第32話
「うん…、じゃあ、殺してやるよ」
そんな言葉が零れ落ち、足元で砕けた。
「なんたって、僕は殺人鬼だからさ。首を絞めようか。ナイフで刺そうか…」
そう笑いながら言うと、牧野は少し落ち着きを取り戻した声で言った。
「急に…、どうしたの…?」
「退学になった!」
青空を仰ぐと、ぽろっと、目の端から涙がこぼれた。
「正義面した男子の鼻の骨と、歯を折ってやった。股間も蹴っておいた。綺麗に潰れているといいんだけどな」
「それで…退学になったの?」
僕は、ふんっと鼻を鳴らす。
「驚いているのか? お前らが前から言っていたじゃないか。『お前は殺人鬼だ』って。その通りにしただけなんだよ。殺されなかっただけありがたいと思え」
彼女を背負ったまま、何もない場所に向かって蹴りを放つ。空を切る、シュッ! とした音が響いた。そして、漫画に登場する敵キャラみたいに、「わっはっは!」と笑った。
「いやあ、すっきりしたね! あいつ、威勢だけは良いんだよ。簡単に蹴り飛ばされやがった。あいつの、血でぐちゃぐちゃになった顔、面白かったなあ!」
ため息をつく。
「牧野も、あいつみたいになりたくなかったら、僕の機嫌を損ねないことだな。なんたって僕は殺人鬼なんだ。その気になれば、お前の命も、あのクラスの馬鹿どもの命も、簡単に刎ねることだってできるんだよ」
「それ、本気で言っている…?」
牧野は機械のような声で囁いた。
「本気で、自分が殺人鬼だと、思っているの…?」
「思っているに、決まっているだろ…」
そう言った瞬間、声が震えた。頭の奥で、カチン…とライターのハンマーを下したような音が響いたかと思うと、喉の奥が熱くなった。無理に言葉を絞り出そうとすると、下唇までもが震え始め、視界が歪むのがわかった。
身体を支えられなくなり、立ち止まる。重い息を吐く。
「僕は…、殺人鬼じゃない…」
夕立のように、目から涙が溢れた。鼻水も垂れる。
「僕は…、普通に生きたいだけなのに…。なんで、邪魔するんだよ。放っておいてくれよ…」
決壊したダムから水が溢れるように、腹の底に溜まった不平不満が口を衝いて出る。
「大体、あんな煽られ方したら、誰だってキレると思うんだ。あれで殴り返さないのは、よっぽどの聖人か、軟弱者だよ」
小石を蹴り飛ばす。
「ってか、僕のことを殺人鬼って思うなら、静かにじっとしていろよ。『触らぬ神に祟りなし』って言葉を知らないのか。高校生なら知っていろよ…。まあ、それすら知らない馬鹿だから、ああいうことができたんだとおもうんだけど…」
感情の抑制ができない。
「先生も先生だよ。前々から保護者から苦情が入っているのなら、それ相応に対処しとけよ。厄介者払いできるみたいな顔して僕を退学にしやがって…。そうするくらいなら最初から合格判定出すなよ。差別はいけないって思ったみたいだけど、自分の手に負えるものかどうか見定めろよな…。野良猫を可哀そうだから拾って、結局は飼えずに捨てる馬鹿かよ…」
涙をぼろぼろと流しながら、ひたすら、罵詈雑言を浴びせていった。
「死ねよ…、みんな死ね…」
晴れて「高校中退」の称号を得た僕だったが、「これからどうしよう?」というよりも、「あいつらをどうしてやろう」とばかり考えていた。
悔しくてたまらない。きっとあいつらは、僕という獣がいなくなった教室で、安堵に満ちた顔で授業を受けている。「やっと、いなくなったね」「今まで大変だったね」って、さも悪の王を倒したみたいな気分に浸りながら。
僕が消えたことで、ようやく、彼らの青春が動き始めるのだ。そして彼らは卒業式の時に涙を流し、「最高の三年間でした! この高校に通えたことを嬉しく思います!」と言うのだろう。
生憎、僕は彼らの青春を思って身を引けるほど立派な人間じゃない。幸せなあいつらが、妬ましくて、たまらない。この感情も、お前らの罵詈雑言の中で熟成されたものだった。
ああ、悔しい。憎い…。妬ましい。いっそ、あの教室にいる全員、殺してやろうか? 幸田宗也がやったみたいに、足の腱を切断して、喉を裂いたり、肉を削いだり…。
今日の喧嘩でわかったんだ。僕は僕が思うよりずっと強いのだ。「惨殺」程度、できないことはない。だけど…、それをしたら…。
「ああ…、くそ…。僕は…、殺人鬼じゃないんだ…」
あの行為が、僕を殺人鬼と決定付けるものじゃない。はずだ。多分。今日はちょっとイラついただけさ。だから、判断を下すのは早計だ。でも、もう、学校に行けない…。
もう、お終いだ…。
そう思った時、背中の牧野が、僕を抱きしめた。一瞬はずり落ちそうになったからだと思ったが、違う。彼女は、僕のうなじに額を押し当てて言った。
「好き…」
「え…」
「私、あんたの布団が好き」
「あ…? ああ、そう」
ちょっと脱力する。涙が一ミリ引っ込む。
僕にしがみついたまま、彼女は自分の話をした。
「あんたはさ、私のこと、『天才』だと思っている?」
「え、あ、まあ…」
話が逸れて、少し困惑しながら頷いた。
「そうじゃないのか?」
牧野梨花を知らない者はいないほどに、彼女はその優秀な成績で人を惹きつけていた。定期テストでは常に上位で、運動も得意、そして、その立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花な所作。親や姉弟も優秀と聞く。そんな中で、「天才」と思わない方がおかしかった。
「違うの」
牧野は、やっぱり泣いていた。
