第31話
次に目が覚めた時、僕は生徒指導室のソファの上にいた。
救急車は呼んでくれなかったようだ。鼻の下で血が乾いていて、頭が酷く腫れあがっていた。お腹もじくじくと疼く。
身体を起こすと、向かいのソファに、校長先生が座っていた。
「………」
ああ、終わったな。って思う。僕は豚箱に入れられるのだ。
「危険です。校長先生」
壁際に立っていた生徒指導の先生が言った。
「彼は殺人鬼です。すぐに警察を…」
「そうです。危ないですよ。また、人が傷ついたら…」
隣にいた体育教員が援護射撃を行う。
校長先生はこくりと頷くと、二人に出て行くように命じた。
二人は最後まで「危ないです」「警察を呼びましょう」と言っていたが、最終的には出て行ってくれた。
生徒指導室には、僕と校長しかいなくなる。
「……」
なんだか、厳かな話が始まるのだと悟った僕は、姿勢を正して座った。途端に、背中に痺れるような痛みが走る。
顔を顰めていると、校長先生が静かに語り始めた。
「今回の件…、きっと君は悪くないのだろう。生徒らから話を聞いたよ。三宅君が、君を挑発したって。それで、君は怒ったわけだ」
「あ…、はい」
なんだ、わかってくれているじゃないか。
「だけど、君は、獣と同じなんだよ」
「あ? 何言ってんですか、クソジジイ」
僕の乱暴な言い方に、校長先生は眉に皺を寄せたが、気を取り直して言った。
「山に生きる獣に罪はない、だけど、町に降りてきたら、それは殺さないとだめなんだ」
「僕が獣?」
校長室に、僕の苛立った声が響いた。
「違うね、僕は人間だ」
「いいや、君はクローンだろう?」
それを、教育を尊ぶ者が言うのか。
校長…じゃなくて、クソジジイは目元を覆って項垂れた。
「これは言うべきか迷っていたんだが…、ずっと、保護者の方から苦情が寄せられていたんだ」
「………」
まあ、想像はつくよ。「殺人鬼と同じクラスなんて危険すぎる」「クローンなんてものと一緒にいるのは、うちの子供に精神的ダメージが大きい…」、とでも言われたのだろう。小学生の時も言われた。中学生の時も言われた。
もう慣れっこだ。
「『早々に退学させてくれ』ってね」
「そう、ですか」
「もちろん、断ったよ。私も、君がただ殺人鬼と同じ姿をしている人間で、まともな生活を送ろうとしているってわかっていた。その気持ちを尊重して、君をこの高校に招いた。だけど…」
校長先生はぎゅっと目を閉じ、絞り出した。
「分かり合えないって、わかっただろう?」
「………」
三秒ほどの沈黙の後、僕は頷いた。
「そうですね。分かり合えない。いや、あいつらはわかってくれなかった」
ジジイは首を横に振る。
「これはね、逃げではない。戦略的撤退だ。君の心がこれ以上傷つかないためなんだ」
校長の皺だらけの手が、僕の肩に触れる。どうしようもなく、震えていた。
「君は悪くない。今回の暴行のことは不問にする。君が怪我させた男子の親御さんには、私が説得をする。だから…、もう」
「…はい」
「学校に来ないでくれ」
その日、僕は退学になった。
あれだけ頑張って勉強したのに、あれだけ、静江さんに褒められたのに、退学になった。
部屋を出ると、廊下に僕の荷物が置いてあった。なるほど、教室に取りに戻ることもさせてくれないらしい。
鞄を持つと、そのまま靴箱に向かった。その途中、見知らぬ女子生徒とすれ違う。彼女はまるで化け物を見たかのように、「ひっ」とひきつった声を洩らし走って行ってしまった。
靴を履きかけたとき、図書室で借りた小説を返していないことを思い出す。鞄の中に手を入れると…、あった。
分厚い本を掴んだ僕は、外に出て、校舎をぐるっと回り、職員室の前に立った。本を握ったまま大きく振りかぶると、投げる。それは、重々しい軌道で飛んでいき、職員室の薄汚れたガラスに直撃した。
ガシャンッ! とガラスが散り散りになる。若い女性教員の悲鳴が聞こえた。
