第3話 白にも黒にも成りきれない⑤

 それから。

 つつがなく食事は終わった。少年の自己紹介や、質問攻めこそあったものの、それもまた何事も無く終えた。

 そして施設の案内。簡単に言えば、これから少年が住む部屋と、水場の案内。これもまた特筆することなく、終了した。

 そうして時間は。あっという間に過ぎ去って。


「わあ……、こうなってるんだ」


 日は次第に傾き始め、平等に差し込む光は、やがて細長く消えていくだろう。

 そんな昼とも夕方とも取れる時間帯。

 カフカとナズナ、そして少年は学舎の外に出ていた。もうすぐ日が暮れるこの時間。眼下に広がるその光景に、少年は息を飲んでいた。

 朱色の灯かりが、丘の下を覆っている。青かったそれは、色を変え、何処までも遠く、橙色に塗り潰される。そして、それは宙も同じ。炎のように燃える緋色が、続いている。

 幻想的であり、哀愁的だった。


「初めて、見たの?」

「うん。記憶、無いから……」


 結局。

 この一日では少年の記憶が戻ることは無かった。唯一分かったことと言えば、オセロが好きなことぐらい。ただそれだけでは、仮説こそ立てられるが、そこに留まってしまう。

 具体的な解決にまでは至らなかった。


「ゆっくり思い出せば良いんですよ。あなたさえよければ、何時までだってここに居ても良いですから」

「うん、ありがとう。カフカ。それと、ナズナも」


 仰々しく、少年は頭を下げる。ここにいても良いと、許可をしたのは園長なので、その感謝の言葉は筋違いだ。けれど少年は重ねて、続ける。


「今日は、楽しかったよ。こんな僕に、優しくしてくれて。今までで一番、楽しかったかもしれない」


 日の光を受けて、その表情に影が差す。しかしその声色で、その音の調子で、彼が喜んでいるという事が伝わってくる。


「そこまで言ってくれると、なんか照れますね。素直に嬉しいです」

「僕は今まで黒の世界だけを見てきた。一つだけあったのはオセロのそれだけ。でも、今日は真っ白な世界だった。本当に、ありがとう」


 それを見たカフカもまた、頬を綻ばせる。面と向かってお礼を言われるというのは、気持ちいいものだ。少なくとも、真っ直ぐに生きている人間にとっては、それが当然。

 けれど、ナズナは。

 その表情を曇らせた。


「今まで、ということは。他の記憶が、あるの?」


 呟くように発せられた言葉でも、音も無いこの世界では嫌でも耳に残る。それは必然的に、少年にも届いていた。


「今日だけにしか、記憶がないのなら。そんな言葉はきっと、出てこないはず。何か、思い出した?」

「……えと」


 空気が硬いそれに変わった。

 もうじき、夜が訪れる。既に宙に穿たれた白円は昇り始めており、後は空間の色を染めるだけ。それが終われば、夜が来る。

 しばらく無言が続いた。


「その……」


 初めに口を開いたのは少年。それと同時に彼の表情が、俄かに強張る。そして放たれた声もまた、調子を落としたモノに変わっていた。


「思い出せたっていうか、元からあった記憶って感じ、かな。それでも、詳しくは憶えてないんだけど」

「どんな記憶?」


 間髪入れず、ナズナが尋ねる。若干戸惑ったように、けれど力強く、少年はそれに応じる。


「何もかも、物も家もぐちゃぐちゃで。他の人なんか誰もいなくて。いても倒れてたりしてて。僕、ずっとお父さんを探してた。綺麗な青色の中で。ずっと歩き回ってた。それから、えっと。上から何かが降ってきて……」


 曖昧で。要領を得ない。目的は父を探していたというただそれだけ。そして、その記憶は恐らく、彼が見た最後の記憶なのかもしれない。オセロを覚えているのというのも、元からあった記憶、そこから引っ張って来ていたのだろう。

 尚も、少年は必死に思い出そうとしている。これ以上黙って待ち続けても、少年を苦しめるだけだ。

 ナズナはお礼を言い、思い出させることを止めさせた。


「ごめんね。辛い思い出、だったのに……」

「ううん。僕も、思い出せなくて……。カフカもナズナも頑張ってくれてるのに」

「そんなことありませんよっ。一番頑張ってるのは君じゃないですか!!」


 カフカの真っ直ぐな言葉に、照れたように笑う。


「じゃあ、私たちは仕事をしますか」


 既に日光は途絶え、闇が宙を覆っていた。今日も魚に魂を喰わせなければならない。

 その準備に向かう為、踵を返したカフカたちの背中に、弱々しい少年の声が掛かった。


「……あの。一つ、ううん。二つだけ」


 歩みを止め、振り返る。少年の瞳が見えない。表情が、読めない。怯えているのかもしれないし、疑問を解消したかっただけなのかもしれない。

 ともかく、声は続く。


「カフカとナズナ。それに他のお姉ちゃんたちは、何者なの? それにここって、どういう……」


 それは、当然と言えば当然。疑問に思うべき点だった。豹変した世界。丘に住む謎の集団。少女たちにとっては、これが当たり前となっている中、しかし少年にとってはそうではないのだろう。声には多分の戸惑いが含まれていた。


「えーっと……、なんて説明すればいいんですかね。私たち自身、自分たちが何者かって、はっきりと分かってるわけじゃないんで……。ナズナちゃん、どうしましょう?」

「別に、カフカちゃんの、言った通り。私たちにも、分からない。ただ、迷っている魂を。供養してるだけ」

「……たましい?」


 小首を傾げ、少年が尋ね返す。現状陥っている世界を知らないのであれば、魂にもまた馴染みが無いのかもしれない。


「魂っていうのはですね。球体の、金色に光る浮遊物なんですけど。それは後で見れますよ」


 疑問符を並べているであろう少年に、カフカは言葉だけで説明する。


「ともかくですね。私たちはその魂ってやつを持って行ってもらってるんですよ。それが、私たちのこの世界での役目、と言いますか。割り振られた仕事って言いますか」

「持って行って……? 誰に?」

「それも言葉で説明するのは……。あ、丁度いいところに!!」


 魚の骨です、と言っても信じてもらえないだろう。困り果てたように天を仰いだカフカは、そこで声を張り上げた。少年もそれにつられ、上を向く。

 骨が、飛んでいた。

 それも一匹二匹ではなく、数えきれない数で。

 宙を泳いでいた。

 唖然と。空いた口を塞がないまま立ち尽くしている少年に、カフカは笑い掛ける。


「これに魂を持って行ってもらうんですよ。どうです? 驚きました?」


 その問いかけにも少年は返すことが出来ない。確認するように辺りを見渡してみれば、他の少女たちもまたそれが当然であるかのように。光る球体をそれらに食わせている。


「これが。私たちの、今いる世界」


 何時の間にか隣に並んでいたナズナが、変わらない口調で呟いた。

 ただ見続け、驚くことしか出来ない少年を気にした様子も無く、ナズナはさらに言葉を紡ぐ。


「あれらの魂は。あれが何とか、してくれる。どうなるのか、何処に行くのかは。分からないけど。……そうそう。ここが、どういう場所か、だね。私も、園長先生に、教えてもらっただけ、だけど」


 謎の個体はやがてその場を離れ、しばらく回遊した後飛び立った。個体は群れを成し、それそのものが大きな塊のようにも見える。

 黒に映える、光り輝く白骨は。

 軌道を描き天に舞った。


「――ここは。世界が、一度滅んだ後。その世界。もう少し、詳しく言えば、逆転した世界」

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