「私は、出来損ないなの」
「いや、そんなことは」
「どうして、私が、あの高校に入学したと思う? あそこ以上に、偏差値が高い高校はいくらでもあるのに」
「それは…」
「失敗したの。受験に失敗してね、あの高校に行くしかなかった…。『龍の尻尾か鶏の頭か』なんて言葉があるけど…、私は後者…。そんなにすごくない…。その証拠に、母さんも、父さんも、姉さんも、もっとすごい高校に合格して、もっとすごい大学に通っていたから…。弟だって、小学校の時から私立に通ってた…」
彼女から放たれる「劣等感」というやつが、僕の背中にのしかかるのがわかった。
「役立たず…、出来損ない…。これが、母さんと父さんの口癖…。私が何かをするたびに、『役立たずの癖に』『出来損ないの癖に』って言うの…」
ああ、なるほど…って思う。
「それにね、あの人たち、私を、笑いの種にし始めたの…」
「笑いの、種?」
「ご近所の人から、お世辞でも褒められる時があるでしょ? 『お宅の娘さんは優秀でうらやましいですねえ』って」
「…あるのかな?」
ご近所づきあいは皆無なもので、想像がつかない。
牧野は続けた。
「そういう時、母さんは笑いながら言うの。『いえいえ、ただの出来損ないですよ』って。『姉さんは、もっと優秀な○○高校に通えたのに、あの子は××高校にしか合格できなかった。同じように育てたつもりだったのに、どうしてこんなふうに育ったんでしょうかねえ?』って言って、笑うの。自虐ネタってやつかな?」
また、牧野は肩を震わせた。
「こんなことも言われた…、『きっと、病院で取り違えたんだ』って」
チクリと、胸が痛む感覚がした。
「それは…、きついな」
「それ以来ね…、私、眠れなくなったの…」
肩のあたりに、牧野の涙が染みこむ感覚がした。
「自分の存在を否定されたことが…、悔しくて、悲しくて、苦しくて…、布団に入ったら、あいつらの『出来損ない』…『産まなきゃよかった』…『恥さらし』って言葉が浮かんで、眠れなくなったの…。学校では優等生にならないとダメで…、そうしたら、どんどん、睡眠不足になって、頭がぼーっとして…、死にたくなって…」
二週間前のことが、夏の日差しとともにフラッシュバックした。
「気が付いたら、自殺をしようとしていた…」
あの時、座り込んでいた僕に気づかず、コンクリートブロックの上に立った牧野。踊るように、ステップを踏み、川に飛び込んだ牧野。首を吊ろうとした牧野。
ああ、そういうことか…。
「気絶して、あんたの部屋で休んだことがあったでしょう? あの時に、久しぶりに、安眠できたの。すごく気持ちよかった…。起きると、目が、すっきりしていた…、それでね、気づいたの」
「うん」
「悲しい時は、眠るの」
僕は頷きながら進む。
「悔しい時は、眠るの」
「うん…」
「死にたいときは、眠るの」
僕たちの横を、自転車が通り過ぎた。
「そうすればね、目が覚めたら時間が過ぎている。それに気づいた」
「当たり前じゃないか…。惰眠を貪ればそうなる」
「ううん、これは無駄な時間じゃない。有意義な時間。当たり前の話ね…、誰だって、ずっと走り続けたら死んじゃうでしょ? 嫌な時間が過ぎるだけじゃないわ。悔しいと思ったこと、悲しいと思ったこと、死にたいと思ったこと…、全部、起きたら、少しだけ忘れているの。一時的にだけど、『なんとかなるんじゃないか?』って思えるようになるの」
「単純な脳で幸せなことだな」
「それでね、そうやって眠ることができるのは、あんたの布団の上だけだって、気づいたんだ」
「…そうか」
だからずっと、学校が終わると、僕のアパートにやってきた。眠れなかった分を取り戻し、嫌なことを一時でも忘れるために。
「でも、今日は、我慢できなかった…」
僕を抱きしめる力が強くなる。ぐちゅ…と、彼女の身体から滴る川の水が、僕の皮膚に染みこんでくる。
「私が、塾に行っていないことがバレたんだ。いずれバレることだけど、一応、バレない努力はしていたよ。でも、ちょうどその日、模試の成績が落ちていることを通達されちゃって…。だけど、怒られなかった。母さんはせっせと夕食を作っていて、父さんは、忙しいなあって言いながら仕事をしていた…。それで、『怒らないの?』聞いたら、言われたの、『さぼるような軟弱者は、この家には要らない』って…」
「そうか」
「塾に行かないなら学校を辞めろって言って、退学届に名前書いて、私に渡したの。もう目の前が真っ暗になっちゃった。二人とも、楽しそうに話してた。『出来損ないの娘がいなくなって清々したわ』…『あいつ、なんであんなに役立たずだったんだろうな?』…『きっと、病院の先生が取り違えたのよ』…『ああ、そうか。納得だ』…『じゃあ、早く交換してもらわないとね』…『ああ、出来損ないは出来損ないの親に返さないとな』って、楽しそうに…」
牧野はしゃくり声をあげた。
「その日も眠れなくて…、でも、頑張って学校に行こうとしたよ…、退学届を出さないとダメだから。でも、途中で辛くなって、どうしようもなくなって」
はあ…とため息。
「それで、川に飛び込んでいたの」
牧野の身体に染みついた川の水の臭いが、僕の鼻を突いた。
「ありがとうね、来てくれて…」
「ううん、死ななくて、本当によかった…」
歩き続けて、ようやくアパートに辿り着いた。
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