流石二十六人を殺した幸田宗也の肉体だ。肩の力、腕力、そして制球力、すべてが申し分ない。「殺人鬼」という肩書さえなければ、この高校で投手として、素晴らしい活躍を見せていたに違いない。まあ、この学校に野球部無いけど。
「誰だ!」
面識のない先生が顔を出した。僕と目が合う。怒鳴られるのかと思いきや、先生は「あっ!」と顔をひきつらせた。襲撃されていると思ったのか、震えた声で言う。
「な、な、何を…、しているんだ」
「本、返しておいてください」
僕はそう言って微笑むと、踵を返した。
ぱたぱたと走って、校門を出る。振り返る。校舎に取り付けられた時計はちょうど十三時を指していた。
そう言えば、昼飯を食う暇が無かったな。まあ、食欲無いけど。
「………」
まだ頬がチリチリと痛む。それをかき消すように三歩進む。そして、立ち止まる。
ポケットに入れていたスマホが、震えたのだ。
「……」
取り出すと、牧野梨花からだった。
ああ…、そう言えば、今日は彼女の姿を見ていない。昨日のあれのせいで、学校で僕と会うのが嫌だったのだろうか? それとも…。
とにかく、スマホを耳に当てると、消え入るような声が聞こえた。
『ねえ…、今、来られる?』
「え…?」
『ごめん…、早く、来て…』
泣きそうな声。いや、もう泣いているのか?
「何処にいるんだ?」
『○○橋の下…』
「ごめん…」
僕はスマホを耳に当てたまま、首を横に振った。
「僕に、君を助けるような資格はない」
『お願い…、動けないの…』
掠れた声が、僕の心をかき乱す。
『昨日のこと…、怒ってないよ…。ちょっと、怖かっただけだから…』
「…わかったよ」
退学という、人生最悪の節目の時でも、牧野のことを放っておくわけにはいかなかった。
スニーカーの靴ひもを締めると、もう必要ない鞄を放り出して飛び出した。通話は切らず、スマホを持ったまま走る。信号のない道路を突っ切って裏路地に出ると、犬の散歩をしているおばさんを横切ってさらに足を速めた。
海面を藻掻くように走り、そして、牧野が指定した橋に辿り着いた。
呼吸を整える暇もなく、シロツメクサが生い茂った土手を下りた。川の臭気に顔をしかめながら橋の下に入る。すべてが白く褪せる真夏の昼間でも、そこは薄暗く、ひんやりとしていた。
牧野は、コンクリートの壁に引っ付いて、蹲っていた。
「牧野…」
「ああ…、来てくれたんだ…」
弱弱しい声とともに、牧野が顔を上げる。薄暗い中でも、真っ青になっているのがわかった。
それだけじゃない。川に飛び込んだのだろう。牧野の制服はぐっちょりと濡れ、肌に張り付き、彼女の体温を食らっていた。
捨てられた子猫のように震えた牧野は、僕を見て無理に笑った。
「だめかと思った…。ありがとう」
通話を切り、スマホをポケットに突っ込むと、牧野の隣に腰を掛ける。
「何かあった?」
「死にたくなった」
濡れた前髪をかき上げて、力なく笑った。
「学校に行こうとしたら…、急に死にたくなって、気が付くと、川に飛び込んでたの。馬鹿みたいだね。水泳やってたから、溺れるわけがないのに…」
「どうしてまた…」
そう聞くと、牧野は濡れたスカートに顔を埋めた。そして、肩を震わせ、静かに泣いた。
僕は、彼女の震える肩に触れた。
「とりあえず、戻ろう。シャワーを貸すから。このままじゃ、風邪を引くよ」
「うん…、ごめん、動けない」
「わかった。じゃあ、立てるようになるまで待つよ」
牧野は膝に顔を埋めたまま首を横に振った。
「おんぶして…」
それを聞いた僕は、何も言わず、牧野に背を向けてしゃがみ込んだ。
牧野は何も言わず、僕の背中にしがみつく。
僕は牧野の華奢な身体をおぶって立ち上がった。夏だというのに、彼女の身体はプラスチックの人形のように冷えていた。
歩き出す。
牧野は僕の肩に顔を埋めると、震える声で言った。
「死にたい」
「うん…、じゃあ、殺してやるよ」
そんな言葉が零れ落ち、足元で砕けた。
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