第33話

 ああ…、よかった。と安堵して、部屋に入る。生臭くなってしまった牧野を先にシャワーを浴びさせ、それから、僕も身体の汗を流した。風呂から出て見ると、「先に寝ておけ」と言ったはずなのに、牧野は布団の上に蹲り、雨に濡れる子猫のように震えていた。

「早く寝ろよ、心が、落ち着くんだろ?」

「うん…」

 牧野は布団に顔を埋め、首を横に振った。

「眠れないかも。あいつらの顔が、頭に浮かぶ…」

「ああ、そう」

「お願い…、一緒に、いて」

「ああ、うん」

 僕は頷くと、彼女の隣に横たわった。ごろん…と寝返りを打ち、背を向ける。

「深呼吸をするんだ…。そうしたら、別のことを考えよう。音楽を聴くのもいい。しゃべりたいなら付き合うよ。とにかく、感情をかき消すんだ…。きっと、眠くなるから」

 すると、僕の背に、牧野が額を押し当てるのが分かった。

 Tシャツ越しに伝わる熱を感じながら、じっとしていると、今度は首の辺りに腕を回される。震えて、弱弱しい手だ。遠慮しているのがわかる。

「いいよ」

 僕は下唇を湿らせてそう言った。すると、牧野は頷き、細い脚も僕に絡めてきた。獲物を捕らえる蛇みたいに、ぎゅっと抱きしめられる。

 半開きになった窓からぬるい風が吹き込み、カーテンランナーから吊るされた風鈴がチリン…と鳴る。部屋の気温が一度下がる。僕の体温が、〇・三度上がる。

「僕は…、眠るのはあまり好きじゃないんだ」

 牧野の手に、自分の手を重ねた。彼女の冷たい手がぴくっと動き、指を絡めてきた。

「よく、悪夢を見るんだ」

「…うん」

 牧野はさらに強い力で僕を抱きしめる。

「人を殺す夢。僕はどこかの病院にいて…、一面の血だまりの中に立っているんだ。見ると、そこには大量の人間が倒れて、死んでいる。僕の身体は返り血で真っ赤に染まって…、手には肉を削いだ後の生々しい感触が残っている…」

 嘲笑した。

「こんな夢を毎日見る。起きる度に、自分が殺人鬼なんだって突き付けられる。怖くなる。昨日は悪かった…、ほんとうに、びっくりしたんだ…。急に起こされたから」

「うん…、大丈夫だよ」

 囲炉裏に残った灰から火が灯るように、背中にしがみ付く牧野の胸に体温が戻るのがわかった。そのぬるい熱はゆっくりと広がり、やがて、彼女の指先を温める。そのぬくもりはさらに、絡めた指を通して僕に伝わり、心臓を温めた。二人の温度は、一定だった。

 熱が循環するような感覚が心地よくて、とろん…と、瞼が重くなる。

 ああ、ダメだ。寝ちゃダメだ。きっとまた、悪夢を見る。夢の中で僕は、人を殺している。気分が悪くて、悲しくて、悔しくて、怖くて…、また一歩、殺人鬼に近づく。

 眠気を払うように、寝返りを打って牧野の方を向いた。

 同じく、とろんとした目の牧野と目が合った。彼女の右頬には、昨日の傷があった。もうかさぶたになりかけている。彼女は、甘える猫のように、僕の胸に顔を埋める。背中に腕を回し、一層強い力で抱きしめてきた。

「殺人鬼に…、よくも、こんなことが、できるな」

 眠気を払うようにそう言った。

 牧野は顔を埋めたまま首を横に振った。

「ごめんね、酷いこと言って…」

「…そうか」

 彼女の華奢な身体を抱きしめる。そこに、性欲は存在しなかった。あるのは、孤独のみだ。

 もう、いいや。牧野が認めてくれたんだ。もう、僕は篠宮青葉ってことで、いいや。

「忘れているといいね…、起きたら、嫌なこと」

「うん…」

 そう言い合って、目を閉じる。

 日が暮れても、僕たちは一緒にいた。抱きしめ合った。その薄い皮膚の奥にあるものが、この胸にぽっかりと空いた穴を埋めてくれると信じていた。

 僕たちの足枷となる、悔しさや悲しみ、そして、死にたいと思う感情が、汗と一緒にこの布団に染み出すよう祈り、微睡みながら眠るのだった。

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