第36話
その日から、僕と牧野の関係は変わった。
牧野は、毎日のように僕のアパートにやってきた。
部屋に入るとまず、シャワーを浴びる。僕の服を奪って着る。そして、布団の上に横になって、幸せそうな寝息を立てた。
僕も「失礼します」と言って、牧野の隣に横になった。彼女は何も言わず、頷くだけだった。五時間くらい眠り、昼過ぎに目を覚ますと、僕が料理を作り、二人で向かい合って食べた。腹が満ちると、壁にもたれてひたすら、ぼーっとする。いつの間にか眠っていて、日が暮れる頃に目を覚ました。
そんな日々が続いた。
牧野と一日の時間を共にする中で、気づいたことがある。
それは、彼女といるときだけ、悪夢を見ないということだった。
睡魔が誘うままに目を閉じ、目を開けると、時間が過ぎている。身体の怠さや、目のごろつきがきれいさっぱり消えている。涙が零れている。これが、世に言う「安眠」というやつだろうか? 牧野もまた、「篠宮くんと一緒にいると、よく眠れるのよね」と、すっきりとした顔で言ってくれた。
逆に、一人でいるときは、相変わらず悪夢を見た。
大量の死体の前に立ち尽くしている夢だ。
何度見ても慣れないもので、起きる度にトイレに駆け込んで吐いた。鮮明な夢を見たときは、吐くだけじゃなくて、涙を流した。そういう時に、部屋の扉を叩いて牧野がやってくると、堪らなく嬉しかった。彼女は顔を顰めて、「きもちわる」と言ったが。
毎日、ほぼ一日、牧野と一緒にいる日々だった。
一度聞いたことがある。
「なあ、学校には行かないの?」
「行かないねえ」
牧野は布団の上に寝そべり、間延びした声で言った。
「ねえ、あれから何日経ったっけ?」
「ええと、二週間だな」
カレンダーは八月を示していた。
生徒待望の夏休みはとっくの昔に始まっていて、窓の外では、世界の終わりのような激しい陽光が照り、アスファルトを焼いていた。道行く者たちのだらしなく開いた口からは「暑いね」という声が漏れ出て、それを聞くと、首筋をしょっぱい汗が伝う。
そんな、扇風機の前にいた方が安全な季節でも、うちの高校では夏期課外があった。僕は退学になったのだから行く必要は無いが、牧野はそうはいかない。
「ええと、もう夏休みか。まだ七月かと思ってた」
牧野は時間の感覚がわからなくなったニートのようなことを言うと、ごろん…と寝返りを打った。その拍子に、彼女の白い腹が見え、ドキッとする。
「二週間学校に行っていないのかあ…」
「一応行っておけば? 出席扱いにはならないけど」
「二週間、遅れているってことよね…。ダメね、もう追いつけないわ」
諦めたことを言うと、タオルケットを身体に巻いて目を閉じる。
「親も、好きにしろって言っているし…」
教室の隅で圧倒的存在感を放ち、常に成績上位にいた優等生の面影はもう無かった。ただ、布団の上に寝転がり、現実を忘れるために眠る、弱った女の子がいるだけだ。
昔の牧野を尊敬していただけあって、彼女が学校に行かなくなったのは少し寂しかったりする。でも、これが彼女の本来の姿なのだ。
牧野は今まで、自分の意思で勉強をしたことが無かった。
常に母親と父親の監視下に置かれ、手足を糸に繋がれたマリオネットのように動いていた。「この勉強をしなさい」と言われればそうして、「この学校を受験しなさい」と言われればそれに従った。もし成績が振るわなければ、料理を抜かれたり、罵詈雑言を浴びせられたりなどの制裁を受けたらしい。
その厳しい指導のおかげか、彼女は確かに優秀だった。だけど、彼女の両親や姉弟は、それをさらに超えていく。
牧野が一時間かけて覚えることを、姉は十分で覚えた。牧野が一週間の勉強で学年二位をとっても、彼女の弟は一夜漬けで学年一位を取った。そうだ、彼らは「天才」だったのだ。
常に天才な家族と比べられる日々。時には、「本当に私の子供なの?」「きっと病院で取り違えたのね」という、冷たい言葉も浴びせられた。
頑張っても、頑張っても、両親の理想からは遠ざかっていく。
こうやって学校をさぼり、一日中僕のアパートに入り浸れるのは、牧野の両親が娘を見捨てたからだった。
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