分生意気なんだね!!」
脇腹を軽く抓られ、笑われた。
いや、笑いあった。それが夏莉と初めてまともに話した瞬間だったと思う。インパクト強すぎて忘れたくても忘れらんねえ……あの日、俺本当は数学受けてたかったんだよ。城野って迷惑なやつなのに、嫌いになれなかった。むしろ、友達としては普通に好きになりそうだった。趣味も合う、話も合う、ゲームの話がめっちゃ楽しくて…絶対仲良くなれると思った。
「で、最近練習して99のリコイルができるように……ってやばい!!時間めっちゃ経ってる!!飲み物飲みきった!?」
「ええ!?飲みきったけど!?」
「そのまま持ってったらバレるから、さっきの自販機のとこ捨てるよ!!」
「ちょ、待っ!」
足だけは早かった……。俺より早かった。
―――いや、足だけじゃなかったんだろうな。
今となっては、生きるスピードも、人生の道も、何もかも、夏莉の方が早かった。
教室のある階につくと、急に歩き出した。
「これで息整えんの。私が言い訳するから、松田くんはなんも言わないで」
「わ、わかった……ってか妙に慣れてんな」
「中学の頃似たようなことやってた」
「ヤベェやつじゃん……」
いよいよ教室の扉が近づいて、城野さんは躊躇なく扉を開けた。
「戻りました」
「随分遅かったな」
「保健の先生いなくて…松田くんが探し回ってくれたんです」
「おお…汗すげえな」
その言葉で急いでうなじを触る。城野を追いかけるときにだいぶ消耗したらしく、汗が滴っていた。
「あ……はい、結構探したんで」
「お疲れ様」
そうして席に着くと、城野はノートの切れ端を渡してきた。
『楽しかった ありがとう』
この日から、俺らは仲良くなった。
そして、俺の人生も大きく変わった。
真面目でつまらない、称号は「顔だけイイ陰キャ」だった俺が、悪ノリや不真面目な発言、テキトーに生きるようになった。
いい変化かどうかはわからない。当時の俺が嫌いなタイプの人間になっていってしまったが、それも全て夏莉のせいにして、ヘラヘラと笑っていた。
夏莉はもう、この日の出来事を忘れているだろうけど―――。
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